92話 夏、レインが来た
六月になった。
夏が来た。
去年の夏と同じように、朝から日差しが強かった。
でも、去年と今年では、少し違った。
去年の夏には、父の名誉回復の審議が始まっていなかった。
今年は、始まっている。
農地の薬草栽培も、去年は始まっていなかった。
今年は、ベルトが一カ月かけて土の準備を進めていた。
同じ夏が来るたびに、ルシェムは少しずつ違う場所になっていた。
六月の第二週に、レインが来た。
今回も、馬で来た。
昼前に着いた。
エリナが長屋の前で待っていた。
レインが馬から降りた。
「来た」
「来てくれた」
いつもと同じやり取りだった。
でも、今回は少し違った。
レインが、エリナを見たままで、少しだけ間を置いた。
「夏のルシェムだ」
「去年の夏とは、少し違います」
「どう違う?」
「来年の夏は、また違う気がします」
「毎年、そうだな。来るたびに、前と違う」
「でも、変わらないものもあります」
「何が変わらない?」
「待っている、という気持ちが変わらない」
レインが少しだけ、口の端を動かした。
今回、師匠は来なかった。
レイン一人だった。
「師匠は?」
「夏の間は、学院での研究に集中している。農地の薬草の件で、学院側で並行して確認したいことがあるらしい」
「師匠も、農地の件に関わってくださっているんですね」
「そうだ。ベルトさんが試している環境データを、学院の知識と照らし合わせたいと言っていた」
「ベルトに伝えます。師匠にデータを送れるように、記録の形を整えておいてもらいます」
「助かる」
ゴードンが今日の書類を一枚持ってきた。
「農地の一カ月目の記録です。ベルトさんがまとめてくれました」
「見せてください」
エリナが受け取った。
レインも横から覗いた。
一カ月で、ベルトが記録した土の状態、水分量、日当たりの変化が、丁寧に書かれていた。
「ベルトさんが書いたんですか?」
エリナが少し驚いた。
「そうです。言葉は少ないですが、記録は丁寧でした」
「山の人間は、記録をする習慣があるのかもしれません」
「どういう意味ですか?」
「山は、変化を見続けないと危ない。だから、変化を記録することが、自然な習慣になっているのかもしれません」
「ベルトさんに聞いてみます」
午後、エリナとレインで農地のデータを確認した。
事務室で、向かい合って座った。
「ベルトさんの記録が、丁寧だ」
「そうですね」
「師匠に送れる形になっている」
「ゴードンさんが形を整えてくれれば、送れます」
「学院のデータと照らし合わせれば、来年の栽培計画が立てやすくなる」
「一年かけて試す、と言っていましたね、ベルトさんが」
「急がないことが大事だ」
「ルナが言っていた言葉ですね」
「ルナの言葉は、いろんな場面で当てはまる」
「そうですね。ルナは、短い言葉で、大事なことを言う。あなたも、そうです」
「俺が?」
「レインの言葉も、短いけど、嘘がない。それが、重くなる理由だと思います」
レインが少しだけ、エリナを見た。
「前に、師匠がそういうことを言っていた気がする」
「言っていましたね。言葉が少ないのは、嘘をつきたくないからだ、と」
「師匠は、よく見ている」
「師匠も、ルナも、見ている人たちですね。見ていると、大事なことがわかる」
夕方、フィオナが来た。
「レイン、来たんだね」
「来た」
「名誉回復の審議の件、フィオナから連絡来た?」
エリナがレインに聞いた。
「来た。審議が始まったと」
「ダリウスが動いてくれたから、始まりました」
「ダリウスのことは、最初、どういう人間か判断しにくかった。でも、今は、わかる」
「どういう人間だと思いますか?」
「難しい場所で、正直に動こうとしている人間だ」
「正確だと思います。複雑なまま、動き続けている」
「それが、一番難しいことかもしれない。複雑さを解決してから動くのではなく、複雑なまま動く」
「あなたも、そういう時がありましたか」
エリナが聞いた。
「ある。孤児院を出て、学院に来た時。自分の場所がどこにあるかわからないまま、動き続けていた」
「それが、複雑なまま動く、ということですか?」
「そうだと思う」
その夜、全員で夕食を食べた。
セレーナ、マリオ、ルナ、ゴードン、フィオナ、レイン、ベルト、エリナ。
いつもの顔触れだった。
マリオがベルトに聞いた。
「農地の記録、丁寧に書いていたな。ゴードンさんが驚いていた」
「記録しないと、忘れる」
「山でも、記録するのか?」
「しない。山は、体で覚える」
「じゃあ、なぜ農地では記録するんだ?」
「山は変わらない。でも、農地は人が変える場所だ。変えたことを覚えておかないと、次に活かせない」
「なるほど。山は体で覚えて、農地は紙で覚える。違うものには、違う方法があるんだな」
「そうだ」
ルナが静かに言った。
「植物は、どちらも覚えている」
「植物が覚えている?」
マリオが言った。
「土に、記録が残る。何が育ったか、何が枯れたか。土が知っている」
「土が知っている、か。なんか、詩みたいだな」
「事実」
食事が終わった後、フィオナが自分の家に帰った。
ゴードンは宿に帰った。
マリオも帰った。
ベルトも帰った。
セレーナが片付けをして、寝室に入った。
長屋に、エリナとレインとルナが残った。
ルナが猫と一緒に自分の部屋に向かった。
「おやすみ」ルナが言った。
「おやすみなさい」エリナが言った。
「おやすみ」レインが言った。
ルナが部屋に入った。
台所に、エリナとレインが残った。
薬草茶を飲んだ。
しばらく、黙っていた。
不快ではなかった。
「一つ、話していいか?」
「どうぞ」
「先月の手紙に、『待っています』と書いてくれていた」
「毎回、書いています」
「毎回、本当のことだと思って読んでいる」
「毎回、本当のことです」
「それが、来るたびに確かめられる。手紙に書いてあったことが、来てみると、本当だとわかる。それが、来たいと思う理由の一つだ」
「来るたびに、確かめる」
「そうだ。手紙で知っていることが、来てみると、また違う形でわかる。それが、繰り返される」
「その繰り返しが、続けることですね」
「そうだと思う」
少し間があった。
「一つだけ、届けたいことがある」
「何ですか?」
「先月の手紙に、『だから、好きだ』と書こうとした。でも、直接言いたかったから、書かなかった」
「今、言いますか?」
「そうだ。だから、好きだ」
エリナは少しだけ止まった。
五月の誕生日の夜に言えた言葉だった。
今日、また言ってくれた。
「私も……だから、好きです」
「今日も、言えたな」
「今日も、言えました。これからも、言えると思います」
「そうだな、続けることだから」
「続けることですね」
翌朝、ルナが台所に来た。
エリナとレインが、朝の薬草茶を飲んでいた。
ルナが二人を見て、何も言わなかった。
でも、少しだけ目が動いた。
それから、薬草茶を自分で作り始めた。
「ルナ」
「何?」
「今日の薬草の調子はどうですか?」
「いい。昨日より、少し成長している」
「どこで確認しましたか?」
「今朝、早く見てきた。毎朝、見ている」
「毎朝、変化を確認しているんですね」
「そう。昨日と同じに見えても、少しずつ違う。それが積み重なると、大きく変わる」
レインが静かに言った。
「それは、手紙と同じかもしれない」
「手紙と?」
ルナが少し首を傾げた。
「毎日、少しずつ変化が積み重なる。一通一通は、小さい変化だ。でも、積み重なると、大きく変わる」
「そうかもしれない。植物は、正直だから。その日の状態を、そのまま見せる。手紙も、そうか」
「そうだと思う」
朝食の後、レインが帰る準備をした。
今日は一泊だった。
「また来ます」
「待っています」
「その言葉が、変わらない」
「変わりません」
「変わらないことが、来るたびに確かめられる」
「確かめに来てください。毎回、同じ答えがあります」
「わかった」
見送りに、マリオとルナが来た。
マリオが言った。
「また来てくれるんだろ?」
「来る」
「マルタさんとの約束も、まだ生きているからな」
「生きている」
「じゃあ、秋か冬か、また来てくれ」
「来る」
ルナが静かに言った。
「農地の記録、来月また送る」
「待っている」
「植物は、少しずつ変わっている。記録が積み上がれば、来年の計画が立てやすくなる」
「その記録を、師匠が待っている」
「わかった」
馬が動き出した。
レインが少しだけ振り返った。
手を上げた。
エリナが手を振った。
マリオが大きく手を振った。
ルナが小さく手を上げた。
見えなくなった。
マリオが言った。
「また来てくれるな」
「来ます」
「確かめに来る、と言っていたな」
「そうです」
「何を確かめに来るんだ」
「待っています、という言葉が本当かどうかを」
「毎回、本当なんだろ」
「毎回、本当です」
「じゃあ、毎回来てもらえばいい。来るたびに、本当だとわかる。それが、続けることだな」
「そうです。マリオが、また大事なことを言いましたね」
「たまに言う」
その夜、エリナは机に向かった。
レインへの手紙を書いた。
レインへ
今日、帰りましたね。見送りました。
「だから、好きだ」と言ってくれた。今日も言えてよかった。これからも言えると思っています。続けることだから。
マリオが言いました。来るたびに、本当だとわかる。それが続けることだ、と。正確だと思いました。
農地の記録、来月ルナから送ります。師匠に届けてください。
秋か冬に来てください。待っています。毎回、本当のことです。
――エリナ――
書いて、封をした。
「毎回、本当のことです」という一行を、書いてから少しだけ見た。
七年間、変わらなかったことだった。
これからも、変わらないと思った。
ランプを吹き消した。
夏の夜が、窓の外にあった。
今日、「だから、好きだ」と言ってくれた。
今日も、「私も、だから、好きです」と言えた。
待っています、という言葉が、今夜も本当のことだった。
エリナ・アッシュフォード、十六歳。
今日、続けることを、また確かめた。
それが今夜、一番大事なことだった。
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