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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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90/120

90話 翌朝と、これからのこと

 十六歳の最初の朝が来た。

 エリナは、いつもより少し早く目が覚めた。

 窓の外が、まだ薄暗かった。

 でも、東の空が少しずつ白くなっていた。

 春の夜明けだった。

 台所に行って、湯を沸かした。

 薬草茶を作りながら、窓の外を見た。

 ルシェムの朝が、始まっていた。

 昨夜のことを、少しだけ考えた。

 整理しようとして、やめた。

 整理しなくていいと、七年前に気づいた。

 

 でも、一つだけ確かめたかった。


 昨夜、言えた言葉が、今朝も本当のことかどうか。

 考えて、そうだと思った。

 昨夜だけの言葉ではなかった。

 七年間、ずっと本当のことだった。

 言葉になったのが、昨夜だっただけだ。

 レインが、朝食の前に長屋に来た。

 今日、学院に帰るためだった。


「今日、帰りますか?」

「そうだ。後期の授業が来週から始まる」

「そうですね」

「一つだけ、言っていいか?」

「どうぞ」

「昨夜言ったことは、今朝も変わっていない」

「私もです」

「そうか」

「変わらないことが、本物の証拠です」

「お前らしい言い方だ」

「本当のことだから」


 朝食を、全員で食べた。

 昨夜と同じ顔触れだった。

 でも、朝の空気は夜と違った。

 穏やかだった。

 マリオが言った。


「レイン、今日帰るのか?」

「そうだ」

「また来るんだろ?」

「来る」

「それでいい。来るたびに、待っているから」

「マリオさんが待っていると、マルタさんとの約束があるから、来ないわけにいかない」

「マルタさんとの約束、まだ生きているのか」

「マルタさんが覚えているから、生きている」

「そうだな。マルタさんは、全部覚えている人だから」


 食事が終わって、レインが帰る準備をした。

 フィオナが先に帰っていた。自分の家に戻ると言っていた。

 ゴードンは事務室で仕事を始めていた。

 ルナはベルトと一緒に、作業場に入っていた。

 エリナが見送りに出た。

 長屋の前で、レインが馬に乗った。


「また来ます」

「待っています」


 少しだけ間があった。


「一つだけ」

「何ですか?」

「手紙を、続ける」

「私も、続けます」

「それが、今の形だ」

「そうですね。でも、形は少しずつ変わっていくかもしれない」

「変わりながら、続く」

「それが、続けることですね」

「そうだ」


 馬が動き出した。

 レインが少しだけ振り返った。

 手を少しだけ上げた。

 エリナが手を振った。

 街道に出て、小さくなっていった。

 見えなくなった。

 エリナはしばらく、そこに立っていた。

 七年間、同じ場面が繰り返されてきた。

 でも、今日の見送りは、少し違う重さを持っていた。

 昨夜の言葉が、あるから。

 その重さが、好きだった。

 長屋に戻ると、フィオナが来ていた。

 自分の家から、また来たらしかった。


「見送ったの?」

「見送りました」

「どうだった?」

「いつもと同じで、少し違いました」

「どう違った?」

「重さが違いました。昨夜の言葉が、あるから」

「そう、良い重さだったか」

「好きな重さでした」

「ならいい。それが、続けてきたことの重さだと思う」


 台所で、二人で薬草茶を飲んだ。


「昨夜、見えていた?」

「見えていた」

「どこから見ていたんですか?」

「庭の薬草を見に行くと言って、でも少し事務室の方向を見ていた。正直に言えば、気になっていたから」

「フィオナが気になる、というのは珍しいですね」

「珍しくない。あなたのことは、ずっと気になっている。七年間」

「そうでしたか」

「そう。あなたが変わっていくのを、七年間見てきた。昨夜は、また一つ変わった気がした」

「どう変わりましたか?」

「言えた、ということが、変わったことだ。以前のあなたは、言葉にできないことを持っていた。でも、言葉にならなくても、急がなかった。それが、昨夜、言葉になった」

「フィオナは、知っていたんですか。こうなると」

「知っていたのではなく、そうなるといいと思っていた。全然違う」

「そうですね」

「笑ったな」

「フィオナが面白いことを言ったから」

「面白かった?」

「はい。フィオナらしかった」


 午前中、エリナは仕事をした。


 倉庫への発送書類を確認した。各町への供給スケジュールを確認した。ベルトが新しく見つけた北の沢の薬草の報告書を読んだ。

 いつもの仕事だった。

 でも、今日のいつもは、少し違う感じがした。

 昨夜の言葉が、背景にあるからかもしれなかった。

 でも、仕事は仕事だった。

 感情があっても、やることはやる。

 それが、変わらないことだった。

 昼過ぎ、ゴードンが来た。


「今日の午前の確認が終わりました」

「ありがとうございます」

「一点だけ報告があります」

「どうぞ」

「ダリウス様から連絡が来ました。農地の詳細を送ってきてくれました。薬草栽培に使える場所が、三カ所確認できているとのことです」

「三カ所、ですか」

「そうです。うち一カ所は、ルシェムから馬車で二時間ほどの場所です。シェナさんが採取している場所と、地理的に近い」

「シェナに確認してもらえますか。どういう土地か、薬草が育ちやすい環境かどうか」

「連絡します。ダリウス様の提案が、具体的に動き始めましたね」

「そうですね。一つずつ、進んでいます」


 マリオが市場から帰ってきた。


「今日は、特に変わったことはなかった」

「そうですか」

「でも、一つだけ」

「何ですか?」

「マルタさんに会った」

「そうですか」

「レインが来ていた話をしたら、『また来たのかい。いい子だね』と言っていた」

「マルタさんらしいですね」

「それで、また来るかどうか聞いたら、マルタさんが言った。『来るに決まっているよ。約束しているから』」

「マルタさんが、約束を覚えていてくれている」

「覚えているどころか、楽しみにしているみたいだ。あの人は、人を見ている人だから」

「そうですね。マルタさんは、最初から見ていてくれた」

「最初に豆のペーストを買ってくれた人だからな。それが、全部の始まりだった」


 夕方、エリナはルナの作業場を覗いた。

 ルナとベルトが、並んで薬草の仕分けをしていた。

 二人は、ほとんど話さなかった。

 でも、作業が噛み合っていた。

 ルナが一種類を持ち上げると、ベルトがその場所を空けた。

 ベルトが別の薬草を取り出すと、ルナが確認した。

 言葉なしで、動いていた。


「二人とも、上手いですね」

「慣れた」

「何年くらいかかりましたか?」

「最初の半年は、言葉が必要だった。今は、いらない」

「言葉がいらなくなるほど、わかり合えているんですね」

「植物は、言葉を使わない。でも、ちゃんと育つ。言葉がなくても、わかることがある」

「ベルトさんも、そう思いますか?」


 ベルトが少しだけ顔を上げた。


「山も、同じだ。山は、何も言わない。でも、見ていると、教えてくれる」


 夜、エリナは机に向かった。

 今日のことを、少しだけ振り返った。

 レインが帰った。フィオナと話した。ゴードンから農地の報告を受けた。マリオがマルタさんの話をしてくれた。ルナとベルトが言葉なしで動いていた。

 全部が、今日のことだった。

 昨夜の言葉の後の、今日のことだった。

 昨夜があっても、今日はいつも通りだった。

 でも、いつも通りの中に、昨夜が混じっていた。

 それが、今日の形だった。

 レインへの手紙を書いた。


 レインへ


 今日、帰りましたね。見送りました。

 帰り道を、しばらく見ていました。見えなくなってから、少しだけそこに立っていました。

 今日のいつも通りは、昨夜の言葉が混じっていました。仕事をしながら、フィオナと話しながら、マリオの話を聞きながら。全部の背景に、昨夜の言葉があった。

 それが好きだった、ということを、届けたかった。

 手紙を続けます。形は少しずつ変わっていくかもしれない。でも、続けることは変わらない。

 待っています。


                                 ――エリナ――


 書いて、封をした。

 「それが好きだった、ということを、届けたかった」という一行を、書いてから少しだけ見た。

 届けたいことがある、だから書く。

 九歳の頃に、そういうことがわかった。

 十六歳の今も、同じだった。

 変わらないことが、ある。

 机の引き出しを開けた。

 七年分の手紙が入っていた。

 一番上に、今日書いた手紙の封筒が乗っている。

 七年間で、こんなに積み上がった。

 引き出しを閉めた。


 ランプを吹き消した。

 春の夜が、窓の外にあった。

 昨夜と同じ春の夜だった。

 でも、少し違う夜だった。

 昨夜言えた言葉が、今夜も本当のことだった。

 それが、続くということだと思った。


 エリナ・アッシュフォード、十六歳の最初の夜。

 

 言えた言葉が、今夜も本当のことだった。

 それが今夜、一番大事なことだった。

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