第八話 月夜の里~里のくまさん~
夢
夢なら……もう、いいよね
「ひまり、ごめんね、大丈夫?」
起き上がり、手を伸ばした。
「うん……お姉ちゃんこそ、大丈夫?」
ひまりを起し、胸を張った。
「勿論!怪我なんてするハズないよ、お姉ちゃんなんだから♪」
「だけど、血、出てるよ……」
血?
そんなはず……
視線を落とすと
膝から、血が滲んでいた。
さっき、ひまりに覆い被さった時だろう。
「大丈夫、こんなの唾付けとけば――痛っ」
触れた瞬間、痛みが走った。
普通に、痛い。
いや、そんなハズ
目の前の熊が、ふん、と鼻を鳴らした。
ぶわりと巻き上がる髪。
熱くて、湿っていて、獣臭い吐息が顔にかかった。
「お姉ちゃん?」
一旦、落ち着こう。
夢でも、痛みがある事はあったはず。
夢でも、リアルな事はよくある。
よくある
よく……
……イヤ!
そんな夢、見た事ない!
やっぱり――
その時だった。
目の前の熊が、のそのそと動いた。
思わず身構える。
だけど熊は
そのまま、ゆっくりと背を向け
お尻を落とし、身を低くした。
「……な、なに?」
嫌な予感がする。
すごく、する。
「あ、白ねこさん!」
ひまりの脇から、さっきの白ねこがぴょんと飛び出した。
何の迷いもなく熊の背中に飛び乗ると、先住ねこのクリームに鼻であいさつし
くるりと一回まわりすると
あたし達を見た。
……まさか
「乗って、いいの?」
ひまりが、首を傾けた。
「そ、そんな訳ないでしょ!」
無理。
無理に決まってる。
熊だよ。
熊。
夢じゃない。
乗り物じゃない。
椅子でもない。
夢なら、せめてアルパカとに
いや、夢じゃなくて現実なんだけど、いや、やっぱり――
「お姉ちゃん」
ひまりが、あたしの袖を引いていた。
「なに?」
「……乗ってみたい」
「え!?」
耳を、疑った。
「今、なんて?」
「乗って、みたいな」
ひまりが、上目遣いで見つめてくる。
キラキラした目が眩しくて
すぐに、答えられなかった。
「だ、だめだよ!熊だよ!?熊なんだよ!?これは現実、夢じゃないんだよ!?」
「でも、ねこちゃん乗ってるよ?」
「ねこちゃんは、ねこだから!」
「くまさん、怒ってないよ?」
「怒ってからじゃ遅いでしょ!」
ひまりは熊を見た。
それから、あたしを見る。
その目に、あたしはまた言葉を詰まらせた。
初めて見る
わがままを言う子供みたいだったから。
胸の奥が、苦しくなった。
この子は、ずっと我慢してきた。
お腹が空いても。
寒くても。
疲れていても。
美味しいものを食べたくても。
眠っていたくても。
それなのに、いつも笑っていた。
いつだって、あたしや母に心配をかけないように笑っていた。
そんなひまりが今――
「……」
白とクリームが、熊の頭の上で揃って大あくびをした。
熊は、身体を低くしたまま動かない。
「……ひまり」
「うん」
「お姉ちゃんに、しっかり捕まってるんだよ」
ひまりの顔が、ぱあっと明るくなる。
「うん!」
「絶対だよ。絶対、絶対、離しちゃ駄目だからね」
「うん!」
あたしは覚悟を決め、熊の背中に手を伸ばす。
毛は思ったよりも深くて
指が、ふかりと埋まる。
暖かい。
熊は動かない。
あたしが先に跨がると、ひまりも後ろからよじ登ってきた。
細い腕が、あたしの腰にぎゅっと回る。
「お姉ちゃん、すごい……!」
「まだ喜ばないで。まだ何も始まってないから」
自分に言い聞かせるように言う。
熊が、ゆっくりと立ち上がった。
「ひゃっ」
身体が大きく揺れる。
抱き付かれた腕に、ぎゅっと力がこもる。
「お、お姉ちゃん……高い!」
答える事が出来ない。
出来る、はずもない。
今、口を開いたら絶対、情けない声が出る。
その自信だけはあった。
熊が、のそのそと歩き出す。
ゆっくりと
動き始める景色
大きな舟に乗っているみたいに
身体が、ふわり、ふわりと揺れる。
「わぁ……」
ひまりが、あたしの背中越しに声を漏らした。
「お姉ちゃん、見て。お馬さん、寄り添って駆けてるよ」
熊から、逃げたんじゃ、ない、よね?
「そうだね、とっても、仲良しだね」
「牛さんもいる、角、ちょっと怖いね」
熊より、角?
てか、警戒してるわけじゃない、よね?
「そ、そうだね、とっても、怖いね」
「ひよこさん、狐さん追いかけてる!」
ひよこ、強過ぎない?
「と、とっても元気なひよこさんだね」
「うん♪」
ひまりの声が、だんだん弾んでいく。
あたしにしがみついていた手が、緩んでいく。
「楽しいね、お姉ちゃん」
「うん……」
「くまさん、大人しいね」
「だね」
「見て。ねこさん凄い体勢で寝ちゃってるよ」
「ほんとだ」
熊の首に巻き付くように、並んで気持ちよさそうにぶらさがる二匹。
のどかというか
平和というか
時折聞こえる、動物や鳥の声。
そよそよと流れる、風と水の音。
さっきまで、逃げなきゃとしか思っていなかったのに
目の前の景色が、ゆっくり流れていく。
ひまりが、あたしの背中で笑っている。
大きな声で
気が付いた時には
あたしは
ひまりと二人、大はしゃぎしていた。
きっと、気が抜けたのだろう。
それが、後に
あんなことになるとも知らず……。
ドン
突然
太鼓の音が、山に響き渡った。
瞬間
動物達の顔が、一斉に上がる。
さっきまで寝転んでいた山羊も。
水を飲んでいた鹿も。
ひよこに追い掛け回されていた猪も。
まるで見えない糸で引かれたみたいに、同じ方向を向いた。
「……え?」
続いて響く、太鼓の音
次の瞬間
地が、爆ぜた。
一斉に駆け出す、獣達!
蹄が土を叩き、草を蹴り、鶏が羽ばたく。
山そのものが走り出したみたいに、足元が揺れだした。
「な、なにこれっ!?」
声を上げたけど、自分の声すら聞こえない。
舞い上がった土煙が、視界を茶色く塗り潰す。
さっきまで目の前にいた白とクリームも、消えていた。
「きゃ、きゃあああああ!!」
悲鳴が、後ろから突き刺さった。
「ひまり!?」
振り返ると
ひまりの小さな身体が、熊の背中からずり落ちかけていた。




