100話 百回目の朝
六月になった。
夏が来た。
朝から日差しが強かった。
エリナは台所の窓を開けた。
夏の空気が入ってきた。
熱かった。
でも、悪くなかった。
今日が、何日目かを、ふと思った。
この物語が始まってから、何度朝が来たか。
数えることはしなかった。
でも、毎朝窓を開けてきた。
それが、続いてきたことだった。
朝食を食べながら、セレーナが言った。
「今日は、何か特別なことがある?」
「特に、予定はありません」エリナが言った。
「そうか」セレーナが言った。「特別なことがない日が、一番大事な日かもしれないわね」
「どういう意味ですか」
「特別なことがある日は、その日が記憶に残る」セレーナが穏やかに言った。「でも、特別なことがない日が続くことで、特別な日が届く。特別でない日が、大事なことを支えているんだと思う」
「当たり前の日が、続くことが大事だということですか」
「そうよ」セレーナが言った。「毎朝、窓を開けること。薬草茶を飲むこと。作業場に行くこと。手紙を書くこと。そういう当たり前が続いた先に、大事なことが届く」
「お母さんが、そういうことを言いましたね」エリナが言った。
「私も、長く生きてきたから」セレーナが笑った。
その日の午前中、エリナは作業場に行った。
ルナとベルトが、いつも通り仕事をしていた。
ルナが薬草の棚を整理していた。
ベルトが石鹸の型を確認していた。
二人とも、エリナが来ても、特に何も言わなかった。
いつも通りだった。
エリナもいつも通り、棚の状態を確認した。
何も変わっていなかった。
全部、ある。
「今日の状態はどうですか」エリナがルナに聞いた。
「いつも通りだ」ルナが静かに言った。
「いつも通りが、一番いい」エリナが言った。
「そうだ」ルナが頷いた。「いつも通りが続くことが、積み重なることだ」
「お母さんが、今朝似たことを言っていました」
「セレーナは、正しいことを言う」ルナが平坦な声で言った。
昼前に、マリオが市場から戻ってきた。
「今日は、特に変わったことはなかった」マリオが言った。
「そうですか」
「でも、一つだけ」マリオが少し笑った。
「何ですか」
「マルタさんに会った」マリオが言った。
「それは、毎日会っていますね」
「そうだけど」マリオが言った。「今日、マルタさんが言った。「最近、ルシェムが変わってきた気がする」と」
「どう変わったと言っていましたか」
「人が増えた、と言っていた」マリオが言った。「商会の仕事で来る人間が増えた。農地の人間が来る。地方から来る人間も増えた。それが、ルシェムを変えているって」
「マルタさんは、ちゃんと見ていますね」エリナが言った。
「最初から見ていたから、変化がわかるんだろ」マリオが言った。
午後、ゴードンが今月の数字をまとめて持ってきた。
「六月の中間報告です」ゴードンが言った。
「ありがとうございます」エリナが受け取った。
読んだ。
供給している町の数が、二十三から二十五になっていた。
「二カ所、増えたんですね」
「農地からの供給が安定したことで、新しい町にも届けられるようになりました」ゴードンが言った。
「去年と比べて、どうですか」
「去年の同時期より、供給量が二割増えています」ゴードンが言った。「農地の二年目の効果が、数字に出てきました」
「ベルトさんが、丁寧に管理してくれているから」
「そうですね」ゴードンが静かに言った。「ベルトさんの記録が、来年の計画に活きています」
「人の仕事が、数字になっている」
「そうです」ゴードンが言った。「数字の奥に、ベルトさんの一年間がある」
エリナは数字の報告書を見ながら、少しだけ考えた。
二十五の町。
七年前は、五つだった。
五から二十五になった。
でも、一気に増えたのではなかった。
一つずつ、積み上がっていた。
一年目は、五つだった。
二年目は、倉庫ができて、少し増えた。
三年目は、農地が始まった。
四年目は、学院の衛生教育が始まった。
五年目は、地方学校への展開が始まった。
六年目の今年、二十五になった。
全部が、繋がっていた。
夕方、フィオナが長屋に来た。
「今日、ダリウスから連絡が来た」フィオナが言った。
「どんな内容ですか」
「三つ目の提案の仕組みが、来月から試験的に動き始める」フィオナが言った。「クロヴェル家の地方の商業ネットワークを使って、農地の薬草を地方の学校に届けるルートを作った」
「もう動き始めるんですか」
「ダリウスが動くと決めたら、早い」フィオナが静かに言った。「それが、あの人の良いところだと思っている」
「フィオナが、ダリウスのことをそういう言い方をするようになりましたね」
「変わってきたから、見え方も変わった」フィオナが言った。「以前は、どっちの人間かわからなかった。今は、同じ方向を向いている人間だ、とわかっている」
「信頼できると思っていますか」
「信頼している」フィオナが静かに言った。「以前は、信じる理由が増えてきた、という段階だった。今は、信頼している」
「言葉が変わりましたね」
「事実が積み重なったから、言葉が変わった」フィオナが言った。
夜、全員で夕食を食べた。
セレーナ、マリオ、ルナ、ゴードン、フィオナ、ベルト、エリナ。
いつもの顔触れだった。
でも、エリナは今日、いつもより少し丁寧にテーブルを見た。
全員が、ここにいる。
それが、当たり前になっていた。
当たり前になったことが、続いてきた証拠だった。
マリオが言った。
「今日、特別なことはあったか」
「特に、ありませんでした」エリナが言った。
「そうか」マリオが言った。「特別なことがない日が続いているな、最近」
「それが、いいことだと思っています」エリナが言った。
「どういう意味だ」
「特別なことがない日が続くことで、大事なことが届く。お母さんが今朝言っていた言葉です」エリナが言った。
「セレーナさんが、そういうことを言うのか」マリオが少し驚いた顔をした。
「言います」
「すごいな」マリオが言った。「そういうことを、さらっと言える人だな」
「そうですね」エリナが笑った。
「どうした、笑った」マリオが言った。
「お母さんのことを、マリオが「すごい」と言うのが、良かったから」
「本当のことだからな」マリオが言った。「セレーナさんは、ずっとすごかった。最初からそうだった」
食事が終わった後、セレーナが言った。
「一つだけ、言っていいか」
「どうぞ」エリナが言った。
「今日、ルシェムの外を少し歩いた」セレーナが言った。
「どこまで行きましたか」
「丘の手前まで」セレーナが言った。「久しぶりに、外を歩いた。そうしたら、ルシェムが少し違って見えた」
「どう違いましたか」
「大きくなっていた」セレーナが穏やかに言った。「道を歩く人が増えていた。知らない顔もあった。でも、知っている顔も多かった。両方あって、ちょうど良かった」
「変わっているのに、変わっていない部分がある」
「そうよ」セレーナが言った。「長屋はそのままだった。作業場もそのままだった。でも、周りが少し変わっていた。それが、良いことだと思った」
「ここが出発点のままで、周りが広がっていく」エリナが言った。
「そうね」セレーナが笑った。「あなたがここから動かなかったから、広がっていけた」
「私が動かなかったわけではありません。でも、ここが中心にある、ということかもしれません」
全員が帰った後、エリナは机に向かった。
今日のことを、少し振り返った。
特別なことは、何もなかった。
でも、全部が大事なことだった気がした。
セレーナが言っていた通りだった。
特別なことがない日が、大事なことを支えている。
エリナは短いメモを書いた。
今日は、特別なことがなかった。
でも、全部が大事だった。
マリオが市場で顔を作った。ルナが薬草を管理した。ベルトが型を確認した。ゴードンさんが数字をまとめた。フィオナがダリウスからの連絡を届けてくれた。セレーナがルシェムを歩いた。
全員が、いつも通りのことをした。
いつも通りが続くことが、積み重なることだ、とルナが言っていた。
今日は、そういう日だった。
毎日が、こういう日だったかもしれない。
特別な日の裏側に、こういう日がたくさんあった。
書いて、引き出しに入れた。
レインへの手紙を書いた。
『レインへ
今日、特別なことはありませんでした。
でも、全部が大事な日でした。
セレーナが「特別なことがない日が続くことで、大事なことが届く」と言いました。ルナが「いつも通りが続くことが、積み重まることだ」と言いました。
同じことを、違う言葉で言っていました。
今日の数字をゴードンさんが持ってきました。供給している町が、二十五になりました。七年前は五つでした。一つずつ積み上がって、今日の数字になりました。
フィオナが「ダリウスを信頼している」と言いました。以前は、信じる理由が増えてきた、という段階でした。言葉が変わりました。事実が積み重なったから、言葉が変わった、とフィオナが言いました。
全部が、今日の出来事です。特別なことは何もなかったけれど、全部が大事でした。
こういう日が、毎日続いてきたんだと思います。
秋か冬を、楽しみにしています。
エリナ』*
書いて、封をした。
「特別なことは何もなかったけれど、全部が大事でした」という一行を、書いてから少しだけ見た。
これが、続けることの形だった。
特別な日だけが大事なのではない。
特別でない日が、続くことで、特別な日が届く。
その特別でない日の積み重ねが、七年間だった。
机の引き出しを開けた。
レインからの手紙が、全部入っていた。
今日の手紙も、また一通届いていた。
増え続けていた。
引き出しを閉めた。
ランプを吹き消した。
夏の夜が、窓の外にあった。
虫の声がにぎやかだった。
今日は、特別なことがなかった。
でも、全部が大事だった。
明日も、きっと同じだ。
特別なことがなくても、全部が大事な日が来る。
それが、続けることだった。
エリナ・アッシュフォード、十六歳。
今日は、特別なことがなかった。
でも、それが今夜、一番大事なことだった。
明日も、窓を開ける。
それだけで、十分だった。
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