97話 春になる、また
二月になった。
冬がまだ続いていた。
でも、日が少しずつ長くなってきた。
夕方、作業場の前に立つと、去年の今頃より少しだけ長く外が明るかった。
エリナは、その変化に気づいていた。
春が、近づいている。
毎年、同じように春が来た。
でも、毎年少し違う春だった。
今年の春は、父の名誉が回復された後の最初の春だった。
二月の初めに、レインから手紙が来た。
エリナへ
「届いた」という言葉を受け取った。
「続けてきたことが、今日の形になった」という言葉も。
俺も、同じことを感じた。遠くにいたが、届いた日のことは、ここにいてもわかった気がした。
師匠に話したら、「そうか」と言った。それだけだったが、師匠の「そうか」は、受け取った、という意味だとわかっている。
春になったら、行く。今年の春のルシェムを見たい。
それと、個人的なことを一つ。
師匠が今年の夏に退く方向で、学院と話し合いが進んでいる。師匠が退いた後、俺がどうするかを、少し考えている。
まだ言葉にできない部分がある。でも、考えていることは確かだ。
春に、話せると思う。
レイン
エリナはレインの手紙を読んで、「春に、話せると思う」という一行を少しだけ見た。
言葉にできない部分がある。でも、考えている。
以前、レインが同じようなことを言った時、大事なことが言葉になる前だった。
春に来る。そして、話す。
『レインへ
「届いた日のことは、ここにいてもわかった気がした」という言葉を受け取りました。遠くにいても、繋がっているということですね。それが、続けてきたことの形だと思います。
師匠のことを受け取りました。師匠が退いた後のことを、春に話してください。聞きます。
春のルシェムを、見てほしいと思っています。今年の春は、少し違う春かもしれません。父の名誉が回復された後の最初の春だから。
待っています。
エリナ』*
二月の半ばに、ダリウスから手紙が来た。
エリナ・アッシュフォード殿へ
名誉回復の決定が出た後、宮廷内での反応を観察してきた。
一つ、良い傾向がある。アッシュフォード侯爵の改革案が、今になって再評価されつつある。当時の記録を読み直している官僚が増えている。
父上の案が、今の学院の衛生教育や、商会の活動と同じ方向だったと、気づく人間が増えてきた。
記録は消えない、とエリナが言っていた。その通りだった。
それと、三つ目の提案について、そろそろ話せる段階になってきた。
次にルシェムに行く時に、直接話したい。
ダリウス・クロヴェル
エリナはダリウスの手紙を読んで、「記録は消えない、とエリナが言っていた」という一行を少しだけ見た。
自分が言った言葉が、ダリウスの手紙に入っていた。
言葉が、届いた人間の中に残っている。
それも、続けることの形だった。
『ダリウス様へ
父の改革案が再評価されつつある、という報告を受け取りました。記録が残っていたから、今になって届いている。それが、記録は消えない、ということだと思います。
三つ目の提案を、楽しみにしています。ルシェムで聞かせてください。
エリナ・アッシュフォード』*
フィオナに、ダリウスの手紙の内容を共有した。
「父の改革案が再評価されつつある、か」フィオナが言った。
「そうです」
「それは、大きな変化だ」フィオナが静かに言った。「当時、異端として扱われていたものが、今になって正しかったと認められつつある」
「記録が残っていたから、見直せた」
「そうだ」フィオナが言った。「記録がなければ、再評価もできなかった。ゴードンさんが積み上げてきた記録と、学院の記録と、審議委員会の記録が、全部繋がっている」
「ゴードンさんに伝えます」エリナが言った。
「伝えてあげなさい」フィオナが穏やかに言った。「あの人は、自分の仕事が形になることを、静かに喜ぶ人だから」
ゴードンに伝えた。
「父の改革案が、宮廷内で再評価されつつあるとのことです。当時の記録を読み直している官僚が増えていると、ダリウスが伝えてくれました」
「そうですか」ゴードンが少しだけ、帳簿から目を上げた。
「ゴードンさんが積み上げてきた記録が、その基盤になっています」
「私が積み上げてきたのは、エリナさんの商会の記録です。父上の当時の記録は、学院にあるものです」ゴードンが言った。
「でも、ゴードンさんが示してきた数字が、父の案が正しかったことを証明してきました」エリナが言った。「それが、再評価の理由の一つだと思っています」
ゴードンが少しだけ間を置いた。
「そうであれば」ゴードンが静かに言った。「嬉しいことです」
「嬉しい、と言ってくれましたね」エリナが言った。
「今日は、言えました」ゴードンが言った。「それだけのことが、積み上がってきたから」
三月になった。
春が来た。
去年と同じように、朝の空気が柔らかくなった。
市場に花が並び始めた。
フィオナの庭の薬草が、また新しい葉を出し始めた。
ルナが採取してくる薬草が、冬のものから春のものに変わり始めた。
エリナは毎朝、台所の窓を開けた。
春の空気が入ってきた。
今年の春だ。
父の名誉が回復された後の、最初の春だ。
でも、空気は毎年と同じ春の空気だった。
季節は、人間の事情に関係なく来る。
それが、少し好きだった。
春になってから、マリオが言った。
「春になると、また違うルシェムになるな」
「毎年、そうですね」エリナが言った。
「お前と話していると、毎年同じことを言っている気がする」マリオが言った。「でも、毎回本当のことだから、また言う」
「毎回本当のことだから、また言える」
「そうだよ」マリオが頷いた。「繰り返すことが、続けることだな」
「そうだと思います」
「お前から学んだ言葉を、最近よく使うようになった」マリオが言った。
「どんな言葉ですか」
「急がない。でも、止まらない。続けることが繋がること。帰ってくる場所があるから、遠くに行ける」マリオが言った。「全部、お前の言葉だ」
「私の言葉というより、気づいたことを言葉にしただけです」
「それが、お前の仕事だよ」マリオが笑った。「気づいて、言葉にする。それが、お前がみんなに届けてきたものだ」
三月の半ばに、レインが来た。
春のルシェムを見に来た。
馬で来た。
昼前に着いた。
エリナが長屋の前で待っていた。
「来た」レインが言った。
「来てくれた」エリナが返した。
「春のルシェムだ」レインが言った。
「そうです」エリナが言った。「今年の春は、少し違う春です」
「届いた後の春だから」
「そうです」
「どう違う」レインが聞いた。
「空気は同じです。でも、立っている自分が、少し違う」エリナが言った。「届いたことを知っている自分が、この春の空気を吸っている」
「そういうことか」レインが静かに言った。
「そういうことです」
昼食の後、エリナとレインが事務室で話した。
「手紙に書いていた、師匠が退いた後のことを、話せるか」エリナが言った。
「話せる」レインが言った。「まだ全部ではないが、言葉になってきた部分がある」
「聞かせてください」
「師匠が退いた後、俺が学院に残るかどうかを、考えていた」レインが静かに言った。
「学院を離れることを、考えているんですか」
「考えている」レインが言った。「学院には、七年以上いた。師匠が始めた衛生教育も、次の人間が引き継げる段階になってきた。俺がいなくても、続けられる形が、できてきた」
「それが、師匠の言っていた、次の世代に場所を作る、ということですか」
「そうだと思う」レインが言った。「始めた人間が退いて、続ける人間が残る。それが、続けることの形の一つだ」
エリナは少しだけ考えた。
「学院を離れたら、どこに行くつもりですか」
レインが少しだけ間を置いた。
「まだ決まっていない」レインが言った。「でも、一つだけ、確かなことがある」
「何ですか」
「ルシェムに、もっと近くにいたい」レインが静かに言った。「手紙だけでなく。たまに来るだけでなく。もっと近くに」
エリナは、その言葉を受け取った。
以前、同じ方向のことを話したことがあった。
もっと近くで、一緒にいたい、と言ってくれた夜があった。
それが、今日、もう少し具体的になってきていた。
「もっと近く、というのは」エリナが静かに言った。
「ルシェムに、拠点を作ることを考えている」レインが言った。「フィオナが作ったように」
エリナは少しだけ止まった。
フィオナが、ルシェムに家を借りた。
その時、フィオナは「いつか、ここが帰ってくる場所になりたい」と言っていた。
今、レインが同じことを言おうとしている。
「フィオナが、ルシェムに家を借りた時に、言っていた言葉があります」エリナが言った。
「何と言っていた」
「いつか、来た、の中に帰ってきた、が混じってほしい、と言っていました」エリナが言った。「そして、今は、帰ってきた、という感覚があると言っています」
「フィオナが、そうなった」
「そうなりました。来るたびに、少しずつそうなっていった」
「俺も、そうなりたい」レインが静かに言った。「来るたびに、少しずつ。急がなくていい。でも、その方向に向かいたい」
「急がない。でも、止まらない」エリナが言った。
「そうだ」レインが頷いた。「それが、俺たちのやり方だから」
少しだけ間があった。
「一つだけ、確認してもいいですか」エリナが言った。
「どうぞ」
「ルシェムに拠点を作りたい、というのは、私がいるから、ですか」
レインが少しだけ、エリナを見た。
「それが、一番の理由だ」レインが静かに言った。
「そうですか」
「他の理由もある。農地の薬草の件。衛生教育の地方展開の件。でも、一番の理由は、お前がいるから、だ」
エリナは、その言葉を受け取った。
整理しなかった。
分析しなかった。
ただ、受け取った。
「来てください」エリナが静かに言った。「ルシェムが、あなたの場所にもなるといいと思っています」
「なると思う」レインが言った。「気づいたら、そうなっていた、という形で」
「お母さんの言葉ですね」エリナが笑った。
「そうだな」レインが少しだけ、口の端を動かした。
夕食は、全員で食べた。
セレーナ、マリオ、ルナ、ゴードン、フィオナ、レイン、ベルト、エリナ。
春の夕食だった。
テーブルに、春の野菜が並んだ。
マリオが言った。
「春のルシェムは、どうだ、レイン」
「明るい」レインが言った。「毎年来ているが、毎年少し違う」
「何が違う」
「立っている自分が、少し違う」レインが言った。「エリナが言っていた言葉だが、そうだと思う」
「お前も、そういうことを言うようになったな」マリオが笑った。
「エリナから学んだ」レインが静かに言った。
「そういうことを言うと、エリナが「私から学んだのではなく、あなた自身が気づいた」と言うぞ」マリオが笑った。
「そうかもしれない」レインが言った。
エリナが言った。
「そうだと思います」
全員が笑った。
食事が終わった後、フィオナが帰り際にエリナに言った。
「今日、何か話したな」フィオナが言った。
「そうです」
「詳細は聞かない」フィオナが言った。「でも、顔を見れば、わかる」
「どんな顔をしていますか」
「次のことが、少し決まった顔だ」フィオナが穏やかに言った。「これまでと違う種類の、これからが見えてきた、という顔」
「そうかもしれません」
「良かった」フィオナが言った。「ここが、そういうことが起きる場所であり続けている」
「フィオナが言っていた言葉ですね」
「自分の言葉が、ここで何度も当てはまる」フィオナが笑った。「それが、ここがそういう場所である証拠だと思う」
その夜、エリナは机に向かった。
レインへの手紙は、今夜は書かなかった。
レインは今夜、ここにいる。
明日の朝、見送ってから書く。
代わりに、短いメモを書いた。
今年の春が来た。
父の名誉が回復された後の最初の春だった。
レインが、ルシェムに拠点を作ることを考えていると言った。一番の理由は、私がいるから、と言ってくれた。
それを受け取った。
急がない。でも、止まらない。その方向に向かっていく。
それが、私たちのやり方だと、二人で確認した。
続けることで、形が変わっていく。
今日の春は、そういう春だった。
書いて、引き出しに入れた。
ランプを吹き消した。
春の夜が、窓の外にあった。
去年の春と同じ夜だったが、少し違う夜だった。
レインが、ここにいる夜だった。
明日の朝、見送る。
でも、また来る。
少しずつ、近くなっていく。
それが、これからの形だった。
エリナ・アッシュフォード、十六歳。
今日、春が来た。
今日、一番の理由は、お前がいるから、と言ってもらえた。
それが今夜、一番大事なことだった。
読んでいただきありがとうございます。
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