99話 夏の始まりと、これからの地図
五月になった。
初夏の気配が来た。
朝の空気が、春より少し濃くなった。
日差しが、少し強くなった。
エリナは毎朝、台所の窓を開けた。
今日の空気を確認した。
今日は、初夏の空気だった。
窓を開けるたびに季節を感じる習慣は、何年も続いていた。
変わらない習慣の中に、毎日少しずつ違う空気があった。
五月の初めに、フィオナが地方の学校から帰ってきた。
二週間以上の旅だった。
馬で帰ってきた。
長屋の前に着いた時、エリナが外にいた。
「帰ってきた」フィオナが馬から降りた。
「帰ってきましたね」エリナが言った。
「来た、ではなく、帰ってきた」フィオナが静かに言った。「やはり、この言葉が出る」
「ルシェムが、そういう場所になっているから」
「そうだな」フィオナが周囲を見た。「庭の薬草、育っているか」
「ルナが毎日水をやっていました」
「見に行く」フィオナが言った。「それが最初にしたいことだ」
フィオナが庭を見た。
薬草が、緑色を深くしていた。
フィオナが、一株ずつ確認した。
「育っている」フィオナが静かに言った。
「ルナが、帰ってくる人を待っている、と言っていました」
「そうだな」フィオナが言った。「待っていてくれた」
ルナが来た。
「帰ってきたか」ルナが静かに言った。
「帰ってきた」フィオナが言った。
「薬草、育てておいた」
「ありがとう、ルナ」
「当然のことだ」ルナが言った。「フィオナの薬草だから、フィオナが帰るまで育てる。それだけのことだ」
「そのそれだけのことが、大事だ」フィオナが穏やかに言った。
夕食の後、フィオナが地方の学校で見てきたことを話した。
「三カ所、全部回ってきた」フィオナが言った。
「どうでしたか」エリナが聞いた。
「一カ所目は、王都から馬車で半日の場所にある学校だった。生徒が三十人ほどいた。衛生教育を始めることに、先生が積極的だった。石鹸の使い方を説明したら、子どもたちが興味を持って聞いてくれた」
「どんな子どもたちでしたか」
「好奇心が強かった」フィオナが言った。「知らないことを教えてもらうことを、素直に喜んでいた。子どもは、正直だな、と思った」
「二カ所目は」
「山の近くの村の学校だった。生徒が十人ほどで、小さな学校だった。でも、先生が薬草に詳しかった。ベルトが知っているような山の薬草を、子どもたちが実際に採りに行く授業もあるらしい」
「ベルトさんに話したら、喜ぶかもしれませんね」エリナが言った。
「そうだな」フィオナが言った。「三カ所目は、港の近くの学校だった。漁師の子どもが多かった。ジルカさんが届けている消毒液の話をしたら、知っている子どもがいた。親が使っているのを見ていたらしい」
「知っている子どもがいた」エリナが言った。
「そうだ。親から子どもに伝わっていた。マグダさんとは逆の流れだ」フィオナが静かに言った。「上から下へも、下から上へも、伝わっていた」
エリナは少しだけ考えた。
「三カ所を見てきて、何が一番大事だと思いましたか」
「現場を見ること」フィオナが即答した。「手紙と報告書だけでは、見えないものがある。実際に行って、子どもたちの顔を見て、先生と話して、初めてわかることがある」
「フィオナが現場に行ってくれたから、わかった」
「そうだ」フィオナが言った。「だから、これからも行く。年に何回か、現場を回り続ける」
「ルシェムが帰ってくる場所だから、どこにでも行ける」
「そうだ」フィオナが頷いた。「今回の旅で、それが完全にわかった。どこに行っても、帰ってくる場所があることを知っていた。だから、安心して現場を見られた」
翌日、フィオナがゴードンとダリウスの提案について話した。
「農地から学校を経由して家庭まで届く仕組み、という提案を読んだ」フィオナが言った。
「手紙で送りました」
「正しい方向だと思う」フィオナが言った。「三カ所を回って、その仕組みが必要だとわかった。でも、一つだけ加えたいことがある」
「何ですか」
「現場の先生が、仕組みの一部になること」フィオナが言った。「農地から届いた薬草を、先生が子どもに教える。先生が、ただの受け取り手ではなく、伝える側になる。そのためには、先生への教育も必要だ」
「先生を教育する、というのは」
「石鹸の使い方、薬草の基礎知識、傷の手当て。それを、先生に教える機会を作る」フィオナが言った。「学院が、そういう講習を開けないか、レインに確認してほしい」
「確認します」エリナが言った。
「師匠が退く前に、そういう仕組みを始められれば、師匠の最後の仕事になるかもしれない」フィオナが静かに言った。
「それは、良いと思います」エリナが言った。
レインへの手紙に、フィオナの提案を加えた。
『レインへ
フィオナが地方の学校から帰ってきました。現場を見てきた話を聞きました。
一つ、お願いがあります。地方の学校の先生に対して、石鹸の使い方、薬草の基礎知識、傷の手当てを教える講習を、学院で開けないか検討してほしいです。フィオナの提案です。
師匠が退く前に、そういう仕組みを始められれば、師匠の最後の仕事になるかもしれない、とフィオナが言っていました。
春のルシェムが、初夏になってきました。農地の芽が育っています。フィオナが帰ってきました。全部が動いています。
エリナ』*
五月の半ば、レインから返事が来た。
エリナへ
師匠に話した。
師匠は少しだけ黙ってから、「それをやって退こう」と言った。
最後の仕事として、地方の先生への講習を設計する、と言っていた。来月から準備を始めると言っている。
師匠は、やると決めたら、動く人間だ。
それと、個人的なことを一つ。
師匠が退く準備を始めたことで、俺がどうするかが、具体的になってきた。学院との話し合いを始めた。今年の秋か冬に、ルシェムに来る時に、直接話したいことがある。
待っていてくれるか。
レイン
エリナはレインの手紙を読んで、「待っていてくれるか」という一行を少しだけ見た。
毎回聞いてくれる。
毎回、同じ答えが返ってくる。
『レインへ
師匠が「それをやって退こう」と言ったこと、受け取りました。フィオナに伝えます。
「待っていてくれるか」という問いに、毎回同じ答えを返します。
待っています。
秋か冬に来てください。直接話したいことを、聞かせてください。
エリナ』*
フィオナに、師匠の言葉を伝えた。
「「それをやって退こう」と言ったのか」フィオナが少しだけ目を細めた。
「そうです」
「師匠らしい言い方だ」フィオナが静かに言った。「最後の仕事として、次に続く仕組みを作る。それが、師匠の考える退き方なんだな」
「続けることを、自分が退いた後も続けられる形にして退く」エリナが言った。
「それが、本当の意味で続けることかもしれない」フィオナが言った。「始めた人間が、続ける仕組みを作って退く。そうすれば、始めた人間がいなくなっても、続く」
「父も、そうしたかったのかもしれません」エリナが静かに言った。
「そうかもしれない」フィオナが言った。「でも、当時は環境が整っていなかった。今は、整っている。あなたが整えてきたから」
五月の終わりに、エリナは机に向かって、一枚の紙を取り出した。
地図を描き始めた。
これからの動きを、地図として描いてみようと思った。
ルシェムを中心に置いた。
農地を描いた。ルシェムから馬車で二時間の場所。
倉庫を描いた。ヴァロウとベルナの中間。
各町を描いた。ルシェム、ベルナ、ヴァロウ、トレネ、キーシュ、そして二十三の町。
学院を描いた。王都の東側。
地方の学校を三カ所描いた。フィオナが回ってきた場所。
王都を描いた。アルバ殿下とダリウスがいる場所。
そして、それぞれを線で繋いだ。
農地から倉庫へ。倉庫から各町へ。各町から家庭へ。
学院から地方の学校へ。地方の学校から家庭へ。
王都からダリウスの人脈を通じて地方へ。
全部が繋がっていた。
ゴードンが来た。
「何を描いているんですか」
「これからの動きを、地図にしてみました」エリナが言った。
ゴードンが地図を見た。
「良い地図ですね」ゴードンが静かに言った。
「足りない部分がありますか」
「一つだけ」ゴードンが言った。「人が描かれていません」
「人、ですか」
「場所と場所を繋ぐ線の上に、人がいます」ゴードンが言った。「マリオさんが市場で顔を作っている。ルナさんが薬草を管理している。ベルトさんが農地を見ている。フィオナさんが現場を回る。レインさんが学院と繋いでいる。ダリウス殿が宮廷と繋いでいる。その人たちが、線の上にいます」
「線の上に、人がいる」エリナが繰り返した。
「数字の奥に、人がいる」ゴードンが静かに言った。「あなたが言っていた言葉です。地図の線の上にも、人がいます」
エリナは地図を見た。
線の上に、人が見えてきた。
マリオが市場で顔を作り続けている線。
ルナが薬草を管理している線。
ベルトが農地を丁寧に記録している線。
フィオナが現場を回る線。
レインが学院と繋いでいる線。
ゴードンが数字を積み上げている線。
ダリウスが宮廷から動いている線。
セレーナが台所で待っている場所。
そして、エリナが中心にいるのではなく、全部の線の交わる場所に、ルシェムがあった。
「ルシェムが、交わる場所なんですね」エリナが言った。
「そうです」ゴードンが言った。「全部の線が、ここに繋がっている。ここが、起きる場所だから」
「フィオナが言っていた言葉ですね」
「正確な言葉だと思います」ゴードンが静かに言った。
マリオが事務室に顔を出した。
「何を二人でやっているんだ」
「これからの動きを、地図にしました」エリナが言った。
マリオが地図を覗いた。
「ルシェムが真ん中にあるな」マリオが言った。
「そうです」
「良い地図だ」マリオが言った。「でも、一つ足りない」
「何ですか」
「マルタさんだ」マリオが笑った。「マルタさんが、市場の中にいる。あの人がいるから、市場が動いている。市場が動いているから、石鹸が売れる。それが、全部の始まりだ」
「そうですね」エリナが言った。「マルタさんを描き忘れていました」
「描いておけよ」マリオが言った。「マルタさんは、最初から見ていてくれた人だから」
エリナは地図に、マルタの名前を書き加えた。
それから、グレンの名前も書いた。
ハンスの名前も書いた。
シェナの名前も書いた。
ジルカの名前も書いた。
マグダの名前も書いた。
ベルダンの名前も書いた。
名前が、増えていった。
地図が、人の名前で埋まっていった。
場所より、人の方が多くなった。
その夜、エリナは机に向かった。
レインへの手紙を書いた。
『レインへ
今日、これからの動きを地図にしてみました。
場所と場所を線で繋いだ。でも、ゴードンさんが言いました。線の上に、人がいる、と。
名前を書き加えていったら、場所より人の方が多くなりました。
マリオ、ルナ、ベルト、フィオナ、ゴードンさん、ダリウス、マルタさん、グレンさん、ハンスさん、シェナ、ジルカ、マグダ、ベルダン、アルバ殿下、師匠、そしてあなた。
全員が、線の上にいました。
それが、今日気づいたことです。地図は、場所の地図ではなく、人の地図だったかもしれません。
秋か冬を、楽しみにしています。直接話したいことを、聞かせてください。
エリナ』*
書いて、封をした。
地図を、もう一度見た。
人の名前で埋まった地図を見ていると、少し思った。
七年前、この地図には何も描かれていなかった。
ルシェムの長屋と、台所と、石鹸の型と、エリナとセレーナだけだった。
それが、今日この地図になった。
気づいたら、こうなっていた。
ランプを吹き消した。
初夏の夜が、窓の外にあった。
暑くなく、冷たくもない。
一番好きな温度の夜だった。
地図が、机の上にある。
人の名前で埋まった地図が。
七年前には描けなかった地図が、今日描けた。
エリナ・アッシュフォード、十六歳。
今日、地図を描いた。
場所の地図ではなく、人の地図だった。
それが今夜、一番大事なことだった。
読んでいただきありがとうございます。
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