9話 アッシュフォード商会、始動
商会を正式に立ち上げるには、ギルドへの登録が必要だった。
ルシェムには小さな商人組合がある。王都の商業ギルドほど権限は強くないが、商売を公式に行うには組合の認可証が必要だ。認可証がなければ、市場での販売は非公式扱いになり、いつでも排除される可能性がある。
エリナはこの一ヶ月、その準備を進めていた。
問題は年齢だった。組合の規定では、商会の代表者は十五歳以上でなければならない。エリナはまだ七歳だ。どれだけ知識があっても、書類の上では子どもに過ぎない。
だから代表者が必要だった。
ゴードン・ハースがルシェムに来たのは、春の終わりのことだった。
エリナが最初にその男を見たのは、市場の隅だった。くたびれた上着を着た壮年の男が、マルタの店の前で豆のペーストを手に取って、じっと見ていた。買う様子でも、立ち去る様子でもない。ただ、ラベルに書かれた文字を読んでいた。
エリナが近づいた。
「どこか気になりますか」
男が顔を上げた。目が鋭い。でも敵意ではなく、分析する種類の鋭さだった。
「このラベルの書き方だ。内容量と価格と使用方法が整理されて書いてある。普通の行商人はここまで書かない」
「書いた方が売れるから書いてる」
「なぜ売れると思った?」
「買う人間は、知らないものにお金を出すのを怖がる。情報を先に渡せば怖くなくなる」
男がエリナをまじまじと見た。
「あなたが作ってるのか」
「そうです」
「名前は」
「エリナ・アッシュフォード」
男の目が、一瞬だけ変わった。アッシュフォードという名前に反応した。でも哀れみでも軽蔑でもない。何かを思い出した、という顔だ。
「……アッシュフォード侯爵の娘か」
「元侯爵の。今は平民です」
「お父上には、一度だけお会いしたことがある。優秀な方だった。改革案の数字を拝見したことがある。見事な論理だった」
エリナは少し止まった。
「あなたは?」
「ゴードン・ハース。元は商人ギルドの会計士をしていた。今は——仕事を探している」
話を聞くと、事情はわかった。
ゴードンは三年前、商人ギルドの内部不正を告発した。帳簿の改竄、税の横領、贈収賄。証拠を揃えて上に提出した。しかし上の人間が不正に加担していた。結果、ゴードンの方が「虚偽の告発をした」として解雇され、業界に居場所を失った。
エリナは話を聞きながら、帳簿を頭に思い浮かべた。
「複式簿記を知ってますか」
ゴードンが目を丸くした。
「……知っている。というより、私が独自に考えていた手法に近いものだが。どこでその言葉を」
「同じものを考えていた。でも私は計算は得意でも、商業経験がない。経理と財務を任せられる人間が必要だった」
「まさか、子どもに仕事を提案されるとは思わなかった」
「年齢より中身で判断する方が合理的でしょう」
ゴードンがしばらくエリナを見ていた。それから、小さく笑った。声に出さない、静かな笑い方だった。
「お父上に似てる」
エリナは何も言わなかった。でも胸の奥が、少し動いた。
「条件を聞こうか。話だけでも」
「商会の代表を務めてほしい。私はまだ十五歳になっていないので、書類の上での代表者が必要。実務の決定権は私が持つ。利益の二割をあなたに渡す。それに加えて、経理・財務の責任者として月給を別途払う」
「利益の二割は多すぎる」
「代表者のリスクに対する報酬。もしクロヴェル家から圧力がかかった時、矢面に立つのはあなたになる」
ゴードンが少し顔を引き締めた。
「……クロヴェルが関係しているのか」
「父を陥れた家です。いずれぶつかる」
沈黙があった。
ゴードンが立ち上がって、手を差し出した。
「わかった。やってみよう」
エリナはその手を、両手で握った。
登録の日は、マリオも一緒に来た。
ルシェムの商人組合は、市場の一角にある木造の建物だ。組合長はハロルドという五十代の男で、長年この町の商売を仕切ってきた。
ゴードンが書類を提出した。エリナが作成し、ゴードンが清書したものだ。商会名、代表者名、取り扱い品目、資本金の申告。
ハロルドが書類を読んだ。途中で眉を上げた。
「品目がずいぶん多いな。食品加工、衛生用品、医療補助品、将来的には建材と運輸も、か」
「はい」とゴードンが答えた。
「代表はあなただが、実質的な運営は?」
ハロルドの視線がエリナに向いた。子どもが一緒にいることを、最初から気にしていたのだろう。
エリナは前に出た。
「私が担当します。エリナ・アッシュフォードと申します」
「アッシュフォード……」
ハロルドが少し目を細めた。
「石鹸と薬草薬を作っていた子か。クラウスの足を治したという」
「はい」
「噂は聞いていた」
ハロルドがしばらくエリナを見た。
「だが子どもに商会は早くないか」
「子どもだから早いのではなく、準備ができているかどうかだと思います。帳簿をご覧ください。この半年の収支と在庫、それから向こう半年の生産計画と売上予測を添付してあります」
ハロルドが書類をめくった。
しばらく読んだ。ページをめくる手が、途中から少し遅くなった。数字を確認している。
やがて顔を上げた。
「……この予測の根拠は」
「過去半年の実績データと、市場の需要傾向から計算しました。保守的に見積もっています。実際はこれより上振れる可能性が高い」
「なぜ保守的に」
「楽観的な予測は信用されないから。信用を得てから数字を上方修正する方が、関係者全員にとっていい」
ハロルドが書類を机に置いた。組合長の目が、少し変わっていた。
「……認可しよう」
マリオが隣で小さく拳を握った。エリナは表情を変えなかった。でも足の指先に、少し力が入った。
組合を出たところで、マリオが声を上げた。
「やったじゃないか!」
「まだ始まっただけ」
「素直に喜べよ」
「喜んでる」
「全然そう見えない」
エリナは少し考えて、口の端を動かした。
「……嬉しい」
「それだけか!」
ゴードンが後ろで静かに笑っていた。声に出さない、あの笑い方で。
エリナは認可証を受け取った。薄い紙に、組合の印が押してある。アッシュフォード商会、正式認可。
小さな紙だ。でもこれが、すべての始まりの証明になる。
その夜、全員が長屋に集まった。
エリナ、母のセレーナ、マリオ、ゴードン、それからルナ。
台所には入りきらないので、隣の部屋も使った。エリナが料理を作った。豆のスープ、焼いたパン、薬草を使った副菜。大した食材ではないが、手間をかけた。
食事が始まって、誰も特別なことは言わなかった。
でもマリオが食べながらぼそりと言った。
「なんか、始まった感じがするな」
誰も否定しなかった。
セレーナがエリナの顔を見た。目が少し潤んでいた。エリナは気づかないふりをした。気づくと、自分まで変な顔になりそうだったから。
ルナが、珍しく自分からパンを一枚取った。いつもは促さないと食べない子だ。猫が一匹、どこからか入り込んで、ルナの膝の上に収まっていた。
ゴードンが帳簿を開いて、明日からの作業を確認し始めた。この男は祝いの場でも仕事をする。エリナは少し好ましいと思った。
「今くらい休めよ」とマリオが文句を言った。
「明日の準備が今日を決める」とゴードンが答えた。
「エリナみたいなこと言う」
「優秀な人間は同じ結論に至る」
エリナは何も言わずに、スープを飲んだ。
窓の外に夜が来ていた。ルシェムの町は静かだ。でもこの部屋だけは、人の気配があった。
チームができた。
豆のペーストを一人で作っていた頃から、ここまで来た。
王都はまだ遠い。クロヴェル家はまだ巨大だ。父の名誉はまだ地に落ちたままだ。
でも今日、アッシュフォード商会が産声を上げた。
エリナは認可証を、夕食の間もずっと上着の内ポケットに入れたままにしていた。
取り出して確認する必要はなかった。ただ、そこにある重さを感じていたかった。
それだけのことだ——と思ったが、今日は「それだけのことだ」で片付けるのをやめた。
嬉しい。素直に、嬉しい。
エリナ・アッシュフォード、七歳。
商会の代表は、今日から名前だけゴードン・ハースだ。
でもいつか必ず、自分の名前で立つ。
アッシュフォードの名前で、この世界に刻む。
それが、始まりの誓いだった。
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追記:15日~17日は19時に予約投稿になります。




