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第七話 月夜の里

「……え?」

「……え?」


あたしとひまりの、少し間抜けな声が重なった。


「お姉ちゃん……?」


ひまりの声に、あたしは返すことが出来なかった。

開いた扉の向こうにあったのは


草と土と、空だった。


抜けるような青い空。

白い雲。

日差しは強くて暑いけど

頬を撫でる風は、涼しくて心地いい。


その先には、のどかな緑の景色がどこまでも広がっていた。


「もしかして、ここ、山……?」


高さから考えて、中腹か、山頂付近だろうか?


「お姉ちゃん、あれ見て!」


ひまりが指を差す。


その先には


さらさらの土の上で、ばさばさと羽を広げる鶏がいた。


気持ちよさそうに目を細めている。

その周りを、ひよこが走っている。

小さな足で、ぴよぴよと一生懸命に走っている。


犬を、追い掛け回しながら。


「……は?」


犬が、情けない声を上げて逃げていく。


「かわいい……」


ひまりが、無邪気に漏らす。


いやいや。

大分、おかしいよね?


「お馬さんだ! おっきい!」


ひまりが、あたしの手からするりと離れた。


「ま、待って!」


慌ててエレベーターから飛び出し

足の裏には、柔らかい草の感触。


そこは


まさに、絵本みたいな世界だった。


馬と馬が寄り添い合い

そのそばでは牛が首を下げ、もしゃもしゃと草を噛んでいる。


背中に、小鳥を乗せている牛もいる。


「……なに、ここ」


目が離せなかった。


「なんか、ずっと見ていたくなるね」


ひまりが小さく呟く。


「うん。 そう、だね」


動物達は、みんな毛並みが良くてツヤがあり、体格もいい。


ただ、のんびりとそこにいる。

ただ、それだけのことが、何故だか心に染みてくるのだ。


ふと


足首にすべすべと、滑らかな感触。


「ひっ」


反射的に見下ろす。


そこには


雪のように真っ白な、ねこがいた。


素足に、頭をこすりつけている。

挨拶でもするかのように。


「見て、ひまり。ねこだよ」


思わず、弾む声。


「お、おねえちゃん……」


ひまりの声は、震えていた。


その姿を見て


あたしは、口を押さえた。


ひまりの頭の上には


毛の長い

クリーム色のねこが居た。


当たり前みたいな顔で、ひまりの頭に座っている。

ひまりは両手を少し浮かせたまま、ぴしりと固まっていた。


クリームのねこと、あたしの目が合う。


クリームは、ちょこんと鼻先を伸ばし――


唇にザラっとした感触。


「……」


満足そうに舌なめずりをするクリーム


「お姉ちゃん、キス、されちゃったね」


答えられず

ねこの舌って、あんなに朱いんだ。

そんな、どうでもいいことを考えてしまっていた。


ふと足元に視線を落とす。

白が、宝石のような青い瞳で見上げていた。


ひまりの頭の上では、クリームが

大きなあくびをして


そのまま


丸くなった。


何。

何なの、ここ。


夢?


ああ、そうだ。

夢だ。


なら


夢なら


お願いだから

覚めないで。


そう、願わずにはいられなかった。


朝が来れば、また


疲れて眠るひまりを、起こさないといけない。

苦しそうなお母さんを、一人残さないといけない。


お腹を空かせながら

夜遅くまで働かないといけない。


お米だけの食事を、作らないといけない。


でも、ここなら


ここなら、ひまりだって

こんなに――


「お姉ちゃん」


感極まったような声で、我に返る。


「な、なに?」


今度は、アルパカさんでも見付けたのだろうか。


「見て、くまさん!」


くま?


熊……?


いや、まさか。


けれど

ひまりの指差す方には


木の陰から、黒い塊がのそのそと出てくる。


熊が居た。


どう見ても、熊だった。


「……っ!?」


全身の血が、一瞬で冷える。

咄嗟に、火かき棒を握り締めた。


だけど、その棒は


ぐにゃりと、折れ曲がっていた。


「ひまり、こっち!」


棒を捨て、ひまりの手を掴む。


「え? お姉ちゃん!?」


エレベーターの扉は、もう閉まっている。

どのみち、戻る気にはなれない。


「こっち!」


直感で、左へ走る。


クリームは、ひまりの頭から動かない。

白は、黙って付いてきていた。


このままでは二匹も危ないかもだけど

構っていられない。


ライオン。

虎。

次は熊。


やっぱり。

やっぱり、ここはおかしい。


逃げないと。


いや。


夢なら、いい、のかな?


いやいや!


万一、夢じゃなかったら!?


草を蹴り

土を踏み

湿った匂いが跳ね上がる。


「……え」


足が止まった。

いや

固まった。

と、言った方が正解だろう。


「いたっ」


ひまりが、あたしの背中にぶつかる。


「おねえちゃん?」


あたしは

声すら出せなかった。


目の前には

首元に、三日月を横にしたような白い模様。


ツキノワグマが、のそりと立っていたのだ。


「可愛い~♪」


ひまりが、また手を放そうとする。


この子は、絵本の中の動物達しか知らない。

本物の熊が、人を簡単に壊せることを知らない。


「ひまり、ダメ!」


小さな手を掴み、踵を返す。


そこには


さっきの熊が、のそのそと立っていた。


ひまりが、上目遣いであたしを見る。


「お姉ちゃん……?」


逃げ道は、ない。


「お、お姉ちゃん!?」


あたしは

ひまりを押し倒し、その上に覆い被さった。


その頭から落ちたクリームが、怒ったような鳴き声を上げた。


――瞬間


脳裏に、ねこが熊を追い払う動画が浮かんだ。


目にもとならないねこパンチを浴びせられ、一目散に逃げ出す熊。


都合のいい願いだということは解かっている。


だけど


あたしは


願わずにはいられなかった。


ねこさん、どうか


――ひまりだけでも、助けて




……


………


何も……起こらない?


恐る恐る瞼を開く。


そこには


クリームが丸くなっていた。

熊の、頭の上で。



ああ。


そうか。


やっぱり、これは夢だ。



そう、確信した。




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