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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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101/120

101話 夏の盛りと、師匠の手紙

 七月になった。


 夏の盛りだった。


 朝から日差しが強かった。


 市場の人たちが、日陰を選んで歩いていた。


 ルナが、薬草の保管を夏仕様に切り替えてくれていた。


 ベルトが、農地の水やりを朝早くと夕方の二回に増やしていた。


 それぞれが、夏に合わせた動きをしていた。


 変わらない習慣の中に、季節に合わせた変化があった。


 それが、続けることの細かい形だった。


 七月の初めに、師匠から直接手紙が来た。


 師匠から直接手紙が来るのは、珍しいことだった。


 以前、一度だけ来たことがあった。


 レインのことを教えてくれた手紙だった。


 今回は、どんな内容だろう。


 封を開けた。


アッシュフォード商会 エリナ殿へ


ヴォルフ・グラーセンだ。久しぶりに直接書く。


一つ、報告がある。


地方の先生への講習の設計が、先月終わった。来月から、試験的に始める。対象は、フィオナ殿が訪問した三カ所の学校の先生たちだ。


内容は、石鹸の使い方、薬草の基礎知識、傷の手当ての手順。一日の講習で、基礎を押さえられる形にした。


これが、俺の最後の設計仕事になると思っている。


それと、個人的なことを書く。


俺が退いた後、レインがどうするかを、あなたは知っているか。


知っているなら、それでいい。知らないなら、聞いておいた方がいい。


俺から言えることは一つだけだ。レインは、才能がある。でも、才能は場所を選ぶ。どこで使うかで、何が生まれるかが変わる。


あとは、レイン自身が決めることだ。


ヴォルフ・グラーセン


 エリナは手紙を読んで、二度読んだ。


 師匠の最後の設計仕事。


 レインがどうするかを、知っているか。


 才能は場所を選ぶ。


『ヴォルフ・グラーセン先生へ


手紙を受け取りました。地方の先生への講習が来月から始まること、嬉しいです。先生の最後の設計仕事が、こういう形になったことを、受け取りました。


レインのことは、少し知っています。春に来た時に、話してくれました。


「才能は場所を選ぶ」という言葉を、少しだけ考えました。正確な言葉だと思います。


先生が設計した仕組みが、先生が退いた後も続く。それが、本当の意味での続けることだと思っています。


エリナ・アッシュフォード』*


 フィオナに、師匠の手紙を見せた。


「来月から、講習が始まるか」フィオナが読みながら言った。


「そうです。フィオナが訪問した三カ所の先生が、最初の対象になります」


「良かった」フィオナが言った。「あの先生たちは、積極的だった。喜んで参加すると思う」


「フィオナが現場を見てきてくれたから、繋がりましたね」


「私が行ったから、先生たちの顔がわかった」フィオナが言った。「顔がわかっている人間に、次の話が届きやすい。それが、現場に行くことの意味の一つだ」


「師匠の最後の設計仕事が、フィオナが現場で会った先生たちに届く」エリナが言った。


「そうだな」フィオナが静かに言った。「繋がっている」


 マリオに話すと、一言言った。


「師匠、格好いいな」


「どういう意味ですか」


「退く前に、次に続く仕組みを作る」マリオが言った。「それが、一番格好いい退き方だと思う。仕事を終えて退くのではなく、続く仕組みを作って退く」


「マリオは、そういうことを考えますか」エリナが言った。


「たまに」マリオが笑った。「俺も、いつかはそういう退き方をしたいと思う。でも、まだ先の話だ。今は、ここにいる」


「今いることが、大事ですね」


「そうだよ」マリオが言った。「今いることが積み重なって、いつかの退き方になる」


 ルナに話した。


「師匠が、地方の先生への講習を設計しました。来月から始まります」


「そうか」ルナが棚を見ながら言った。


「薬草の基礎知識も、講習の内容に入っています」


「誰が教えるんだ」


「師匠が設計した内容を、学院の人間が教えます」エリナが言った。


「師匠が教えるのではないのか」


「師匠は退きます。でも、設計した内容は残ります」


 ルナが少しだけ考えた。


「設計した人間がいなくなっても、設計したものは残る」ルナが静かに言った。


「そうです」


「植物と同じだ」ルナが言った。


「植物と?」


「植物は、育てた人間がいなくなっても、育ち続ける。根がある限り」ルナが静かに言った。「師匠が設計したものが、根になる。師匠がいなくなっても、根があれば育ち続ける」


 エリナは、ルナの言葉を受け取った。


 根がある限り、育ち続ける。


 師匠が退いても、設計した仕組みが根になる。


 父の改革案も、同じだった。


 父がいなくなっても、改革案という根が残っていた。


 エリナが、その根から育ってきた。


 七月の半ばに、レインから手紙が来た。


エリナへ


師匠から、直接手紙を出したと聞いた。


師匠が書いたことは、師匠が正しいと思ったことだ。俺からは、何も加えない。


一つだけ、自分のことを書く。


学院との話し合いが、具体的になってきた。今年の秋に、正式な結論が出る見込みだ。


秋に行く。その時に、直接話す。


それまで、手紙を書き続ける。


レイン


 エリナはレインの手紙を読んで、「秋に行く」という一行を少しだけ見た。


 秋に来る。


 直接話す。


 それが決まっていた。


『レインへ


師匠から手紙が来たことを、受け取りました。「才能は場所を選ぶ」という言葉が、正確だと思いました。


秋に来てください。直接話してくれることを、待っています。


こちらの夏の報告を一つ。供給している町が、二十五になりました。農地の効果が数字に出てきています。ルナが「設計した人間がいなくなっても、根があれば育ち続ける」と言いました。植物の話でしたが、師匠のことと重なりました。


ルナの言葉は、いつもいろんなところに当てはまります。


エリナ』*


 七月の終わりに、アルバ殿下から手紙が来た。


エリナ殿へ


いくつか、報告がある。


一つ目。父上が、アッシュフォード侯爵の改革案を、宮廷の正式な資料として保存するよう指示を出した。当時の記録と、現在の商会の活動の記録を合わせて、一つの資料として残す、とのことだ。


二つ目。来年度から、衛生教育を王宮内でも取り入れることを、父上が検討している。王宮の従者や使用人への教育だ。


三つ目。ダリウス殿が、宮廷内での評価が変わってきた。以前は、クロヴェル侯爵の息子、という見られ方をしていた。今は、独自の動きをしている人間として見られるようになってきた。


全部が、良い方向だと思っている。


アルバ・ヴァルデリア


 エリナは殿下の手紙を読んで、一つ目の内容を少しだけ見た。


 父の改革案が、宮廷の正式な資料になる。


 現在の商会の活動の記録と合わせて、一つの資料になる。


 父の記録と、エリナの記録が、一つになる。


 セレーナに伝えた。


「お母さん、届きました」


「何が?」


「父の改革案が、宮廷の正式な資料として保存されます。現在の商会の活動の記録と合わせて、一つの資料として」


 セレーナが、少しだけ動かなかった。


「父の記録と、あなたの記録が、一つになるのね」セレーナが静かに言った。


「そうなります」


「それは」セレーナが言った。「あの人が、一番嬉しいことかもしれない」


「どういう意味ですか」


「自分がやろうとしたことを、娘が続けて、それが一つの記録になる」セレーナが穏やかに言った。「親として、それ以上のことはないと思う」


「お父さんが聞いていたら、何と言うと思いますか」


「今回は、遅い、とは言わないと思う」セレーナが少し笑った。「ちゃんと来た、とだけ言う気がする」


 ゴードンに伝えた。


「父の改革案と、商会の活動記録が、宮廷の正式な資料として合わせて保存されます」


 ゴードンが少しだけ、帳簿から目を上げた。


「そうですか」ゴードンが静かに言った。


「ゴードンさんが積み上げてきた記録が、父の改革案と並ぶことになります」


「私が積み上げてきた記録が」ゴードンが繰り返した。


「そうです」


 ゴードンが少しだけ間を置いた。


「最初に、エリナさんに採用してもらった時から、正直に記録しようと決めていました」ゴードンが言った。「数字は、嘘をつかない。だから、嘘のない数字を積み上げる。それだけを、やってきました」


「その数字が、今日の形になりました」


「そうですね」ゴードンが静かに言った。「記録は、消えない。それが、今日証明されました」


 フィオナに伝えた。


「父の改革案と、商会の記録が、一つの宮廷資料になります」


「それは、大きい」フィオナが言った。


「どういう意味ですか」


「宮廷の正式な資料になれば、次の世代が読める」フィオナが言った。「今の人間だけでなく、これから来る人間にも届く。それが、記録が残ることの意味だ」


「次の世代に届く」エリナが繰り返した。


「そうだ」フィオナが言った。「あなたのお父さんが始めたことが、あなたが続けて、次の世代が読む。それが、本当の意味での続けることだと思う」


 その夜、エリナは机に向かった。


 今日のことを、少し振り返った。


 師匠が最後の設計仕事を終えた。


 レインが秋に来ると言った。


 殿下から三つの報告が来た。


 父の記録と自分の記録が、一つになる。


 全部が、今日のことだった。


 エリナは長いメモを書いた。


七月。夏の盛り。


師匠が最後の設計仕事を終えた。地方の先生への講習が来月から始まる。根がある限り、育ち続ける。ルナが言った言葉だ。


父の改革案と、商会の記録が、一つの宮廷資料になる。父の記録と、私の記録が、一つになる。


セレーナが言った。「親として、それ以上のことはない」と。


次の世代が読む。フィオナが言った。それが、本当の意味での続けることだと。


記録は、消えない。ゴードンさんが言った。今日証明された、と。


全部が、今日届いた。


特別な日だった。でも、昨日までの特別でない日が続いたから、今日が届いた。


それが、続けることの形だと思う。


 書いて、引き出しに入れた。


 レインへの手紙も書いた。


『レインへ


今日、殿下から手紙が来ました。父の改革案と、商会の活動記録が、宮廷の正式な資料として合わせて保存されることになりました。


父の記録と、私の記録が、一つになります。


セレーナが「親として、それ以上のことはない」と言いました。フィオナが「次の世代が読む。それが本当の意味での続けること」と言いました。ゴードンさんが「記録は消えない。今日証明された」と言いました。


三人が、三つの言葉で、同じことを言っていました。


今日は、特別な日でした。でも、昨日までの特別でない日が続いたから、今日が来た。


秋を楽しみにしています。


エリナ』*


 書いて、封をした。


 ランプを吹き消した。


 夏の夜が、窓の外にあった。


 虫の声がにぎやかだった。


 今日は、特別な日だった。


 でも、明日はまた、特別でない日が来る。


 その特別でない日が、また積み上がっていく。


 それが、続けることだった。


 エリナ・アッシュフォード、十六歳。


 今日、父の記録と自分の記録が、一つになることが決まった。


 それが今夜、一番大事なことだった。


 明日も、窓を開ける。


 それだけで、十分だった。

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