98話 それぞれの動き出
四月になった。
春が本格的になった。
市場に花と野菜が並んだ。
フィオナの庭の薬草が、緑色を深くした。
農地の薬草が、二年目の芽を出し始めた。
エリナは毎朝、台所の窓を開けた。
春の空気が入ってきた。
今年も、春が来た。
でも、今年の四月は、動きが重なった。
四月の最初の週に、フィオナが地方の学校に向けて出発した。
三カ所を順番に回る予定だった。
一カ所に、二日から三日滞在する。
全部で二週間ほどの旅だった。
出発の朝、フィオナが長屋に来た。
「行ってくる」フィオナが言った。
「行ってらっしゃい」エリナが言った。「気をつけて」
「気をつける」フィオナが言った。「何かあれば、手紙を出す」
「待っています」
「ルシェムが、待っていてくれる」フィオナが言った。「それが、わかっているから、どこにでも行ける」
「帰ってくる場所があるから、遠くに行ける」エリナが言った。
「あなたの言葉だ」フィオナが笑った。「でも、今日は自分の言葉として使う」
「そうしてください」
マリオが見送りに来た。
「フィオナさん、行ってらっしゃい」マリオが言った。
「ありがとう、マリオ」フィオナが言った。
「ルシェムは、俺が守っておく」マリオが言った。
「マリオが守っているなら、安心だ」フィオナが笑った。「いつも、そう言ってくれるから、どこにでも行ける」
「それが俺の仕事だから」マリオが言った。
ルナが来た。
「庭の薬草、水をやっておく」ルナが静かに言った。
「ありがとう、ルナ」フィオナが言った。「帰ってきた時に、育っていると嬉しい」
「育てておく」ルナが頷いた。「植物は、帰ってくる人を待っている」
「その言葉が、好きだ」フィオナが言った。
フィオナの馬が動き出した。
エリナ、マリオ、ルナが見送った。
フィオナが振り返って手を振った。
見えなくなった。
「また戻ってくるな」マリオが言った。
「戻ってきます」エリナが言った。「ここが、帰ってくる場所だから」
「そうだな」マリオが頷いた。「俺たちは、ここにいる。それだけでいい」
四月の第二週に、ベルトが農地から報告に来た。
「二年目の芽が出てきた」ベルトが言った。
「三種類、全部ですか」エリナが聞いた。
「全部」ベルトが短く言った。「腐葉土を混ぜた種類も、今年は去年より早く芽が出た」
「改善しているんですね」
「している」ベルトが言った。「ルナの言う通りだった」
「ルナに伝えます」
「もう伝えた」ベルトが短く言った。
「そうですか」エリナが言った。「ベルトさん、最初の頃より言葉が増えましたね」
「そうか」ベルトが少しだけ考えた。「この場所に慣れたから、かもしれない」
「慣れると、言葉が増えますか」
「慣れると、言わなくてもわかることが増える」ベルトが言った。「でも、言った方がいいことも、わかるようになる」
「なるほど」エリナが言った。「ルナも、最初より言葉が増えましたよ」
「ルナは、まだ少ない」ベルトが言った。
「そうですね」エリナが笑った。「でも、大事なことは言ってくれます」
「それで十分だ」ベルトが言った。「大事なことだけ言う人間の言葉は、重い」
四月の半ばに、ダリウスが来た。
予告があった。
三つ目の提案を、直接話したいとのことだった。
エリナ、ゴードン、フィオナが話を聞く予定だったが、フィオナは地方の学校を回っていた。
フィオナには、後で手紙で共有することにした。
ダリウスが事務室に来た。
前回来た時より、また少し違う顔をしていた。
前回は、何かを持ってきた顔だった。
今回は、決まった顔だった。
「三つ目の提案を、話していいか」ダリウスが言った。
「どうぞ」
「一つ目の農地の薬草栽培は、動いている。二つ目の地方学校への衛生教育展開も、フィオナ殿が動いている」ダリウスが言った。「三つ目は、それらを繋ぐことだ」
「繋ぐ、というのは」
「農地で育った薬草が、地方の学校に届く。学校で子どもたちが使い方を学んで、家に持ち帰る。家族に伝える。その連鎖を、クロヴェル家が持っている地方の人脈と商業ネットワークを使って、整える」ダリウスが言った。
エリナは少しだけ考えた。
「農地から、学校を経由して、家庭まで」
「そうだ」ダリウスが言った。「今は、各町の薬屋を通じて届けている。それは続ける。でも、学校というルートを加えることで、届かない場所が減る」
「子どもが親に教える連鎖と、同じ方向ですね」エリナが言った。
「そうだ」ダリウスが静かに言った。「マグダ殿がヴァロウで始めたことを、仕組みとして整える」
「一つ一つが、繋がっていく形ですね」エリナが言った。
「そうだ」ダリウスが言った。「これが、俺が考えた一緒に動くことの形だ」
ゴードンが静かに言った。
「仕組みとして整えるためには、記録が必要です。どこからどこへ、何がいつ届いたかを記録することで、改善できる」
「そうだ」ダリウスが頷いた。「それは、ゴードン殿に頼みたい部分だ」
「わかりました」ゴードンが言った。「記録の形を、一緒に設計しましょう」
「それで進められるか」ダリウスがエリナに聞いた。
「進められます」エリナが言った。「でも、一つだけ確認させてください」
「何だ」
「クロヴェル家の人脈を使うとのことですが、その人脈の中に、まだ以前の方針に近い人間が残っていませんか」
「残っている」ダリウスが正直に言った。「全員が変わったわけではない。でも、この仕組みに協力してくれる人間を選んで動く。選んだ人間には、共通の利益がある。薬草が届けば、地域の人間が健康になる。健康になれば、労働力が増える。それは、地方の商業にとっても利益になる」
「利益で動く人間も、同じ方向に引き込む」
「そうだ」ダリウスが静かに言った。「感情で動かなくても、利益が合えば動く人間がいる。それが、現実だ」
「正確な見方だと思います」エリナが言った。
昼食を、三人で食べた。
エリナ、ゴードン、ダリウス。
マリオが食事を持ってきた。
「ダリウスさん、久しぶりだな」マリオが言った。
「また来た」ダリウスが言った。
「来るたびに、大事な話をしていくな」マリオが笑った。
「そうかもしれない」ダリウスが言った。「ルシェムに来ると、王都より話しやすい」
「それは、なぜですか」マリオが言った。
「王都では、誰もが何かを計算している」ダリウスが言った。「ここでは、計算なしに話せる。だから、本当のことを話せる」
「フィオナさんも、同じことを言っていた」マリオが言った。
「そうか」ダリウスが少しだけ驚いた顔をした。
「計算なしに話せる場所が、ここだって」マリオが言った。「だから、フィオナさんは家を借りたんだと思う」
「なるほど」ダリウスが静かに言った。「そういう場所が、ここにある」
「エリナが作った場所だよ」マリオが言った。
「マリオが作った部分も大きいです」エリナが言った。
「また始まった」マリオが笑った。「功績を人に返す癖」
夕方、ダリウスが帰る前に、長屋の前で少し話した。
「一つだけ、聞いていいか」ダリウスが言った。
「どうぞ」
「お前は、これからどこに向かっていると思っているか」
エリナは少しだけ考えた。
「今は、続けることの先が、少し見えてきた気がします」エリナが言った。
「続けることの先、とは」
「農地が育つ。学校に届く。家庭まで届く。その仕組みが整っていく。それと同時に、父の改革案が再評価されつつある。名誉が回復された」エリナが言った。「全部が、続けてきたことの先にある形だと思っています」
「商会は、どこまで大きくするつもりか」
「大きくすることが目的ではありません」エリナが言った。「届くべき場所に届けること。それが、続いていれば、形はその時々で変わっていい」
「形は変わっていい、か」ダリウスが繰り返した。
「そうです」
「それが、お前のやり方だな」ダリウスが静かに言った。「形に縛られない。でも、方向は変えない」
「そうかもしれません」
「それが、父上よりうまくやった理由だと、俺は思っている」ダリウスが言った。
「ダリウス様も、同じことを言うんですね」エリナが言った。
「師匠も言ったか」
「言いました」
「正確な観察だと思っているから」ダリウスが静かに言った。「それだけだ」
ダリウスが帰った後、マリオが来た。
「今日の話、どうだった」
「三つ目の提案が、具体的になりました」エリナが言った。「農地から学校を経由して家庭まで届く仕組みを、クロヴェル家の人脈を使って整える」
「全部が繋がるんだな」マリオが言った。
「そうなっていきます」
「最初に豆のペーストを作った時から、こんなところまで来たんだな」マリオが言った。
「また言いましたね」エリナが言った。
「また言った」マリオが笑った。「でも、毎回本当のことだから、また言う」
「わかっています」
「お前も、毎回同じ返事をするな」マリオが言った。
「毎回本当のことだから」
「そうだな」マリオが頷いた。「俺たちは、毎回同じことを言い合っているな」
「それが、続けることですね」エリナが言った。
「そうだよ」マリオが笑った。
その夜、エリナは机に向かった。
フィオナへの手紙を書いた。
『フィオナへ
今日、ダリウスが来ました。三つ目の提案を話してくれました。
農地から、学校を経由して、家庭まで届く仕組みを整える提案です。クロヴェル家の人脈と商業ネットワークを使って。ゴードンさんが記録の設計を担当します。
詳細は、帰ってきたら直接話しましょう。
地方の学校は、どうでしたか。現場で見てきたことを、聞かせてください。
フィオナが地方に行っている間も、ルシェムは動いています。庭の薬草も、ルナが水をやっています。
待っています。
エリナ』*
レインへの手紙も書いた。
『レインへ
今日、ダリウスが来て、三つ目の提案を話してくれました。農地から学校を経由して家庭まで届く仕組みを整える、という内容です。
一つずつが、繋がっていく形になってきました。
ダリウスが言いました。「形は変わっていい。でも、方向は変えない。それがうまくやった理由だ」と。
あなたと話していた言葉が、いろんな人の言葉になっていく。それが、届いていることだと思っています。
春のルシェムは、また動いています。農地の芽が出てきました。フィオナが地方の学校に行っています。ダリウスが提案を持ってきました。
全部が、続けてきたことの形です。
エリナ』*
二通の封筒を並べた。
フィオナへ。レインへ。
今日のことを、それぞれに届ける。
同じことを書いているが、届ける相手が違うから、言葉が少し違う。
それが、手紙というものだった。
ランプを吹き消した。
春の夜が、窓の外にあった。
今日、四月に、動きが重なった。
フィオナが地方に出発した。
ベルトが農地の報告をした。
ダリウスが三つ目の提案を持ってきた。
全部が、それぞれの場所で動いていた。
でも、全部が同じ方向を向いていた。
エリナ・アッシュフォード、十六歳。
今日、それぞれが動き出した。
全部が、同じ方向に。
それが今夜、一番大事なことだった。
読んでいただきありがとうございます。
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