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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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91/120

91話 春から夏へ、動くもの

 四月が終わり、五月になった。

 ルシェムに、初夏の気配が来た。

 朝の空気が、春より少し濃くなった。

 エリナは毎朝、台所の窓を開けた。

 今日の空気を確認した。

 今日は、昨日より少し暑い。

 でも、悪くない暑さだった。

 五月になってから、動きが重なった。

 まず、ダリウスが提案した農地の件が、具体的に進み始めた。

 シェナが、ダリウスの農地の一カ所を実際に見に行ってくれた。

 報告が届いた。


 エリナ殿へ


 ダリウス様の農地を見てきました。

 ルシェムから馬車で二時間ほどの場所にある農地は、南向きの緩やかな斜面で、水はけが良かった。薬草の栽培に向いている条件が揃っていました。

 特に、今まで野山でしか採れなかった種類のいくつかが、栽培できる可能性があります。ルナさんに確認してもらいたい種類を、別紙に書きました。

 それと、農地の管理をする人間が必要になります。誰が担当するか、考えておいてほしいです。


                                  ――シェナ――


 ルナに、シェナの報告書を見せた。


「ここに書いてある種類を見てほしい」


 ルナが別紙を読んだ。

 一つ一つ、じっくりと見た。


「三種類、栽培できる可能性がある」

「三種類、ですか」

「うん。今まで、野山でしか採れなかったやつだ。栽培できれば、供給が安定する」

「それは、大きいですね」

「大きい。でも、栽培は難しい。野山と同じ条件を作らないといけない。土の種類、水の量、日当たり。全部、合わせないと育たない」

「管理が必要ですね」

「そう。誰が管理するかが、一番大事」

「ベルトさんは、どうでしょう? 山を知っているから、野山の薬草の育ちやすい環境がわかるかもしれない」


 ルナが少しだけ考えた。


「いいかもしれない。でも、ベルトに聞かないとわからない」

「聞いてみます」


 ベルトに話した。


「農地の薬草栽培の管理を、考えています。興味がありますか?」

「農地で薬草を育てる、ということか」

「そうです。ルシェムから馬車で二時間ほどの場所です」

「山の薬草と、農地の薬草は違う」

「そうですね」

「でも。何が違うかを知っていれば、農地でも育てられる可能性がある」

「ベルトさんは、何が違うかを知っていますか」

「知っている。山では、植物が自分で最適な場所を見つける。農地では、人間が最適な場所を作らないといけない。その違いだ」

「それを、できますか?」

「試してみないとわからない。でも、やってみたい」

「やってみたい、という気持ちが大事です」

「急がないで、一年かけて試す。一年で結果が出なくても、続ける」

「それで十分です」


 フィオナに、農地の件を報告した。


「ダリウスの提案が、具体的に動いてきたわね」

「そうです。一つ目が、動き始めました」

「ダリウスは、知っているの?」

「今日、手紙を出します」

「私からも、連絡しておく。ダリウスは、自分が提案したことが動き始めたことを、知りたがるだろうから」

「フィオナが間を取ってくれているから、スムーズです」

「そのくらいのことは、できる。それが、私の役割の一つだから」


 ダリウスへの手紙を書いた。


 ダリウス様へ


 農地の件、報告します。

 シェナが現地を確認しました。薬草栽培に向いている場所でした。三種類の薬草が栽培できる可能性があるとのことです。

 管理については、ベルトという人間が担当することになりそうです。山の薬草を長年知っている猟師です。一年かけて試してみる予定です。

 一つ目の提案が、動き始めました。ありがとうございます。


                         ――エリナ・アッシュフォード――


 五月の半ば、レインから手紙が来た。


 エリナへ


「昨夜の言葉が、今日も背景にある」という手紙を読んだ。

 俺も、同じだ。

 ルシェムから帰ってきてから、図書室に座っていると、時々、帰り道の景色を思い出す。馬で街道を走りながら、ルシェムが遠くなっていくのを、いつも少し名残惜しいと思う。

 それが、今まで以上に、そうなっている。

 うまく言葉にできないが、あることは確かだ。

 学院の前期が、来月終わる。夏の間に、またルシェムに行こうと思っている。

 農地の件、フィオナから聞いた。動いているんだな。


                                   ――レイン――


 エリナはレインの手紙を読んで、「名残惜しい」という言葉を少しだけ見た。

 以前は、「また来る」だった。

 今日は、「名残惜しい」が加わっていた。

 言葉が、少しずつ変わっていた。


 レインへ


「名残惜しい」という言葉を受け取りました。

 私も、見送る時に、同じようなことを感じています。でも、また来る、という言葉があるから、見えなくなっても大丈夫です。

 夏に来てください。農地の件が動き始めたので、報告できることがあると思います。それとは別に、夏のルシェムを見てほしいと思っています。

 待っています。


                                 ――エリナ――


 五月の終わり、アルバ殿下から手紙が来た。


 エリナ殿へ


 父上から、ダリウス・クロヴェル殿が申請していたアッシュフォード侯爵の名誉回復について、審議を開始するという決定が出た。

 時間はかかる。でも、動き始めた。

 これを伝えたくて、今日手紙を書いた。


                           ――アルバ・ヴァルデリア――


 エリナは殿下の手紙を読んで、しばらく動かなかった。

 名誉回復の審議が、開始された。

 ダリウスが申請してくれて、殿下が後押しして、陛下が決定した。

 父の名前が、正式な場で扱われるようになった。

 エリナは少しだけ、目を閉じた。

 父が一歳の自分を抱いて言った言葉を、思い出した。


 『この子は、私よりうまくやる』


 うまくやれているかどうか、まだわからない。

 でも、少しずつ、動いている。

 目を開けた。

 セレーナに伝えた。


「お母さん、一つ聞いてほしいことがあります」

「何?」

「父の名誉回復の審議が、始まりました」


 セレーナが手を止めた。

 少しだけ黙った。


「そう」

「ダリウスが申請してくれて、アルバ殿下が動いてくれて」

「長い時間がかかったわね」

「そうですね」

「でも、動き始めた」

「はい」


 セレーナが少しだけ目を細めた。


「お父さんが聞いたら、何と言うかしら」

「さあ? でも、きっと、一言だけ言う気がします」

「どんな一言?」

「遅い、と」


 セレーナが少しだけ笑った。


「そうかもしれない。あの人は、そういうことを言う人だったから」

「でも、言った後で、もう一言言う気がします」

「何を?」

「でも、ちゃんと来た、と」


 セレーナが、少しだけ目を潤ませた。


「そうね。ちゃんと来た、と言うと思う」


 その日の夜、フィオナが長屋に来た。


「殿下から聞いたか?」

「手紙が来ました」

「名誉回復の審議が始まった」

「そうですね」

「ダリウスが動いてくれた。あの人が申請してくれなければ、始まらなかった」

「そうですね」

「一票を入れてくれた時から、ここまで来た。長かったわね」

「長かったです。でも、一気にではなかった。一つずつでした」

「一つずつが、積み上がった」

「そうです」


 フィオナが少しだけ、エリナを見た。


「お父様に、届くといいわね」

「届くと思っています。記録は、消えない。だから、どこかに残る。それが、届くことだと思っています」

「正確な言い方ね」

「本当のことだから」


 ゴードンに伝えた。


「名誉回復の審議が始まりました。記録として残しておいてください」

「もちろんです。何がいつ起きたかを、正確に記録します」

「ゴードンさんが記録してくれることが、一番大事なことの一つです」

「記録は、消えない。それが、私の仕事の意味だと思っています」

「最初からずっと、記録してくれていましたね」

「エリナさんが動いたことを、全部記録してきました。それが、今日に繋がっています」


 マリオに伝えた。


「父の名誉回復の審議が、始まりました」

「そうか」


 マリオが少しだけ真剣な顔になった。


「ダリウスが申請してくれた」

「ダリウスが……。あの人、本当に変わったな」

「変わりましたね」

「最初に会った時は、どっちの人間かわからなかった。でも、今は、一緒に動いている人間だ」

「そうですね」

「エリナが変えたんじゃないか?」

「ダリウスが自分で変わったんです」

「でも、変わるきっかけを作ったのは、お前だろ」

「きっかけと、変わることは、別のことです。ダリウスが、自分で動いたから、変わった」

「お前は、そういうことを言うな。人の功績を、人に返す」

「本当のことだから」


 その夜、エリナは机に向かった。

 レインへの手紙を書いた。


 レインへ


 今日、大事なことが二つありました。

 一つ目。農地の件が動き始めた。ベルトが管理を担当することになりました。

 二つ目。父の名誉回復の審議が、正式に始まりました。アルバ殿下から手紙が来ました。

 お母さんに伝えた時、「お父さんが聞いたら、遅い、と言うかもしれないけど、でも、ちゃんと来た、とも言うと思う」と話しました。お母さんが、そうね、と言ってくれました。

 ちゃんと来た。

 続けてきたことが、そういう形で届いてきている気がします。

 夏に来てください。そのころには、また何か変わっているかもしれません。

 待っています。


                                ――エリナ――


 書いて、封をした。

 「ちゃんと来た」という言葉を、書いてから少しだけ見た。

 遅かったかもしれない。

 でも、ちゃんと来た。

 それが、続けることの形だった。


 ランプを吹き消した。

 五月の夜が、窓の外にあった。

 初夏の夜だった。

 今日、二つの大事なことが動いた。

 農地の薬草栽培が始まる。

 父の名誉回復の審議が始まった。

 どちらも、一気に来たのではなかった。

 一つずつ、積み上がってきたものが、今日の形になった。


 エリナ・アッシュフォード、十六歳。


 今日、ちゃんと来た、という言葉を思った。

 それが今夜、一番大事なことだった。

読んでいただきありがとうございます。

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