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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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100/120

100話 百回目の朝

 六月になった。


 夏が来た。


 朝から日差しが強かった。


 エリナは台所の窓を開けた。


 夏の空気が入ってきた。


 熱かった。


 でも、悪くなかった。


 今日が、何日目かを、ふと思った。


 この物語が始まってから、何度朝が来たか。


 数えることはしなかった。


 でも、毎朝窓を開けてきた。


 それが、続いてきたことだった。


 朝食を食べながら、セレーナが言った。


「今日は、何か特別なことがある?」


「特に、予定はありません」エリナが言った。


「そうか」セレーナが言った。「特別なことがない日が、一番大事な日かもしれないわね」


「どういう意味ですか」


「特別なことがある日は、その日が記憶に残る」セレーナが穏やかに言った。「でも、特別なことがない日が続くことで、特別な日が届く。特別でない日が、大事なことを支えているんだと思う」


「当たり前の日が、続くことが大事だということですか」


「そうよ」セレーナが言った。「毎朝、窓を開けること。薬草茶を飲むこと。作業場に行くこと。手紙を書くこと。そういう当たり前が続いた先に、大事なことが届く」


「お母さんが、そういうことを言いましたね」エリナが言った。


「私も、長く生きてきたから」セレーナが笑った。


 その日の午前中、エリナは作業場に行った。


 ルナとベルトが、いつも通り仕事をしていた。


 ルナが薬草の棚を整理していた。


 ベルトが石鹸の型を確認していた。


 二人とも、エリナが来ても、特に何も言わなかった。


 いつも通りだった。


 エリナもいつも通り、棚の状態を確認した。


 何も変わっていなかった。


 全部、ある。


「今日の状態はどうですか」エリナがルナに聞いた。


「いつも通りだ」ルナが静かに言った。


「いつも通りが、一番いい」エリナが言った。


「そうだ」ルナが頷いた。「いつも通りが続くことが、積み重なることだ」


「お母さんが、今朝似たことを言っていました」


「セレーナは、正しいことを言う」ルナが平坦な声で言った。


 昼前に、マリオが市場から戻ってきた。


「今日は、特に変わったことはなかった」マリオが言った。


「そうですか」


「でも、一つだけ」マリオが少し笑った。


「何ですか」


「マルタさんに会った」マリオが言った。


「それは、毎日会っていますね」


「そうだけど」マリオが言った。「今日、マルタさんが言った。「最近、ルシェムが変わってきた気がする」と」


「どう変わったと言っていましたか」


「人が増えた、と言っていた」マリオが言った。「商会の仕事で来る人間が増えた。農地の人間が来る。地方から来る人間も増えた。それが、ルシェムを変えているって」


「マルタさんは、ちゃんと見ていますね」エリナが言った。


「最初から見ていたから、変化がわかるんだろ」マリオが言った。


 午後、ゴードンが今月の数字をまとめて持ってきた。


「六月の中間報告です」ゴードンが言った。


「ありがとうございます」エリナが受け取った。


 読んだ。


 供給している町の数が、二十三から二十五になっていた。


「二カ所、増えたんですね」


「農地からの供給が安定したことで、新しい町にも届けられるようになりました」ゴードンが言った。


「去年と比べて、どうですか」


「去年の同時期より、供給量が二割増えています」ゴードンが言った。「農地の二年目の効果が、数字に出てきました」


「ベルトさんが、丁寧に管理してくれているから」


「そうですね」ゴードンが静かに言った。「ベルトさんの記録が、来年の計画に活きています」


「人の仕事が、数字になっている」


「そうです」ゴードンが言った。「数字の奥に、ベルトさんの一年間がある」


 エリナは数字の報告書を見ながら、少しだけ考えた。


 二十五の町。


 七年前は、五つだった。


 五から二十五になった。


 でも、一気に増えたのではなかった。


 一つずつ、積み上がっていた。


 一年目は、五つだった。


 二年目は、倉庫ができて、少し増えた。


 三年目は、農地が始まった。


 四年目は、学院の衛生教育が始まった。


 五年目は、地方学校への展開が始まった。


 六年目の今年、二十五になった。


 全部が、繋がっていた。


 夕方、フィオナが長屋に来た。


「今日、ダリウスから連絡が来た」フィオナが言った。


「どんな内容ですか」


「三つ目の提案の仕組みが、来月から試験的に動き始める」フィオナが言った。「クロヴェル家の地方の商業ネットワークを使って、農地の薬草を地方の学校に届けるルートを作った」


「もう動き始めるんですか」


「ダリウスが動くと決めたら、早い」フィオナが静かに言った。「それが、あの人の良いところだと思っている」


「フィオナが、ダリウスのことをそういう言い方をするようになりましたね」


「変わってきたから、見え方も変わった」フィオナが言った。「以前は、どっちの人間かわからなかった。今は、同じ方向を向いている人間だ、とわかっている」


「信頼できると思っていますか」


「信頼している」フィオナが静かに言った。「以前は、信じる理由が増えてきた、という段階だった。今は、信頼している」


「言葉が変わりましたね」


「事実が積み重なったから、言葉が変わった」フィオナが言った。


 夜、全員で夕食を食べた。


 セレーナ、マリオ、ルナ、ゴードン、フィオナ、ベルト、エリナ。


 いつもの顔触れだった。


 でも、エリナは今日、いつもより少し丁寧にテーブルを見た。


 全員が、ここにいる。


 それが、当たり前になっていた。


 当たり前になったことが、続いてきた証拠だった。


 マリオが言った。


「今日、特別なことはあったか」


「特に、ありませんでした」エリナが言った。


「そうか」マリオが言った。「特別なことがない日が続いているな、最近」


「それが、いいことだと思っています」エリナが言った。


「どういう意味だ」


「特別なことがない日が続くことで、大事なことが届く。お母さんが今朝言っていた言葉です」エリナが言った。


「セレーナさんが、そういうことを言うのか」マリオが少し驚いた顔をした。


「言います」


「すごいな」マリオが言った。「そういうことを、さらっと言える人だな」


「そうですね」エリナが笑った。


「どうした、笑った」マリオが言った。


「お母さんのことを、マリオが「すごい」と言うのが、良かったから」


「本当のことだからな」マリオが言った。「セレーナさんは、ずっとすごかった。最初からそうだった」


 食事が終わった後、セレーナが言った。


「一つだけ、言っていいか」


「どうぞ」エリナが言った。


「今日、ルシェムの外を少し歩いた」セレーナが言った。


「どこまで行きましたか」


「丘の手前まで」セレーナが言った。「久しぶりに、外を歩いた。そうしたら、ルシェムが少し違って見えた」


「どう違いましたか」


「大きくなっていた」セレーナが穏やかに言った。「道を歩く人が増えていた。知らない顔もあった。でも、知っている顔も多かった。両方あって、ちょうど良かった」


「変わっているのに、変わっていない部分がある」


「そうよ」セレーナが言った。「長屋はそのままだった。作業場もそのままだった。でも、周りが少し変わっていた。それが、良いことだと思った」


「ここが出発点のままで、周りが広がっていく」エリナが言った。


「そうね」セレーナが笑った。「あなたがここから動かなかったから、広がっていけた」


「私が動かなかったわけではありません。でも、ここが中心にある、ということかもしれません」


 全員が帰った後、エリナは机に向かった。


 今日のことを、少し振り返った。


 特別なことは、何もなかった。


 でも、全部が大事なことだった気がした。


 セレーナが言っていた通りだった。


 特別なことがない日が、大事なことを支えている。


 エリナは短いメモを書いた。


今日は、特別なことがなかった。


でも、全部が大事だった。


マリオが市場で顔を作った。ルナが薬草を管理した。ベルトが型を確認した。ゴードンさんが数字をまとめた。フィオナがダリウスからの連絡を届けてくれた。セレーナがルシェムを歩いた。


全員が、いつも通りのことをした。


いつも通りが続くことが、積み重なることだ、とルナが言っていた。


今日は、そういう日だった。


毎日が、こういう日だったかもしれない。


特別な日の裏側に、こういう日がたくさんあった。


 書いて、引き出しに入れた。


 レインへの手紙を書いた。


『レインへ


今日、特別なことはありませんでした。


でも、全部が大事な日でした。


セレーナが「特別なことがない日が続くことで、大事なことが届く」と言いました。ルナが「いつも通りが続くことが、積み重まることだ」と言いました。


同じことを、違う言葉で言っていました。


今日の数字をゴードンさんが持ってきました。供給している町が、二十五になりました。七年前は五つでした。一つずつ積み上がって、今日の数字になりました。


フィオナが「ダリウスを信頼している」と言いました。以前は、信じる理由が増えてきた、という段階でした。言葉が変わりました。事実が積み重なったから、言葉が変わった、とフィオナが言いました。


全部が、今日の出来事です。特別なことは何もなかったけれど、全部が大事でした。


こういう日が、毎日続いてきたんだと思います。


秋か冬を、楽しみにしています。


エリナ』*


 書いて、封をした。


 「特別なことは何もなかったけれど、全部が大事でした」という一行を、書いてから少しだけ見た。


 これが、続けることの形だった。


 特別な日だけが大事なのではない。


 特別でない日が、続くことで、特別な日が届く。


 その特別でない日の積み重ねが、七年間だった。


 机の引き出しを開けた。


 レインからの手紙が、全部入っていた。


 今日の手紙も、また一通届いていた。


 増え続けていた。


 引き出しを閉めた。


 ランプを吹き消した。


 夏の夜が、窓の外にあった。


 虫の声がにぎやかだった。


 今日は、特別なことがなかった。


 でも、全部が大事だった。


 明日も、きっと同じだ。


 特別なことがなくても、全部が大事な日が来る。


 それが、続けることだった。


 エリナ・アッシュフォード、十六歳。


 今日は、特別なことがなかった。


 でも、それが今夜、一番大事なことだった。


 明日も、窓を開ける。


 それだけで、十分だった。

読んでいただきありがとうございます。

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