91話 春から夏へ、動くもの
四月が終わり、五月になった。
ルシェムに、初夏の気配が来た。
朝の空気が、春より少し濃くなった。
エリナは毎朝、台所の窓を開けた。
今日の空気を確認した。
今日は、昨日より少し暑い。
でも、悪くない暑さだった。
五月になってから、動きが重なった。
まず、ダリウスが提案した農地の件が、具体的に進み始めた。
シェナが、ダリウスの農地の一カ所を実際に見に行ってくれた。
報告が届いた。
エリナ殿へ
ダリウス様の農地を見てきました。
ルシェムから馬車で二時間ほどの場所にある農地は、南向きの緩やかな斜面で、水はけが良かった。薬草の栽培に向いている条件が揃っていました。
特に、今まで野山でしか採れなかった種類のいくつかが、栽培できる可能性があります。ルナさんに確認してもらいたい種類を、別紙に書きました。
それと、農地の管理をする人間が必要になります。誰が担当するか、考えておいてほしいです。
――シェナ――
ルナに、シェナの報告書を見せた。
「ここに書いてある種類を見てほしい」
ルナが別紙を読んだ。
一つ一つ、じっくりと見た。
「三種類、栽培できる可能性がある」
「三種類、ですか」
「うん。今まで、野山でしか採れなかったやつだ。栽培できれば、供給が安定する」
「それは、大きいですね」
「大きい。でも、栽培は難しい。野山と同じ条件を作らないといけない。土の種類、水の量、日当たり。全部、合わせないと育たない」
「管理が必要ですね」
「そう。誰が管理するかが、一番大事」
「ベルトさんは、どうでしょう? 山を知っているから、野山の薬草の育ちやすい環境がわかるかもしれない」
ルナが少しだけ考えた。
「いいかもしれない。でも、ベルトに聞かないとわからない」
「聞いてみます」
ベルトに話した。
「農地の薬草栽培の管理を、考えています。興味がありますか?」
「農地で薬草を育てる、ということか」
「そうです。ルシェムから馬車で二時間ほどの場所です」
「山の薬草と、農地の薬草は違う」
「そうですね」
「でも。何が違うかを知っていれば、農地でも育てられる可能性がある」
「ベルトさんは、何が違うかを知っていますか」
「知っている。山では、植物が自分で最適な場所を見つける。農地では、人間が最適な場所を作らないといけない。その違いだ」
「それを、できますか?」
「試してみないとわからない。でも、やってみたい」
「やってみたい、という気持ちが大事です」
「急がないで、一年かけて試す。一年で結果が出なくても、続ける」
「それで十分です」
フィオナに、農地の件を報告した。
「ダリウスの提案が、具体的に動いてきたわね」
「そうです。一つ目が、動き始めました」
「ダリウスは、知っているの?」
「今日、手紙を出します」
「私からも、連絡しておく。ダリウスは、自分が提案したことが動き始めたことを、知りたがるだろうから」
「フィオナが間を取ってくれているから、スムーズです」
「そのくらいのことは、できる。それが、私の役割の一つだから」
ダリウスへの手紙を書いた。
ダリウス様へ
農地の件、報告します。
シェナが現地を確認しました。薬草栽培に向いている場所でした。三種類の薬草が栽培できる可能性があるとのことです。
管理については、ベルトという人間が担当することになりそうです。山の薬草を長年知っている猟師です。一年かけて試してみる予定です。
一つ目の提案が、動き始めました。ありがとうございます。
――エリナ・アッシュフォード――
五月の半ば、レインから手紙が来た。
エリナへ
「昨夜の言葉が、今日も背景にある」という手紙を読んだ。
俺も、同じだ。
ルシェムから帰ってきてから、図書室に座っていると、時々、帰り道の景色を思い出す。馬で街道を走りながら、ルシェムが遠くなっていくのを、いつも少し名残惜しいと思う。
それが、今まで以上に、そうなっている。
うまく言葉にできないが、あることは確かだ。
学院の前期が、来月終わる。夏の間に、またルシェムに行こうと思っている。
農地の件、フィオナから聞いた。動いているんだな。
――レイン――
エリナはレインの手紙を読んで、「名残惜しい」という言葉を少しだけ見た。
以前は、「また来る」だった。
今日は、「名残惜しい」が加わっていた。
言葉が、少しずつ変わっていた。
レインへ
「名残惜しい」という言葉を受け取りました。
私も、見送る時に、同じようなことを感じています。でも、また来る、という言葉があるから、見えなくなっても大丈夫です。
夏に来てください。農地の件が動き始めたので、報告できることがあると思います。それとは別に、夏のルシェムを見てほしいと思っています。
待っています。
――エリナ――
五月の終わり、アルバ殿下から手紙が来た。
エリナ殿へ
父上から、ダリウス・クロヴェル殿が申請していたアッシュフォード侯爵の名誉回復について、審議を開始するという決定が出た。
時間はかかる。でも、動き始めた。
これを伝えたくて、今日手紙を書いた。
――アルバ・ヴァルデリア――
エリナは殿下の手紙を読んで、しばらく動かなかった。
名誉回復の審議が、開始された。
ダリウスが申請してくれて、殿下が後押しして、陛下が決定した。
父の名前が、正式な場で扱われるようになった。
エリナは少しだけ、目を閉じた。
父が一歳の自分を抱いて言った言葉を、思い出した。
『この子は、私よりうまくやる』
うまくやれているかどうか、まだわからない。
でも、少しずつ、動いている。
目を開けた。
セレーナに伝えた。
「お母さん、一つ聞いてほしいことがあります」
「何?」
「父の名誉回復の審議が、始まりました」
セレーナが手を止めた。
少しだけ黙った。
「そう」
「ダリウスが申請してくれて、アルバ殿下が動いてくれて」
「長い時間がかかったわね」
「そうですね」
「でも、動き始めた」
「はい」
セレーナが少しだけ目を細めた。
「お父さんが聞いたら、何と言うかしら」
「さあ? でも、きっと、一言だけ言う気がします」
「どんな一言?」
「遅い、と」
セレーナが少しだけ笑った。
「そうかもしれない。あの人は、そういうことを言う人だったから」
「でも、言った後で、もう一言言う気がします」
「何を?」
「でも、ちゃんと来た、と」
セレーナが、少しだけ目を潤ませた。
「そうね。ちゃんと来た、と言うと思う」
その日の夜、フィオナが長屋に来た。
「殿下から聞いたか?」
「手紙が来ました」
「名誉回復の審議が始まった」
「そうですね」
「ダリウスが動いてくれた。あの人が申請してくれなければ、始まらなかった」
「そうですね」
「一票を入れてくれた時から、ここまで来た。長かったわね」
「長かったです。でも、一気にではなかった。一つずつでした」
「一つずつが、積み上がった」
「そうです」
フィオナが少しだけ、エリナを見た。
「お父様に、届くといいわね」
「届くと思っています。記録は、消えない。だから、どこかに残る。それが、届くことだと思っています」
「正確な言い方ね」
「本当のことだから」
ゴードンに伝えた。
「名誉回復の審議が始まりました。記録として残しておいてください」
「もちろんです。何がいつ起きたかを、正確に記録します」
「ゴードンさんが記録してくれることが、一番大事なことの一つです」
「記録は、消えない。それが、私の仕事の意味だと思っています」
「最初からずっと、記録してくれていましたね」
「エリナさんが動いたことを、全部記録してきました。それが、今日に繋がっています」
マリオに伝えた。
「父の名誉回復の審議が、始まりました」
「そうか」
マリオが少しだけ真剣な顔になった。
「ダリウスが申請してくれた」
「ダリウスが……。あの人、本当に変わったな」
「変わりましたね」
「最初に会った時は、どっちの人間かわからなかった。でも、今は、一緒に動いている人間だ」
「そうですね」
「エリナが変えたんじゃないか?」
「ダリウスが自分で変わったんです」
「でも、変わるきっかけを作ったのは、お前だろ」
「きっかけと、変わることは、別のことです。ダリウスが、自分で動いたから、変わった」
「お前は、そういうことを言うな。人の功績を、人に返す」
「本当のことだから」
その夜、エリナは机に向かった。
レインへの手紙を書いた。
レインへ
今日、大事なことが二つありました。
一つ目。農地の件が動き始めた。ベルトが管理を担当することになりました。
二つ目。父の名誉回復の審議が、正式に始まりました。アルバ殿下から手紙が来ました。
お母さんに伝えた時、「お父さんが聞いたら、遅い、と言うかもしれないけど、でも、ちゃんと来た、とも言うと思う」と話しました。お母さんが、そうね、と言ってくれました。
ちゃんと来た。
続けてきたことが、そういう形で届いてきている気がします。
夏に来てください。そのころには、また何か変わっているかもしれません。
待っています。
――エリナ――
書いて、封をした。
「ちゃんと来た」という言葉を、書いてから少しだけ見た。
遅かったかもしれない。
でも、ちゃんと来た。
それが、続けることの形だった。
ランプを吹き消した。
五月の夜が、窓の外にあった。
初夏の夜だった。
今日、二つの大事なことが動いた。
農地の薬草栽培が始まる。
父の名誉回復の審議が始まった。
どちらも、一気に来たのではなかった。
一つずつ、積み上がってきたものが、今日の形になった。
エリナ・アッシュフォード、十六歳。
今日、ちゃんと来た、という言葉を思った。
それが今夜、一番大事なことだった。
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