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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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96/120

96話 年が明けて、届いた日

 一月になった。


 新しい年が来た。


 ルシェムの元旦は、今年も静かだった。


 市場が休んだ。道を歩く人が少なかった。


 エリナは朝、台所の窓を開けた。


 冷たい空気が入ってきた。


 霜が降りていた。


 今年も、同じ朝から始まった。


 元旦の朝、台所に行くと、蜂蜜のパンが置いてあった。


 八年連続だった。


「また蜂蜜のパンですね」エリナが言った。


「毎年同じの方がいい」セレーナが言った。「始まりには、同じものがいい」


「来年も、同じですか」


「来年も同じにする」セレーナが穏やかに言った。「それが、続けることだから」


 エリナは蜂蜜のパンを食べた。


 甘かった。


 八年間、変わらない甘さだった。


 変わらない甘さが、続いてきたことの味だった。


 マリオが来た。


「おめでとう、新年だな」


「おめでとうございます」


「毎年言っているな」マリオが笑った。


「毎年言ってくれますね」


「来年も言う」


「わかっています」


 マリオが少しだけ、エリナを見た。


「今年は、どんな年になると思う」


「わかりません」エリナが言った。「でも、続けることは変わりません」


「それだけで十分だな」マリオが頷いた。「続ければ、何かになる。それが、これまでそうだったから」


「そうですね」


「お前と一緒にいて、一番覚えた言葉だ」マリオが言った。「急がない。でも、止まらない」


「マリオが、その言葉を使えるようになりましたね」


「お前から学んだ」マリオが言った。「七年間で、一番大事な言葉を学んだ」


 一月の第二週に、レインから年始の手紙が来た。


エリナへ


新年になった。


今年も、手紙を書く。今年の冬に、また霜の石畳を一緒に歩く。それが、今年の始まりに確かなことだ。


一つだけ、届けたいことがある。


師匠が、今年で学院を退く可能性がある。体の問題ではなく、次の世代に場所を作りたいと言っている。


師匠が退いた後のことを、少し考えている。でも、うまく言葉にできない。


ただ、一つだけわかることがある。師匠がいなくなっても、師匠が始めたことは続く。衛生教育が続く。薬草の記録が続く。それが、続けることの形だと思っている。


今年も、よろしく。


レイン


 エリナはレインの手紙を読んで、「師匠が始めたことは続く」という一行を少しだけ見た。


 始めた人がいなくなっても、続けることで形が残る。


 それは、父のことと重なった。


『レインへ


新年の手紙を受け取りました。


師匠が退く可能性がある、という話を受け取りました。「師匠が始めたことは続く」という言葉が、正確だと思います。


父のことと、重なりました。父はいなくなった。でも、父が正しかったことは記録に残り、今も続いています。師匠が退いても、始めたことは続く。それが、続けることの力だと思います。


今年も、手紙を書きます。冬に、霜の石畳を歩きます。それが、今年も変わらないことです。


エリナ』


 一月の終わりが近づいた頃、アルバ殿下から手紙が来た。


 封を開ける前から、内容の予感があった。


エリナ殿へ


父上が、今日、決定を出した。


アッシュフォード侯爵の名誉回復が、正式に認められた。


父上は「遅すぎた」と言っていた。でも、「ちゃんと届いた」とも言っていた。


正式な書類は、今週中に届く。


長い時間がかかったが、届いた。


アルバ・ヴァルデリア


 エリナは手紙を読んで、しばらく動かなかった。


 正式に認められた。


 届いた。


 陛下が「遅すぎた」と言った。


 陛下も、そう思っていた。


 でも、「ちゃんと届いた」とも言った。


 エリナは少しだけ、目を閉じた。


 父の顔を、思い浮かべようとした。


 記憶の中の父は、エリナが一歳の時にいなくなった。


 顔は、セレーナが話してくれた言葉の中にしかなかった。


 でも、今日、その父に届いた気がした。


 セレーナを呼んだ。


「お母さん、来てほしいことがあります」


 セレーナが台所から来た。


「どうしたの」


「座ってください」


 セレーナが椅子に座った。


 エリナがアルバ殿下の手紙を、セレーナの前に置いた。


「読んでください」


 セレーナが手紙を取った。


 読み始めた。


 読みながら、少しずつ手が震えた。


 読み終えた。


 しばらく、黙っていた。


「セレーナさん」エリナが言った。


「ちゃんと届いた」セレーナが静かに言った。


「届きました」


「遅かったけど」セレーナが言った。声が少し揺れていた。「ちゃんと届いた」


「お父さんが、どこかで聞いていると思います」


「聞いているわ」セレーナが言った。「きっと」


「何と言っていると思いますか」


 セレーナが少しだけ笑った。


「遅い、と言っているわ。絶対に」


「そして、でも、ちゃんと来た、とも言っている」


「そうね」セレーナが目を拭いた。「あの人は、そういう人だったから」


 フィオナに知らせた。


 フィオナが長屋に来た。


 手紙を見せると、少しだけ黙った。


「決定が出た」フィオナが静かに言った。


「そうです」


「ダリウスが申請してから、何ヶ月かかった」


「半年以上かかりました」


「でも、出た」フィオナが言った。「クロヴェル家が申請したことで、委員会も動かざるを得なかった。ダリウスがいなければ、こうはならなかった」


「フィオナが、橋渡しをしてくれたから、ダリウスが動き続けられた」エリナが言った。


「あなたが、一緒に動くことを提案したから、ダリウスが動けた」フィオナが言った。「誰か一人の功績ではない」


「そうですね」エリナが頷いた。


「全員の積み重ねが、今日になった」フィオナが静かに言った。「それが、正確だと思う」


 マリオに知らせた。


「お父さんの名誉回復が、正式に決まりました」


 マリオが少しだけ動かなかった。


「そうか」マリオが言った。


「そうです」


「良かった」マリオが言った。「本当に、良かった」


「ありがとうございます」


「礼はいらない」マリオが言った。「でも、一つだけ言っていいか」


「どうぞ」


「お前が諦めなかったから、届いた」マリオが静かに言った。「七年間、諦めなかった。諦めなかった人間のところに、ちゃんと届く。それが、今日証明された」


「諦めなかったというより、続けていた、というのが正確だと思います」エリナが言った。


「お前は、そういうことを言うな」マリオが少し笑った。「でも、どちらでも同じことだ。諦めなかったから続けられた。続けたから、届いた」


 ルナに知らせた。


「お父さんの名誉回復が、正式に決まりました」


「そうか」ルナが棚を見ながら言った。


「嬉しいですか」


「嬉しい」ルナが静かに言った。「でも、当然のことが、当然の形になった、という感じがする」


「当然のことが、当然の形に」


「ずっと正しかった。正しいことは、いつか正しいと認められる」ルナが言った。「時間がかかっただけで、当然のことだ」


「ルナらしい言い方ですね」


「事実だから」ルナが平坦な声で言った。それから、少しだけエリナを見た。「おめでとう」


「ありがとうございます」


「エリナが続けてきたから、当然のことが当然の形になった」ルナが言った。「それも、事実だ」


 ゴードンに知らせた。


「正式な書類が、今週中に届くとのことです。受け取り次第、記録してください」


「わかりました」ゴードンが静かに言った。「この記録は、特別に丁寧に残します」


「お願いします」


「一点だけ」ゴードンが言った。


「何ですか」


「最初にエリナさんに出会った時から、この日が来ることを、どこかで信じていました」ゴードンが静かに言った。「数字を積み上げながら、いつかこの日が来ると思っていた」


「そうだったんですか」


「そうです」ゴードンが言った。「だから、一行も手を抜かなかった。この日に備えて、全部を正確に記録してきました」


「ゴードンさんの記録が、今日の基盤になっています」エリナが言った。


「エリナさんが動いたから、記録できました」ゴードンが言った。「いつものことですが」


 その週の終わりに、正式な書類が届いた。


 王宮の印が押された、羊皮紙の書類だった。


 アッシュフォード侯爵の名誉回復を正式に認める、という内容だった。


 副長官の署名があった。


 陛下の印があった。


 エリナとセレーナで、一緒に読んだ。


 ゴードンが約束通り、丁寧に記録した。


 フィオナが来て、一緒に書類を見た。


 マリオが来て、「本物だな」と言った。


 ルナが来て、黙って書類を見た。それから、「良かった」と言った。


 ベルトが来て、「そうか」と短く言った。


 夜、全員で夕食を食べた。


 セレーナ、マリオ、ルナ、ゴードン、フィオナ、ベルト、エリナ。


 いつもの顔触れだった。


 レインはいなかった。


 でも、レインへの手紙を今夜書くつもりだった。


 マリオが言った。


「乾杯しよう」


「何に乾杯しますか」マリオが聞いた。


「続けてきたことに」エリナが言った。


 それは、いつかの夜に言ったのと同じ言葉だった。


 全員が、湯呑みを持った。


「続けてきたことに」全員が言った。


 声が揃った。


 今度は、練習なしに揃った。


 毎回言ってきたから、言葉が体に入っていた。


 食事が終わった後、セレーナがエリナに言った。


「一つだけ、言っていいか」


「どうぞ」


「お父さんが聞いていたとしたら、一番嬉しかったのは、名誉が回復されたことではないと思う」


「では、何ですか」


「エリナが、こんなに多くの人と一緒に動いていること」セレーナが穏やかに言った。「お父さんは、一人で正しいことをしようとして、折れた。でも、あなたは一人じゃなかった。それが、一番大きな違いだと思う」


「お父さんは、一人だったんですか」


「そうでもなかったかもしれない」セレーナが言った。「でも、信じる人が少なかった。あなたには、たくさんいる」


「マリオがいた。ルナがいた。ゴードンさんがいた。フィオナがいた。レインがいた。ダリウスが動いてくれた。アルバ殿下が動いてくれた」エリナが言った。


「それが、お父さんとの違い」セレーナが静かに言った。「あなたは、その人たちが集まれる場所を作った。それが、お父さんよりうまくやった、ということだと思う」


 その夜、エリナはレインへの手紙を書いた。


『レインへ


今日、届きました。


父の名誉回復が、正式に認められました。書類が届きました。お母さんと一緒に読みました。


お母さんが言いました。「お父さんが一番嬉しかったのは、名誉が回復されたことではなく、エリナがこんなに多くの人と一緒に動いていることだと思う」と。


その言葉が、今夜一番大事な言葉でした。


あなたも、その「多くの人」の一人です。手紙を書き続けてくれた。来続けてくれた。言葉を届けてくれた。それが、今日に繋がっています。


ありがとうございます。


続けてきたことに、今夜乾杯しました。全員の声が揃いました。練習なしに揃いました。毎回言ってきたから、体に入っていたんだと思います。


それが、続けることの形だと思いました。


今年も、続けます。


エリナ』


 書いて、封をした。


 机の引き出しを開けた。


 レインからの手紙が、全部入っていた。


 今日、また一通増えた。


 そして、今夜書いた手紙が、また届く。


 引き出しを閉めた。


 ランプを吹き消した。


 冬の夜が、窓の外にあった。


 霜が、また降りているかもしれなかった。


 明日の朝、窓を開けて確認する。


 それが、変わらない習慣だった。


 今日、父の名誉が正式に回復された。


 届いた。


 遅かったけど、ちゃんと届いた。


 エリナ・アッシュフォード、十六歳。


 今日、届いた。


 続けてきたことが、今日の形になった。


 それが今夜、一番大事なことだった。


 そして、明日も続ける。


 それが、これからも変わらないことだった。

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