89話 七年後の春
エリナ・アッシュフォードが十六歳になったのは、四月のことだった。
ルシェムの春は、今年も来た。
市場に花が並んだ。ルナが採取してくる薬草が、冬のものから春のものに変わった。フィオナの庭の薬草が、また新しい葉を出し始めた。
エリナは台所の窓を開けた。
春の空気が入ってきた。
冷たくなく、暑くもない。
この温度が、一番好きだった。
誕生日の朝、台所に行くと、蜂蜜のパンが置いてあった。
七年間、変わらなかった。
セレーナが毎年、同じものを用意してくれた。
「今年も、蜂蜜のパンですね」
「毎年同じの方がいい。始まりと終わりは、同じものがいい、と言っていたでしょう」
「お母さんが言っていた言葉ですね」
「あなたが覚えていてくれたから、続けている」
エリナは蜂蜜のパンを食べた。
甘かった。
七年間、変わらない甘さだった。
マリオが来た。
「おめでとう、十六歳になったな」
「ありがとうございます」
「毎年言っているな」
「毎年言ってくれますね」
「来年も言う」
「わかっています」
マリオが少しだけ、エリナを見た。
「七年前と比べて、どうだ?」
「どう、というのは?」
「七歳の時と、十六歳の今と。俺は、前の方が小さかったのに、今は俺より背が高い」
「そうですね」
「それ以外にも、いろいろ変わったな。でも、大事なところは変わっていない気がする」
「どんなところですか?」
「正直なところ。本当のことを言う。本当のことしか言わない。それは、七年前から変わっていない」
「それが、変わらないことですか?」
「それが、一番大事なところだと思う」
ルナが来た。
猫を一匹、連れていた。
「十六歳か」
「そうです」
「変わったな」
「どこが変わりましたか?」
「背が伸びた。声が落ち着いた。でも、目が変わらない」
「目が?」
「次のことを、もう考えている目。七年前から、ずっとそういう目をしている」
「それは、変わっていないんですね」
「変わらない」
ルナが頷いた。それから、猫をエリナの膝に乗せた。
「誕生日だから」
エリナは猫を受け取った。
温かかった。
七年間、誕生日に猫が来た。
それが、習慣になっていた。
ゴードンが帳簿の端に小さく「祝 十六歳」と書いた。
「七年間、毎年書いてくれていますね」
「毎年、書きます。来年も」
「ゴードンさんは、変わりませんね」
「数字は変わりません。でも、数字の中身は毎年変わっています」
「どう変わっていますか?」
「七年前と比べると、今年の数字は別の規模になっています。供給している町の数が、七年前の五から、今年は二十三になりました」
「二十三、ですか」
「そうです。ルシェム周辺だけでなく、王都近郊にも届くようになりました。農地での薬草栽培が安定したことで、供給量も大幅に増えました」
「全部が、積み上がってきたものですね」
「そうです。あなたが九歳だった頃と、今とでは、全然違う規模です。でも、やり方は変わっていない」
フィオナが、自分の家から来た。
「十六歳おめでとう」
「ありがとうございます」
「九歳の時から、七年経った。私がルシェムに来た頃を、覚えている?」
「覚えています。最初は、疲れた顔をしていましたね」
「疲れていた。今は、違う」
「どう違いますか?」
「帰ってくる場所があるから、疲れても戻れる。あの頃の私には、それがなかった」
「今は、ある」
「ある。庭の薬草が、今年で六年目になる。毎年、春に新しい葉が出る。それを見るたびに、ここが自分の場所だとわかる」
誕生日の午後、エリナは一人で丘に行った。
ルシェムの外れの丘だ。
毎年、誕生日に来ていた。
最初に来たのは、九歳の時だった。
それが習慣になっていた。
丘の上から、ルシェムを見た。
七年前より、少し大きくなっていた。
新しい家が、何軒か増えた。
市場が、少し広がった。
倉庫に繋がる道が、整備された。
でも、長屋はそのままだった。
作業場も、そのままだった。
大きくなったのに、変わらないものがある。
それが、七年間のルシェムの形だった。
夕方、丘から帰ると、レインが待っていた。
エリナは少しだけ止まった。
いつも、来る時は手紙が来てから馬で来る。
今日は、手紙がなかった。
「いつ来たんですか?」
「昼頃に着いた。誕生日だから、来た」
「知らせてくれれば、迎えに出ました」
「知らせずに来たかった」
「なぜですか?」
「待っていてほしかった、ではなく、ただ来たかった。それだけの理由で来てもいいと思った」
エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。
ただ来たかった。
以前、フィオナが「行きたいから行く、という理由で来た」と言っていた。
今日のレインも、同じ種類の理由だった。
「来てくれてありがとうございます」
「誕生日おめでとう。十六歳になったな」
「なりました」
「七年前、九歳の誕生日に手紙を送った。今日で、七年続いた」
「続きましたね」
「続いた。七年前に、こうなると思っていたか?」
「思っていませんでした。でも、こうなりました」
「それが、続けることの形だと思っている」
その夜、全員で夕食を食べた。
セレーナ、マリオ、ルナ、ゴードン、フィオナ、レイン、ベルト、エリナ。
ベルトは、三年半前から作業場に来るようになっていた。
今では、すっかりルシェムの一員だった。
テーブルに、料理が並んだ。
セレーナが今日だけは、少し手の込んだものを作ってくれていた。
「誕生日だから」
「毎年、そう言っていますね」
「毎年そう言う。来年も言う」
マリオが言った。
「十六歳になった。次の誕生日は、十七歳だな」
「そうですね」
「当たり前のことを言っているな」
「当たり前のことが、大事なことだから」
「そうだよな」
食事の途中、レインがエリナに言った。
「一つだけ、今夜言いたいことがある」
「はい」
「今夜でなくてもいいが、今夜がいいと思って」
「聞かせてください」
「七年間、手紙を書き続けた。会い続けた。話し続けた。その七年を、これからも続けたいと思っている」
「続けることが大事だと、ずっと言ってきましたね」
「そうだ。でも、今夜はその続きを言いたい。続けることの先に、何があるかを、今夜話してもいいか」
エリナは少しだけ止まった。
テーブルの周りで、マリオが気を使って別の話を始めた。フィオナが自然に話に乗った。
エリナとレインだけが、少しだけ静かな空間にいた。
「今夜、話せます」
「食事が終わった後で」
「食事が終わった後で」
食事が終わった。
マリオとルナとベルトが片付けを始めた。
セレーナが台所に入った。
ゴードンが「少し外の空気を吸ってくる」と言って出た。
フィオナが「庭の薬草を見てくる」と言って出た。
自然に、エリナとレインだけが事務室に残った。
二人で、向かい合って座った。
七年前、最初に会った場所と似ていた。
でも、あの頃と今では、全部が違った。
「続けることの先に、何があるか。聞かせてください」
「俺が言いたいのは、一つだけだ。七年間、手紙を書いた。会った。話した。それが、俺にとって当たり前になっている」
「私も、当たり前になっています」
「当たり前のことが続くことを、これからも続けたい。それだけでなく、もう少し先を言いたい」
「もう少し先、とは?」
「お前と、一緒にいたい」
レインが静かに、でも、はっきりと言った。
「手紙だけでなく。たまに会うだけでなく。もっと近くで」
エリナは、その言葉を受け取った。
整理しようとしなかった。
分析しようとしなかった。
ただ、受け取った。
そして、少しだけ考えた。
七年間、何を感じてきたか。
整理できなかったことが、たくさんあった。
でも、一つだけ、ずっと確かだったことがあった。
「レイン」
「何だ?」
「私も、同じことを思っています。もっと近くで、一緒にいたい」
「そうか」
「七年間、ずっとそう思ってきた気がします。言葉にしなかっただけで」
「言葉にできなかったのか?」
「できなかったのではなく、急がなかった。今夜、言えると思ったから、言いました」
少しだけ間があった。
外から、フィオナの声が聞こえた。
庭の薬草の話をしているようだった。
マリオが笑っている声が聞こえた。
ルシェムの夜の音だった。
「一つだけ、確認していいか?」
「どうぞ」
「一緒にいたい、というのは、どういう形を考えているか?」
エリナは少し考えた。
「形は、これから決めればいいと思っています。私にはルシェムがある。あなたには学院がある。すぐに全部が変わるわけではない。でも、もっと近くで、という方向に向かっていきたい」
「急がない、ということか」
「急がない。でも、止まらない。それが、私たちのやり方だと思っています」
レインが少しだけ、口の端を動かした。
「そうだな」
「そうですよね」
「お前らしい答えだ」
「そうですか? でも、本当のことだから」
「知っている。だから、好きだ」
エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。
だから、好きだ。
七年間かけて、言えるようになった言葉だった。
「私も。だから、好きです」
外から、マリオの声が聞こえた。
「エリナ、レイン、フィオナが庭で待ってるぞ」
エリナとレインが立ち上がった。
事務室を出た。
外に出ると、フィオナが庭の前に立っていた。
マリオがその横にいた。ルナも来ていた。
フィオナがエリナを見て、何も言わなかった。
でも、笑った。
それだけで、全部わかった、という顔だった。
その夜、エリナは机に向かった。
手紙は書かなかった。
代わりに、短いメモを書いた。
十六歳の誕生日の夜。
レインが、知らせずに来てくれた。
「だから、好きだ」と言ってくれた。
「私も、だから、好きです」と言えた。
七年間かけて、言えた言葉だった。
急がなかったから、言えた。
続けてきたから、届いた。
書いて、引き出しに入れた。
引き出しを開けると、七年分の手紙が入っていた。
レインからの手紙が、全部ある。
一枚も、捨てていなかった。
引き出しを閉めた。
ランプを吹き消した。
春の夜が、窓の外にあった。
十六歳の最初の夜だった。
七年前と同じ春の夜だったが、全部が違っていた。
エリナ・アッシュフォード、十六歳。
今夜、言えた。
七年間かけて、言えた言葉が、届いた。
それが今夜、一番大事なことだった。
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