101話 夏の盛りと、師匠の手紙
七月になった。
夏の盛りだった。
朝から日差しが強かった。
市場の人たちが、日陰を選んで歩いていた。
ルナが、薬草の保管を夏仕様に切り替えてくれていた。
ベルトが、農地の水やりを朝早くと夕方の二回に増やしていた。
それぞれが、夏に合わせた動きをしていた。
変わらない習慣の中に、季節に合わせた変化があった。
それが、続けることの細かい形だった。
七月の初めに、師匠から直接手紙が来た。
師匠から直接手紙が来るのは、珍しいことだった。
以前、一度だけ来たことがあった。
レインのことを教えてくれた手紙だった。
今回は、どんな内容だろう。
封を開けた。
アッシュフォード商会 エリナ殿へ
ヴォルフ・グラーセンだ。久しぶりに直接書く。
一つ、報告がある。
地方の先生への講習の設計が、先月終わった。来月から、試験的に始める。対象は、フィオナ殿が訪問した三カ所の学校の先生たちだ。
内容は、石鹸の使い方、薬草の基礎知識、傷の手当ての手順。一日の講習で、基礎を押さえられる形にした。
これが、俺の最後の設計仕事になると思っている。
それと、個人的なことを書く。
俺が退いた後、レインがどうするかを、あなたは知っているか。
知っているなら、それでいい。知らないなら、聞いておいた方がいい。
俺から言えることは一つだけだ。レインは、才能がある。でも、才能は場所を選ぶ。どこで使うかで、何が生まれるかが変わる。
あとは、レイン自身が決めることだ。
ヴォルフ・グラーセン
エリナは手紙を読んで、二度読んだ。
師匠の最後の設計仕事。
レインがどうするかを、知っているか。
才能は場所を選ぶ。
『ヴォルフ・グラーセン先生へ
手紙を受け取りました。地方の先生への講習が来月から始まること、嬉しいです。先生の最後の設計仕事が、こういう形になったことを、受け取りました。
レインのことは、少し知っています。春に来た時に、話してくれました。
「才能は場所を選ぶ」という言葉を、少しだけ考えました。正確な言葉だと思います。
先生が設計した仕組みが、先生が退いた後も続く。それが、本当の意味での続けることだと思っています。
エリナ・アッシュフォード』*
フィオナに、師匠の手紙を見せた。
「来月から、講習が始まるか」フィオナが読みながら言った。
「そうです。フィオナが訪問した三カ所の先生が、最初の対象になります」
「良かった」フィオナが言った。「あの先生たちは、積極的だった。喜んで参加すると思う」
「フィオナが現場を見てきてくれたから、繋がりましたね」
「私が行ったから、先生たちの顔がわかった」フィオナが言った。「顔がわかっている人間に、次の話が届きやすい。それが、現場に行くことの意味の一つだ」
「師匠の最後の設計仕事が、フィオナが現場で会った先生たちに届く」エリナが言った。
「そうだな」フィオナが静かに言った。「繋がっている」
マリオに話すと、一言言った。
「師匠、格好いいな」
「どういう意味ですか」
「退く前に、次に続く仕組みを作る」マリオが言った。「それが、一番格好いい退き方だと思う。仕事を終えて退くのではなく、続く仕組みを作って退く」
「マリオは、そういうことを考えますか」エリナが言った。
「たまに」マリオが笑った。「俺も、いつかはそういう退き方をしたいと思う。でも、まだ先の話だ。今は、ここにいる」
「今いることが、大事ですね」
「そうだよ」マリオが言った。「今いることが積み重なって、いつかの退き方になる」
ルナに話した。
「師匠が、地方の先生への講習を設計しました。来月から始まります」
「そうか」ルナが棚を見ながら言った。
「薬草の基礎知識も、講習の内容に入っています」
「誰が教えるんだ」
「師匠が設計した内容を、学院の人間が教えます」エリナが言った。
「師匠が教えるのではないのか」
「師匠は退きます。でも、設計した内容は残ります」
ルナが少しだけ考えた。
「設計した人間がいなくなっても、設計したものは残る」ルナが静かに言った。
「そうです」
「植物と同じだ」ルナが言った。
「植物と?」
「植物は、育てた人間がいなくなっても、育ち続ける。根がある限り」ルナが静かに言った。「師匠が設計したものが、根になる。師匠がいなくなっても、根があれば育ち続ける」
エリナは、ルナの言葉を受け取った。
根がある限り、育ち続ける。
師匠が退いても、設計した仕組みが根になる。
父の改革案も、同じだった。
父がいなくなっても、改革案という根が残っていた。
エリナが、その根から育ってきた。
七月の半ばに、レインから手紙が来た。
エリナへ
師匠から、直接手紙を出したと聞いた。
師匠が書いたことは、師匠が正しいと思ったことだ。俺からは、何も加えない。
一つだけ、自分のことを書く。
学院との話し合いが、具体的になってきた。今年の秋に、正式な結論が出る見込みだ。
秋に行く。その時に、直接話す。
それまで、手紙を書き続ける。
レイン
エリナはレインの手紙を読んで、「秋に行く」という一行を少しだけ見た。
秋に来る。
直接話す。
それが決まっていた。
『レインへ
師匠から手紙が来たことを、受け取りました。「才能は場所を選ぶ」という言葉が、正確だと思いました。
秋に来てください。直接話してくれることを、待っています。
こちらの夏の報告を一つ。供給している町が、二十五になりました。農地の効果が数字に出てきています。ルナが「設計した人間がいなくなっても、根があれば育ち続ける」と言いました。植物の話でしたが、師匠のことと重なりました。
ルナの言葉は、いつもいろんなところに当てはまります。
エリナ』*
七月の終わりに、アルバ殿下から手紙が来た。
エリナ殿へ
いくつか、報告がある。
一つ目。父上が、アッシュフォード侯爵の改革案を、宮廷の正式な資料として保存するよう指示を出した。当時の記録と、現在の商会の活動の記録を合わせて、一つの資料として残す、とのことだ。
二つ目。来年度から、衛生教育を王宮内でも取り入れることを、父上が検討している。王宮の従者や使用人への教育だ。
三つ目。ダリウス殿が、宮廷内での評価が変わってきた。以前は、クロヴェル侯爵の息子、という見られ方をしていた。今は、独自の動きをしている人間として見られるようになってきた。
全部が、良い方向だと思っている。
アルバ・ヴァルデリア
エリナは殿下の手紙を読んで、一つ目の内容を少しだけ見た。
父の改革案が、宮廷の正式な資料になる。
現在の商会の活動の記録と合わせて、一つの資料になる。
父の記録と、エリナの記録が、一つになる。
セレーナに伝えた。
「お母さん、届きました」
「何が?」
「父の改革案が、宮廷の正式な資料として保存されます。現在の商会の活動の記録と合わせて、一つの資料として」
セレーナが、少しだけ動かなかった。
「父の記録と、あなたの記録が、一つになるのね」セレーナが静かに言った。
「そうなります」
「それは」セレーナが言った。「あの人が、一番嬉しいことかもしれない」
「どういう意味ですか」
「自分がやろうとしたことを、娘が続けて、それが一つの記録になる」セレーナが穏やかに言った。「親として、それ以上のことはないと思う」
「お父さんが聞いていたら、何と言うと思いますか」
「今回は、遅い、とは言わないと思う」セレーナが少し笑った。「ちゃんと来た、とだけ言う気がする」
ゴードンに伝えた。
「父の改革案と、商会の活動記録が、宮廷の正式な資料として合わせて保存されます」
ゴードンが少しだけ、帳簿から目を上げた。
「そうですか」ゴードンが静かに言った。
「ゴードンさんが積み上げてきた記録が、父の改革案と並ぶことになります」
「私が積み上げてきた記録が」ゴードンが繰り返した。
「そうです」
ゴードンが少しだけ間を置いた。
「最初に、エリナさんに採用してもらった時から、正直に記録しようと決めていました」ゴードンが言った。「数字は、嘘をつかない。だから、嘘のない数字を積み上げる。それだけを、やってきました」
「その数字が、今日の形になりました」
「そうですね」ゴードンが静かに言った。「記録は、消えない。それが、今日証明されました」
フィオナに伝えた。
「父の改革案と、商会の記録が、一つの宮廷資料になります」
「それは、大きい」フィオナが言った。
「どういう意味ですか」
「宮廷の正式な資料になれば、次の世代が読める」フィオナが言った。「今の人間だけでなく、これから来る人間にも届く。それが、記録が残ることの意味だ」
「次の世代に届く」エリナが繰り返した。
「そうだ」フィオナが言った。「あなたのお父さんが始めたことが、あなたが続けて、次の世代が読む。それが、本当の意味での続けることだと思う」
その夜、エリナは机に向かった。
今日のことを、少し振り返った。
師匠が最後の設計仕事を終えた。
レインが秋に来ると言った。
殿下から三つの報告が来た。
父の記録と自分の記録が、一つになる。
全部が、今日のことだった。
エリナは長いメモを書いた。
七月。夏の盛り。
師匠が最後の設計仕事を終えた。地方の先生への講習が来月から始まる。根がある限り、育ち続ける。ルナが言った言葉だ。
父の改革案と、商会の記録が、一つの宮廷資料になる。父の記録と、私の記録が、一つになる。
セレーナが言った。「親として、それ以上のことはない」と。
次の世代が読む。フィオナが言った。それが、本当の意味での続けることだと。
記録は、消えない。ゴードンさんが言った。今日証明された、と。
全部が、今日届いた。
特別な日だった。でも、昨日までの特別でない日が続いたから、今日が届いた。
それが、続けることの形だと思う。
書いて、引き出しに入れた。
レインへの手紙も書いた。
『レインへ
今日、殿下から手紙が来ました。父の改革案と、商会の活動記録が、宮廷の正式な資料として合わせて保存されることになりました。
父の記録と、私の記録が、一つになります。
セレーナが「親として、それ以上のことはない」と言いました。フィオナが「次の世代が読む。それが本当の意味での続けること」と言いました。ゴードンさんが「記録は消えない。今日証明された」と言いました。
三人が、三つの言葉で、同じことを言っていました。
今日は、特別な日でした。でも、昨日までの特別でない日が続いたから、今日が来た。
秋を楽しみにしています。
エリナ』*
書いて、封をした。
ランプを吹き消した。
夏の夜が、窓の外にあった。
虫の声がにぎやかだった。
今日は、特別な日だった。
でも、明日はまた、特別でない日が来る。
その特別でない日が、また積み上がっていく。
それが、続けることだった。
エリナ・アッシュフォード、十六歳。
今日、父の記録と自分の記録が、一つになることが決まった。
それが今夜、一番大事なことだった。
明日も、窓を開ける。
それだけで、十分だった。
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