不運は達して鈍色は変わる
右を見ても左を見ても、立ち並んでいるのは宿泊以外に「休憩」という特殊な利用形態を持ったアミューズメントホテル――いわゆる、ラブホテルだった。
「…………」
逸人はそっと、後ろを振り返る。
『ホテル・クローバールージュ STAY&REST――』
嫌な予感は、少女がいたあの部屋を出た瞬間からしていた。
部屋を出た先、そこは部屋の中と趣を同じくする装飾の施された細長い廊下だった。
豪邸、或いは屋敷に長い廊下は付き物か。そんな風に話を済ませようとしたとき、逸人の目に留まったのは隣の部屋に貼られたプレートの番号だった。
廊下を進んだ先にはエレベーター。自分が目覚めた部屋は上階らしかったので一階に下りれば、明らかに宿泊施設のロビーらしき佇まい。
別に宿泊した覚えはないし、万が一少女とホテル側がグルの可能性もあるからとそのフロントを素通りして出てきたのだが。
「…………」
何も言わず、一拍置いてから逸人は振り返っていた首の向きを元に戻した。
出てきた建物は彼女の住む豪邸ではなかったが、想定と違う結果は話をさらにややこしくしただけだった。
ホテルを彼女の部屋と称したことを撤回すべきだろうかと考えて、過ぎたことは仕方ないかと隅に捨て置く。
最低限の礼儀のつもりがデリケートを欠く、ともすればセクハラと捉えられても文句は言えない発言になってしまった。これもまた、今日の運勢が悪いことに起因していると言えなくもない。
しかし、ここに日付に似つかわしくない幸運が一つ。
不幸中の幸い、ホテルを出た前に広がるその路地に逸人は見覚えがあったのだ。
自分が出てきた四階建てを含め、立ち並ぶラブホテルの数々。雑然としていて潰れた空き缶でも転がっていてもおかしくない種類の区画だが、狭い路地にはポイ捨てのゴミや自転車の違法駐輪一つとしてない。
Y字に分かれた道の先には、今立っている猥雑な路地の存在自体疑わしくなるような、超大手海外靴ブランドの支店がショーケース越しに値段の張りそうな服の一式を見せている。
そしてきっと、ここから歩いて五分もすれば交番があるのではないだろうか。
表の通りとその裏でこうもちぐはぐな、それでいて奇妙な一体感を生み出しているような街。田舎と比べて土地が少ない都会だからこそ、誰もが受け入れる表裏一体が出来上がった場所。
逸人がスマホを取り出して現在位置を確認してみれば、予想も確信に変わる。
ここは去年、別れを切り出してきた彼女と待ち合わせたのと同じ街だった。
♢
ホテル街を抜けて国道沿いの大通りを歩きながら、逸人は駅を目指していた。
逸人が目指す駅はここから一番近く、都内を一周巡る路線も通る大きな駅だ。
電子マネーはスマホの中に入っている。それが充分な額かは逸人も記憶していないが、乗り換え込みで片道三〇分もかからない自宅最寄り駅まで行けないほどは少なくないはずだった。
「……」
逸人はここまで何度か後ろを振り返ってみたが、怪しい影一つとしてない。あの少女がついてきているかと思っての警戒だったが、今のところ逸人自身の挙動が不審者に近付いているだけだった。
クリスマスムードに飲まれ切った街中を、何も起こらないようにと願いながら逸人はただひたすらに歩いている。
「ね、寒くなーい? はやくどっか入ろうよー」
「ちょっと早すぎたかもな。カラオケでも行っとくか」
信号待ち、髪の染めたカップルがすぐ隣で立ち止まる。
逸人は片手をポケットに突っ込みながら、さりげなく数歩横にズレる。
意図せずとも寒さに震えてしまう指先でスマホの画面を表示させれば、時刻は7時20分近く。
いつの間にか朝日は薄めの雲に遮られて、ビル影と日向の境目はあやふやであってないようなものだった。
一年前の今日もこの街にいた。そうは言ったものの、それは何も特別な運命を感じさせるといったものでもない。
今日出てきたホテルは元カノが出てきた路地とは全く関係のない場所のものだ。それに生活圏から遠いならともかく、この街は友人と遊ぶ候補にもよく挙がる。
バイトで来ることも、勤務体系の都合上不定期にではあるがそれでもしばしばだ。
「ほら、青だよー」
「おっ、悪い。今入るとこ探しててさー」
信号が青に変わる。隣のカップルが動き出す前に、逸人は横断歩道を渡りきる。
――それにしても、何がなんなのか。
寝て起きたら入ったこともないホテルの部屋。服は就寝時とは違っていて、持ち物はスマホだけ。
しかも同室のドアを一枚隔てた先からは、会ったこともない他人が出てきた。
起こったことの経緯や理由は、考えても仕方がないような気がしていた。
人が就寝中に勝手に動くことがないのは義務教育より前に理解している。つまり、自宅からホテルまで誰かが移動させたことになる。
義務教育によるとそれは誘拐と呼ばれる犯罪であり、義務教育以降に見るようになったアニメやドラマによると誘拐はそれに見合うメリットがなければ起こらない。
そしてそんなメリットだが、身代金でも人身売買でも、逸人があのホテルから出たことで破綻していた。
数学の証明問題並みの論理と名探偵じみたトンデモ理論、そのどちらを用いても正解も真実も導けそうにはなかった。
迷宮入り、どんな理屈立った完全犯罪よりもその言葉が似合う。
迷宮入りといえば彼女のこともわからない。
何言か交わしただけでは判断も何もないかもしれないが、それでも客観的に見れば、疑うのも失礼なくらい親しみやすく明るい子だったとは感じている。
そんな少女は途中感じた視線の違和感が勘違いだったとしても、やはり意味不明な部分が多い。
そもそも自分は彼女のことを知らない。それなのに向こうは「待ち合わせをした」と言っている。
彼女の待ち合わせ相手と自分がドッペルゲンガーのレベルで似ているのか。だとしても辻褄は何一つとして噛み合うことはないが。
「おっ、ねえお姉さん。かわいいね、いやもうほんと綺麗! 俺サンタだから、今日は夜まで暇なんだよね。どう、ご飯でも――」
朝も早くまばらにしかいない他の通行人よりも早いペースで歩きながら逸人が考えていると、前の方から時間帯に似つかわしくない溌剌とした声が聞こえる。
進行方向先、考えるまでもなくナンパが行われているのが見てわかった。
逸人と同じくらい、つまり大学生かそこらであろうモデルのようなシュッとした見た目の好青年が、歩いている女性に並んで横から話しかけている。
「今夜が一番繁忙期でさ、時間内の配達チョー大変なんだよね。今年は日本だけど、去年とかフランスの方でさ。俺フランス語話せるんだよ、どうフランス、Bonjour. Ce collier te va à merveille. Voulez-vous aller dans un café maintenant?」
耳を傾けていたわけではないが、急いでいる逸人と二人の速度の違いは距離を縮めて、ナンパの文句も段々と逸人に聞こえるようになる。その過程で流暢なフランス語が逸人の耳に入った。
逸人には何の言語かもわからなければ、当然その言葉を直接聞いたことがあるかも判別出来ない。
わからないが、最近のナンパはここまでネイティブに喋れるのかと内心驚きつつ、結末に興味を惹かれて口説き文句を受けている女性に目をやる。
「あーフランス語、どう? もう一年くらい喋ってないからちょい下手かも。ちなみに来年はスペインなんだよね。だからスペイン語は勉強中。サンタの年収ってさ、実はプレゼント代含めて渡されるから――」
飲み会で話されるなら場合によってはアリなような、アルコールが入っていないとそもそも馬鹿真面目に聞く気にもなれないようなラインの話が続く。
その間もパンプスを履いた女性は、男の方を一切見ることなく進んでいく。
これがナンパに対して大半の人間が取る行動だ。
相手が流暢なフランス語で語りかけてこようが、真顔でサンタを名乗ろうが、反応せずにいないものとして扱う。
都会で生きる多くの人間はそんな無視の術を身に着けているはずで、ナンパされる側でもする側でもないが逸人もその有効性には同意する。
「じゃ、興味持ってくれたらまたどっかで声かけてよ!」
逸人が二人に追いつく前に、ナンパ師は諦めて遠ざかっていく。
話しかけられていた女性は、男が離れていった後に小さくため息を吐いていた。
完全に無視されたというのに最後にあんなことを言い放っていく男のメンタルだけは、見習いたいと思った。
♢
鏡に映るのは、思い描いた通りの『傘木逸人』の顔だ。
何の問題もなく駅に到着し、その構内のトイレにて。
万が一、億が一だが、あの少女の待ち合わせ相手との精神の入れ替わりでもあったんじゃないか。
一応見るだけと立ち寄ったトイレの手洗器の前で、そんな馬鹿げた考えは杞憂に終わった。
これだけ意味不明な事象が起きていて、だからといって世界の常識はそう簡単には覆らないらしい。
それだけ確認して、丁寧な清掃が行き届いているトイレを出る。
改札とホーム、その間に幾つかの売店が立ち並んでいる構内。必要以上に入り組んだ駅の内部は、足早に歩く社会人や今日を思い出にしようと着飾る若者でごった返している。
『みんなの目! 見かけたら通報を! ――許すな、痴漢』
駅の壁に貼られたポスター。もう幾度となく見てきて、もはや日常的風景の一部になっているそれが、今日だけはどうしても他人事に感じられない。
世はクリスマス。いつどこで痴漢呼ばわりされるか、トラブルの当事者になるかわからない。
逸人は両手を上着のポケットに突っ込んで、混み合う構内を突き進んでいく。
待ち合わせなのか壁に背を預ける人影も多い中、車両の発着に合わせて溢れる集団を避けつつ行けば、安全に目的のホームへと辿り着いた。
駅自体を出入りする人間以上に混んでいるホーム。
平日とはいえ年末も近い、学生や一部社会人の分が減っているおかげか、そこまで密度のない中を進んで人の列に並ぼうとする。
「……?」
逸人はふと、線路の方に目を向ける。
線路沿いのホームドア。
利用者の線路転落や飛び込み防止のために設置されたそれが、車両も到着していないにも関わらず一つの漏れもなく開いている。
逸人が疑問に思うと同時。その異常に関するアナウンスは、すぐに行われた。
『只今、ホームドアが故障しております。ご迷惑をおかけしますが、××線をご利用の皆様は、線路へと転落なさらないよう、足元に十分お気を付けください』
アナウンスは間隔を空けて何度も行われているのか、それともこれが一度目なのか。
周りの様子を窺うも、アナウンスに過剰に反応する人間などいるわけもなく、逸人には判断がつかなかった。
一つとして閉じないということは、統括するシステムの不具合か。閉じることは出来るものの、遠隔で円滑に開閉が出来ないから苦肉の策で開けている可能性もある。
なんにせよ、そういうこともあるかと逸人はその問題を流す。
見れば利用客は皆、ぱっかりと口を開いたドアのすぐ横からいつも通り列を作っていた。
その群衆と同じく、逸人も列の最後尾へと並び、ポケットに突っ込んだ手を出してスマホの画面を眺めることにした。
♢
『AM07:37』
電車到着のアナウンスがスピーカーから届けられて、逸人はようやく顔を上げた。
『間もなく、電車が参ります。ご乗車になる皆様は、白線の内側に立ってお待ちください』
自分が乗る電車だ。電光掲示板を見上げて、その隣にある時計を見比べて。予定通りの時刻だと確認する。
何時でも両手は埋まった状態にしようと、スマホを握った手をそのままポケットに突っ込む。
手持ち無沙汰になった逸人の意識は、自然と開いたままのホームドアに向かった。
身を守るものが故障していれば、危険は強まる。
当たり前の話だが、なんとなくそう思った。
危険が強まるというのは、ある種の不運だ。
これも今日の不運の一つなのかもしれないと、そう考えるのも間違いではない気がした。
思い込みに正解も間違いもあるのかはわからないが。
『――――』
警笛が轟いた後、線路の段差を車両が踏んで、身体の芯を震わす音を鳴らす。クラクションのような音が響いて、もうすぐ目当ての電車が来ることを知らせた。
あと数秒で、電車は到着する。
ほんの一瞬、逸人の思考に揺らぎがあった。
考え事をするときに、徒に生まれる枝分かれの一つ。考える必要もなかったり邪魔でしかない思考の分岐が、今ここで生じていた。
不運というのは、結果が伴ってこそ意味を成すのではないか、という。
どうだっていい考えだった。
不運にもテストの山が外れたというのは点数の低下がなければ不運ではなく、もしもそれで逆に点数が良かったりすれば幸運ですらある。そんな屁理屈。
「……」
コツ、と小さな音がした。
何かが当たった音だと逸人は理解して、音の発生源も自分のベルトがある腰回りだとわかっていて、見下ろした。
その瞬間、横を誰かが通り過ぎて、次に自分の身体があり得ない力で前に引っ張られた。
履き慣れた靴のソールが熱のないコンクリートに擦れる音がして、背筋が伸びるような痛みの伝播で足首を捻ったと理解する。
自分の身体が腰を中心に思いっきり前に持っていかれたと認識したタイミングで、逸人の足のストッパーは無事な片方分しか効かなかった。
「え、ちょっ」
勢いをつけて身体が前に射出される。脚の方から引き摺られそうになるのを脚をつっかえ棒にして防げば、意思とは反対に視界が前に飛き飛んだ。
自分の身体が視界から消えたことで視覚情報に満遍なく注意が行き渡って、逸人はようやく現状を理解した。
目の前、黒い制服を着た長い髪の学生が線路に向かって走る後ろ姿。
片手に持つ彼女の鞄が時間に置いて行かれるように後ろを向いている。学校指定らしいその鞄からはゴム紐のような一本の黒い線が伸びていて。
その先が視界の外、自分の腰へと繋がっているのを逸人は幻視した。
「待っ……」
ともかく、勢いは止まらない。考えなしに足を使ったせいで身体は浮いていて、ブレーキは効かない。
慣性に従って、あっけないほどに。
「――――」
逸人は、線路の上へと投げ出された。
慌てて出した手からは、空中を滑るようにして携帯が抜け落ちる。
息を吞む間もなく、逸人が自然と目で追った銀色のハードの向こうには、十秒後に乗るはずだった電車が迫っていた。
ここから運転席は見えない。正面ガラスの角度は車内の何も見せてくれない。
このままだと車体よりも先に地面に頭をぶつけると勝手に判断した頭は、逸人の身体に無駄な受け身の姿勢を取らせていた。
何をしても、一秒後の未来は変わらない。
逸人は反射的に目を瞑る。
朝靄を貫くヘッドライトが視界全てをかき消してくれた代わりに、その指向性を持った光の強力さが閉じた瞼を意にも介さず自分の残り時間を直感的に伝えて。
パッと、光がなくなって。その目は気付けばしっかりと見覚えのある部屋の天井を捉えていた。
「…………」
傘木逸人は、その部屋の中で静かに身体を起こす。
左右に一度ずつ首を振って、今いる部屋がさっき出たはずのホテルの部屋であることを確認し、そのまま片手で口元を抑えた。
「………………飛び込み…………夢?」
口元を抑えた手の先から足の指一本まで微動だにしない逸人の身体で、二つの眼球と頭のシナプスだけが乱軌道を描いている。
身体は自動的に何かを思い出そうとする。だがそれにあたる記憶が引き出せない。記憶というより、身体に染み付いた感覚と下手な詰め込み知識のような情報が頭の中で氾濫を起こしている。
頭の中がタイプライターで迅速に書き換えられているような感覚。その打鍵音の代わりに、得も言われぬ気分と取り留めのない独立した思考が脳を支配する。
身体は無事。あんな状態から?
急停止が間に合ったのか。そんな距離ではなかった。あの瞬間確かに自分の生命は絶たれるか、少なくとも自覚できる傷を負う結果が確定していた。
手術後意識を取り戻したのかと思ったものの、ここは明らかに病院ではない。それどころかどこのホテルの部屋なのか、自分の頭に異常があるわけでなければ――つまりこれは夢でそうなるとしかし――。
そのバチバチと最大限に巡る思考に紛れるように。
カタ、と。
逸人がベッドの上、目まぐるしい思考の落としどころを探している中、部屋の中に小さな物音が響いた。
「…………ホテル……見覚え、でも」
けれど逸人は自分の思考に夢中で、その物音には気が付けない。
じっとりと身体を伝う不快な感覚と、今生きているこの瞬間とはどうあがいても地続きにならない記憶。
その擦り合わせに意識は混乱を極めて、言葉は無意識に喉を震わす。
「なん」
「なんで……」
しかし次の、自分の呟きと被せるようにして耳に届いた他人の声に、ようやく逸人はベッドのスプリングを大きく軋ませる。
このベッドを軋ませる感覚も、また既視感。
明らかに今のは、自分の声ではない。
同じ言葉を途中で区切った逸人は、自身のグラついた思考に釣られるままに一つの扉を見る。
脱衣所に繋がる扉。その向こうに、確か、誰かが。
未だ記憶としての位置を確立しない感覚に、視線を固定させていれば。
その扉が、キイと音を立てて開いた。
「……っ!」
逸人が大きく目を見開いている間に、そこからは悠々と一人の少女が歩いて出てくる。
クセの強そうな赤茶色の髪、色素の薄い瞳、ステッカーの散らされたジャケット。
その少女は、逸人の予想に違わぬ様相で姿を現した。
少女は跳ねた横髪を手櫛で軽く梳きながら、ベッドの上の男に対して横目を向ける。
扉を見守っていたままに、逸人はその少女と視線を重ねる。
これも、既視感。
だったはずなのに。
「――」
その視線の一致は一瞬。少女の視線は流れるように、ホテルの出口へと向いていた。
これは、既視感じゃない。
出鱈目な感覚は、追体験するようにほとんど定着してきていた。
あやふやな実感を、夢か現実かは棚に上げた上で全て記憶として整理できるくらいには。
視線を外されたままに逸人が様子を見ていれば、少女は逸人の姿を二度見ることはなく、扉から出てきたその足で出口へと向かう。
「ちょ、ちょっと待って。あの……」
出ていこうとするのを逸人が呼び止めたとき、少女はすでに後ろ姿を向けていた。
「……なんですか」
少女は振り返らず、冷たい声で突き放す。
こんな雰囲気だっただろうか。自分が思い浮かべる彼女はもっと、人当たりが良かったような。
逸人はその背中に、思い出される過去の印象からは遠く離れた一匹狼を連想する。
「私に、なにか」
「あ、いや……」
やはり予想と反する凍てついた気風の声にたじろいで、逸人は続けようとしていた言葉を失う。
「用がないなら、呼び止めないでください」
少女はそれだけ言って、重たいホテルのドアに手を掛けた。
「さ、さっき!」
現状は何一つ見通せていない。だから、何か聞かなければ。
焦った逸人は、気を引ける可能性が微塵程度に残っていると思った言葉を咄嗟に絞り出す。
その言葉で、少女の足はピタリと止まる。
「その、会ったこと……はないか」
この既視感が夢だったのかだけ確かめたい。
そう思って逸人は口を開いたものの、いざ出てきた言葉は不審者然としたもの。途中から我に返って、気付けば最後は自己完結した断定で締めくくられていた。
ホテルの同室から出ようとする中で面識の有無を聞く。状況だけ見れば、とち狂ってるとしか思えない。
どう言葉を撤回しようかと男が二の句を探す中、少女は踵を返して扉に向かっていた以上の速度で男に歩み寄る。
「え、いやちょっ……!」
乱暴に扱わなければここまで軋まないであろうベッドを揺らしながら後退する逸人に対して、少女はその縁の手前で立ち止まる。
「会いました」
「え」
「会いましたと言ってるんです」
戸惑いや喜び、怯え。幾つもの感情が入り混じった顔で、鈍色の瞳を揺らがせる少女はきっぱりとそう言い切った。




