その少女は揺るがない
前置きが長くなってしまいました。
お待たせしました、今回からが本当の本編となります。
「会いましたと言ってるんです」
他の解釈を一切許さない、勘違いするようなルート全てをぶった切る勢いでウルフヘアの少女はそう告白した。
今記憶している全ては夢ではなく、かといって自分の錯覚でもない。
そう納得するに十分な言葉を聞かされて、逸人ははっとした表情を見せる。
「会って……」
「はい、そうです」
少女が再度告げれば、ベッド上にてホラー映画の犠牲者一秒前というポーズを取る男――逸人は姿勢を粛々と正しながら、しかしその過程で首を傾げた。
「会って…………いや、ん?」
「会ったと言ってるんです。どうして聞いたほうなのに私より飲み込みが遅いんですか」
それだと色々と噛み合わなくないか、と逸人の頭には少女の言葉に棘を感じる余裕すらない。
「え、なんで……時間、そうなると……」
うわ言のように疑問を口にしながら、逸人は感覚で枕元に手を伸ばす。
そこには当然のように自身の携帯が置かれており、画面には白い光で紛れもなく12月24日の7時10分の表示。
けれど。少なくとも今より遅い時間、記憶の中では何度かスマートフォンで時間を確認している。彼女とこの部屋で会う直前にも、確か今より2分ほど遅い時間を目視したはずだ。
彼女と顔を合わせた記憶はそれ一つで、されど記憶にある時間は今より後のことだ。
その邂逅が夢だったなら時間の説明はつくが、出会ったのが夢ならば少女とは初対面のはず。
反対に既に出会っているというなら、時間軸に矛盾が生じる。
「この部屋で?」
「それ以外に会ったと言われれば、人違いか妄想ですが」
つまり会ったのはこの部屋で、件の待ち合わせとやらは関係ないらしい。
現在進行形で情報整理に勤しむ逸人の意識には、少女の言葉に込められた無駄な情報は削ぎ落されて受信されていた。
「ようやく、気が付きましたか」
再度スマホの画面に視線を落とす逸人に対して、少女は静かに告げる。
その間もなお逸人は思考と記憶のサルベージを繰り返し、その過程で完全に別の何か大事な情報に今辿り着こうとしていた。
「私たちはさっき、この時間に会ったにも関わらず、そこから体感何十分と過ごした後、今また同じ部屋の中で会っている。つまり――」
「……そうだ!」
少女が結論を口にしようとしたタイミングで、逸人は声を上げる。
思い出した、今自分が一番確かめなくてはならないことを。
「っ、な、なんですか急に。いいですか、とにかく」
「いや、そんなことより」
「そんなことじゃないんですが?」
逸人の言葉に少女が間髪入れずに反論するも、逸人はまったく聞いていない。
「ごめん」
「謝るぐらいなら最初から――」
「ちょっと行くところあるから、また後で頼む!」
「……は?」
今はよくわからない話に取り合っている場合じゃない。
逸人は両手を合わせるジェスチャーで謝罪の意思を示しながら、携帯だけを持って急いで部屋を後にした。
「……」
部屋に取り残された少女は一人、ベッドの前でまたも立ち尽くす。
「……いや、話の途中ッ……!」
開いて閉じた扉を見送った後、少女は悪態を吐きながら慌ててその男の後を追いかけた。
♢
「人のことっ、呼び止めておいてっ、まだ、とちゅっ……!」
逸人がエレベーターからホテルのロビーに下りたタイミング。
横から現れた少女は目の前で急ブレーキ、息を荒げながら逸人の行動を咎める言葉を吐く。そしてスタミナ切れで崩れそうになる身体を支えるよう、両膝に手をついた。
「……?」
どうしてそこまで疲れているのか。そもそも、どうしてついてきているのか。
「エレ、ベーター! ないから、走ってきたんですっ!」
逸人が疑問の視線を向けていれば、少女は自分が出てきた方向にある階段を指す。
「え、ごめん。声に出てた?」
「すっ、ふー……。はい、『なんでそんなに疲れてるんだこいつ』って、顔に書いてありました」
いや、そこまで攻撃的なことは考えてなかったけど。
先ほどは自分の思考に完全に気を取られていたため、今初めて少女の言葉を一から十まで聞いた逸人は、反射で出かかった言葉を寸前で飲み込む。
そんな無駄なやり取りをしている暇は、今の自分にない。
「でもごめん、本当に外せない用があるから。話があるなら後にしてくれると」
「いえ、無理です。一二を争う状態です。私の用も外せません」
一歩引くのに丁度いい言葉で丁重に断ったつもりの逸人だったが、少女はそのラッピングされた選択肢を完全に無視して我を押し通す。
「いや、だからこっちも」
「はい、わかってます。あなたが急いでるのもわかってます。何の用かはわかりませんが」
逸人がどう断ろうかと少女の方を見れば、彼女の灰の目には引く気はないと固い意志が宿っていた。
「あなたについていきます。走る必要があるなら走りながら、一方的でもいいので話をさせてください」
出会いや経緯がどうであれ、それは逸人が今まで聞いてきたどんな言葉ですら霞むような熱意が籠っていた。
理屈上は何一つ問題なくとも、倫理的・常識的に簡単には頷けない提案を真っ直ぐな視線と共に受けて、逸人は少し考え込む姿勢を取る。
自分が今すべきことが何であれ、それを引き合いにして目の前の人間の頼みを切り捨てるような順位付けをしてもいいのか。
「……心配だ」
数秒、黙り込んだ上で逸人はそう口にした。
「これでも体力には自信があるので。心配しないでください」
「そうじゃなくて」
自信ありげに自身のシュッとしたスニーカーを指す少女を一瞬見て、そのまま逸人は天井を見上げる。
ホテルロビーの高い天井には、絢爛とした輝きを放つシャンデリアが短く吊るされていた。
「怪しい壺とか買わされるのかな、って」
「私のことなんだと思ってるんですか?」
シャンデリアを見上げたまま取り繕いのない素直な疑問を零せば、少女は低い声で返した。
「え、知らない人」
「会ったことがあるって話は?」
「ちょっと喋っただけで知り合いは……まあ、そういう人もいるだろうけど」
そこまで話して、逸人は息を吐く。
少女の背後、裏方から出てきたのであろうホテルのスタッフが襟を正しながら様子を窺いに来ているのが見えて、「お騒がせしてますが、大丈夫です」と申し訳なさに満ちた視線を送る。
「……走らなくても、少し急ぐくらいで問題ないはずだから。いいよ、話くらい」
どう転ぼうと、頼まれた時点でこうなることは決まっていた。
数年前から変わらず、傘木逸人という人間は困っている相手を放っておける性質ではなかった。
「多分、困ってるんだよね?」
「いえ、困ってはいません」
「じゃあ、急いでるから話聞かなくていい?」
「それなら困ってるということでお願いします」
どう言葉を返そうと強かな受け答えをする少女に、「記憶と違いすぎる」と逸人は隠しきれない当惑を見せる。
そんな彼女を連れて、目的の場所を目指して曲がりくねった出口からホテルを後にした。
♢
「それで、後じゃダメな話ってなんですか」
「どうしてあなたが敬語になったんですか」
私が改まるならわかりますけど、と胡乱な目を向けて少女は続ける。
流石に車道ほどではないが、休日に来訪する人数を想定して作られた広い歩道。二人は前後左右に絶妙な距離を空けながら、隙間なくコンクリートに覆われた上を早歩きで進んでいた。
「急なことでついタメ口になってましたけど、初対面の方相手でそれは失礼だったなと」
頼み込まれている側ではあるものの、どうやら自分は嫌われているらしいというのを逸人は理解していた。
だからこそ馴れ馴れしい口調を改めて、距離を取ろうという提案だった。
彼女の語気や態度は、あからさまに「私はこの人に反感を持っています」という感情で満ちている。
そして更に言えば、その原因となる行動を取ってきたという自負もあった。
思い返してみよう。
ラブホテルを相手の部屋だと断定し、話すことはないと言って一方的に部屋を出て、今度はこちらから呼び止めておいて相手の話を聞かず、悠々とエレベーターを使っている間階段で追いかけさせた。
こう並べてみると、事情があったとはいえクズ大学生にしか見えない。むしろこんな奴に何の用なのか。
「いいですよ、敬語だと気持ち悪いので」
「今ついでに罵倒した?」
「曲解です。気分が悪いとは言ってません」
だが色々なことをしてきたとはいえ、それでも今話している相手が記憶の中の彼女と同一人物だとは思えない。
何をどうすれば、あれがこうなるのか。逸人は理解に苦しんでいた。
信号に引っかかって足止めされること数秒、目の前の歩行者信号が青になる。
「――今の状況を簡潔に言えば、時間が巻き戻っています」
少女は自身の視界の中にあるランプの色が一斉に変わったことを適切なタイミングに見立てたようで、歩き出すと同時に話を切り出す。
「……うん。それは知ってるけど」
時間が戻っている可能性には、エレベーターに乗っている間に思い当たっていた。
といっても、状況証拠だけで決めつけるには流石に突拍子のない理屈。それこそ少し前に思い浮かべた精神の入れ替わりと変わらない。
しかしそんなことを言ってしまえば、自分がホテルで寝ていた今朝のことから今現在に至るまで全てが突拍子もない状況。もはや常識を超えた部分、「ああきっと、今年の今日明日はそんなこともあるんだろうな」と、冷静さを欠く頭は半信半疑で認識していた。
「は? さっきあんなに飲み込みの遅かった人がドヤ顔でマウントですか。腹立ちます」
この超常的な現状で、数多の物語と異なるのは状況を共有する相手が有り得ないほどに心を閉ざした上で口が悪いという点くらいだろう。
どうやら自分で思っている以上に彼女の抱く恨みは強いらしい。
心の距離が遠すぎて、逆に建前も遠慮もないナイフが背に突き刺さったのを感じながら、逸人は少女の機嫌を取るための言葉を探す。
「いや、まあ、知ってるは噓だったかもしれない」
「見栄張ったんですか。……うわ」
自分の行動のどれか一つが彼女の逆鱗にでも触れたのか、それとも怒りの積み重ねだろうか。
やはりホテルの部屋の勘違いだろうか。確かに、そこがいかに豪華な印象が薄膜のように張られた一見上質な部屋であっても、ラブホテルには違いない。自分が言われたらと考えると、少し来るものがある。
「時間の遡行は一度ではなく、何度でも起こります。時間が戻っているというより、ループに入ったと言うべきでしょうか」
「本当にそうだとして、どうしてそんなことが君に?」
「慣れているからです。そこまで日常茶飯事というわけでもないですが」
逸人は時折質問を挟みながら、想定される現状を組み立てていた。
彼女が集団催眠を得意とする詐欺集団の一員でも、また妄想癖と口の悪さが極まってしまったコミュニケーション能力の壊滅的な学生でもないのなら、現状傘木逸人の経験してきたクリスマスの遍歴を超える事態に遭遇していることになる。
その言葉の真偽を確かめようと様子を見れば、少女は前を歩く逸人の後ろ姿には目を合わせることなく、いつの間にか曇って明度の落ちた街に焦点を合わせている。
「本来、私以外に記憶を持ち越している人はいません。少なくとも今まで会ったことはありませんでした。ですがあなたは、どうやら前のことを覚えているようで」
彼女はため息を吐く。
そこからは非日常が共有できていることへの高揚など微塵も感じない。ただ鬱陶しさと面倒さだけが聞いて取れる。
足を前に送る速度は緩めることなく、逸人は一抹の疑問に触れることにした。
「その覚えてるって話で言いたいことがあるんだけど、もしかすると俺は君と会ってないかもしれない」
「どういうことですか」
これは、皮肉ではないんだけど。
話題に少女が興味を持ったのを確認した上で、事故を極限まで減らすために逸人はそう前置きをする。
「前会ったときはもっと明るくて優しい子だったような気がするから、もしかすると勘違いかもと思」
「それなら会っていますね、問題ないです」
それはもしかして冗談で言っているのか。
今の彼女が「明るく優しい」という評価を自身に下しているのかと、頭に過ぎった思考を逸人は振り払う。
流石にそんなわけはない。今までのやり取り、自己評価に幾つ色眼鏡を掛けても優しいなんて言葉は出てこないだろう。
つまり今の言葉は、明るく優しいと受け取られるように接した自覚があるという意味合いだ。
そうだったとしたら、多少不信感は抱いていたとはいえ彼女はとても演技が上手いらしい。
その演技力、どうせなら今も少しくらいは発揮してもらえれば良かったのだが。
「なんですか」
「なにも言ってない」
「ならこの先も何も言わないで、そんな都合のいい幻想はすぐに捨ててください」
少し前まで感じていなかった視線が、鋭く背中に抗議するように突き刺さっている感覚が逸人にはあった。
「その、時間のループの話だけどさ。今まで何回かあったなら、抜ける方法とかもわかってるのかな」
言葉と同等の痛みを孕んだ無言の空気を誤魔化すために、逸人は少女の話を自発的に進める。
こんな話を嫌いな相手に頼み込んでまでしてきたということは、何かしら明確に目標が分かっている上で協力を持ち掛けていると見るべきだろう。鵜呑みにするわけではないが、この現象の経験者というなら猶更だ。
「わかりません」
しかし返ってきたのは逸人にとって予想外の回答だった。
「経験者って話じゃなかった?」
「毎回、時間が戻る条件は変わるんです。その条件が満たされたタイミングで時間は戻ることになるので、それを阻止するのがループを抜ける方法といえば方法です。そこで一つお聞きしますが」
具体性に欠ける言い方。それでも逸人は、問われる前からその条件について否が応でもあの瞬間を連想する。
「時間が戻る直前、あなたの近くで変わったことはありませんでしたか」
地面を踏みしめる足音、機械のように等間隔に刻まれていた逸人のそれがほんの僅かに遅れる。
「あー……」
次の一歩にはもうその速度を完全に戻し、確かな足取りで身体を前に進めていた。
誤魔化したところで、これは多分仕方がない。
「電車に轢かれたかな」
少女は会話相手のあまりに軽やかな言葉に、逸らしかけていた視線をまたその背中に戻す。
けれどそれも一瞬、行き先を迷わせた末に少女は自分の履く白いスニーカーに目を落とした。
「……そうですか。でしたら、駅に行かなければ時間は戻らないようになるかもしれません」
「そういうもの?」
「場合によりますが、そういうものの時もあります」
そういうものかと納得した逸人の目的地は、それでも変わることはなかった。
そこで少女は、張っていた糸を切らしたように詰まらせていた息を吐く。
「話はこれだけです。もっと色々、疑問や混乱があるものと思ってましたが」
「まだ飲み込めてないだけだよ。今は正直、別のことで頭がいっぱいだから」
「外せない用事ですか」
逸人はその言葉には答えず、代わりに歩く速度を少しだけ上げる。
その視界には丁度、何語か分からない海外の言葉を使って男がナンパを試みる様子が映っていた。
見覚えがある。そして、このペースなら余裕を持って着くことが出来るはずだ。
「お聞きしてもいいですか、その用事とやら」
少女の方から話を振られたことに意外性を感じつつ、逸人はそれにどう答えたものかと言葉を思案する。
しかしそれについて今までずっと一画の思考機能を費やしていた頭では適切な嘘も見当たらず、先ほど類似することを言ってしまったのを思い出して探すのは諦めた。
「ちょっと、人の命を助けようと思って」
電車が駅に到着した、あの瞬間を思い出す。
あれは別に、自分が突き飛ばされたわけではない。むしろ引っ張られた、いわゆる巻き込み事故だ。
つまりあの学生は、自分とは関係なく線路へと飛び込もうとした。巻き込まれたのはきっと自分の運が悪いせいだと、その理不尽に逸人はどこか確信めいた諦念を持っていた。
「……あなたが、轢かれたのでは?」
「それもそうなんだけど、俺は巻き込まれた側というか」
心底疑問という色の声に言葉を返す。
「命を投げたくなるくらい悩んでるのかもしれないけど、まずは一回話して楽にしてあげたいからさ」
ホテルであの学生の容体を心配し、その後時間が戻っている可能性に突き当たってから今に至るまで、逸人は彼女に掛ける言葉を考え続けていた。
自分の命を投げ出す行為。そこに踏み切った人間を思い止まらせるには、何と言うのが正解なのかと。
これは現代文の試験でもなければレポートの執筆でもないが、それでもベストの答えを探したかった。
「年下ですか」
「えっ、どうして?」
「なんとなく、言い方がそれっぽかったので」
話しているだけで言い当てられたことに驚きつつも、逸人はその姿を覚えている限り思い出す。
「そうだな、年下。制服着てたし、君と……あー、まあうん」
「下手ですね、誤魔化すのが。年が近いんですね。気遣われてるのが見え見えで、逆に不快です」
口を滑らせて出てしまったものを何とか別の意味に繋ごうとするも、彼女はそれを目ざとく掴んで言葉で刺した。
「不快……」
「すみません。私は私で言葉を繕うのが下手なので」
「でも前は」
「はい?」
してやられ続けるのも癪だった。仕返しを目論んだ初対面時の話は、たった二音によって封をされた。
そんなことを話していれば、気付けば駅に近付いて辺りも混んでくる。密度が高くなってきた歩道で、自然と二人の距離は目的地への距離に比例して近くなっていた。
「もしかしてと思ったんですが」
周囲の様子を目視で確認して、「まさかそんなはずはないと思いますが」と少女は釘を刺すように言外に示しつつ、逸人に向かって聞く。
「これ、駅に向かってますか?」
「え、言ってなかったか」
「話聞いてました?」
問われたので逸人が頷けば、横を歩く少女は能天気な反応をキッと睨みつける。
「聞いてたかというのは理解してたかという意味です。私、駅には行くなと言ったつもりなんですが」
「そう聞いたつもりではある」
「じゃあ、どうして駅に向かってるんですか」
刑事や検事が適職なのではと思わせるような責め立てに、逸人は前を見たまま理由を述べる。
「見殺しには出来ないでしょ、人を」
「そうですけど、他にやりようがあると思います。例えば、駅員に連絡するとか」
「……自殺しようとしている人がいるから、止めてくれって?」
不穏な単語を人が密集している中で言うのを躊躇って、その声だけはボリュームを落とした。
「方法はありだな。でも顔とか見てなくて、無理だ」
「…………」
彼女が提示した意見は妙案だったが、こればかりはどうしようもないので正直に伝える。
少女はそれを聞けば、逸人を罵るでもなく黙ってしまう。
そうして会話は途切れて、そのまま二人は駅の改札口手前まで辿り着く。
逸人は自分の携帯を取り出してから、同行していた少女と改札の間で視線を行き交わした。
「えっと、じゃあ……」
結局、距離感は上手く掴めていなかった。
遠慮がちに逸人が片手を上げて別れの挨拶を告げると、少女は自分のジャケットからシンプルな手帳型ケースに収められたスマートフォンを取り出す。
「……今回も時間が戻ったら、今度は私がその人の特徴と場所を覚えておくので」
そう言う少女の目は今朝の天気に似た色彩で均一に染まっていて、逸人には感情を読み取ることが出来ない。
「えっ、中まで来てくれるのか」
「ここまで来て、別れて数分でまたあのホテル。そんな風に振り出しに戻るのは嫌なので」
声は平坦、口角は全く上がっていない。
逸人にはその言葉が皮肉でも冗談でもない本心からの言葉で、今までのどんな誹りよりも真剣な感情が込められているように思えた。
「……ありがとう。それは、助かる」
「言ってる暇があるなら入りましょう。急いでるんでしたよね?」
改札を指差す少女に頷いて、記憶の中の死に場所へ逸人はその歩を進めた。
♢
いない。
どこにもいない。
いくら探しても、記憶と合致する姿は目端にも映らない。
「……いないな」
そのホームは、確かに頭に焼き付いた光景と同じく全てのホームドアが故障している。
それは少女の話が嘘ではなく、また自分の記憶もなんら間違っていないことを証明している。
今が時間に追われておらず冷静になる余裕があったとすれば、その光景はどんな凄惨な殺人現場よりもゾッとするものだっただろう。
しかし肝心の制服姿の学生が見当たらない。今日はまだ平日、制服を着た学生自体は想像より少ないがちらほらと見かける。ただ、誰もピンとこない。
自殺に走るほどの思い込み、少しくらいこのホームで心を落ち着ける時間を取っているんじゃないかと思ったが、そんなこともないのだろうか。
「今さっきの話。改めて確認しますが、その子は線路に飛び込んだんですよね。電車、何分頃のですか」
「えっと、確か」
37分、7時37分。
その時の時計盤の形は妙に覚えているし、来る直前に電光掲示板で発着予定時刻を見ている。
「並んでた場所は」
「……どこだったかな」
「なら、とにかくしらみ潰しに行きましょう。覚えてる限りの特徴は」
「髪は長い。制服は黒で、鞄が学校指定の手提げ型。アクセサリーをつけるゴム紐みたいなのがあったはず」
「十分です。見つけたら連絡を入れます。……気は進まないですが、連絡先を」
差し出されたスマホの画面。そこにはポピュラーなメッセージアプリの友人追加の案内が示されている。
まだ素性すら知らない少女相手だったが、状況は逼迫していた。逸人は躊躇う素振りを見せず、時間に追われる中連絡先を交換する。
「似た特徴を見たらその乗車口の番号を伝えます。最終判断はあなたにお願いします。いいですね?」
時間はまだあったが、一通り探して見つからないという現状を鑑みれば足りないくらいだった。
冷静さは保ちつつも端々に焦りが聞いて取れる少女の言葉に頷いて、逸人は今来たほうへと即座に踵を返していく。
「……」
一人になったことで、この信じられない状況の現実味が増してくる。
自分が死ぬ直前、或いは死んだ瞬間に時間が戻っていて、自分と彼女だけは記憶を持ち越している。
そして、そのおかげで今一人の学生の投身を止めることが出来るかもしれない。
飲み込むにはあまりにも、時間も心の余裕も足りない。
もう一度、思い悩むその女子生徒の姿でも見れば現実感は本当の意味で追いつくのだろうか。
誰かを助けようとする自分には都合の良すぎるような、その日付に似合わない突飛な現状。
それを疑うことなく、何もかもが良い方向に転がるだろうと鵜呑みにして逸人は目的の後ろ姿を探した。




