10話 最初の大口取引
商会が正式に動き出してから三週間で、エリナは一つの結論に至った。
ルシェムは小さすぎる。
市場の規模、住民の数、購買力——すべてが限界に近づいていた。石鹸の需要はまだあるが、供給が追いついている。薬草薬も、この町では買える人間にはほぼ行き渡った。次の成長には、新しい市場が必要だ。
外に出る。
その判断をしてから、エリナはゴードンと一週間かけて情報を集めた。
ルシェムから馬車で半日の距離に、ベルナという町がある。人口はルシェムの三倍、街道沿いの宿場町で商人の往来が多い。そしてベルナには、ロッソ商会という中規模の商会があった。食料品と日用品を扱う老舗で、この地域一帯に販路を持っている。
「ロッソ商会のベルダン会頭は、新しいものに目ざとい人間だと聞いている。ただ——交渉は厳しい。値切りが激しく、条件をとことん詰めてくる。生半可な準備では相手にされない」
「逆に言えば、条件を飲ませれば長期の取引になる」
「そういうことだ」
エリナは頷いた。
「行く。アポイントを取って」
ベルダン会頭との面会は、五日後に取れた。
当日の朝、エリナはいつもより早く起きた。服は母のセレーナが夜通しかけて仕立て直してくれた一張羅だ。古い生地だが、縫い目が丁寧で清潔感がある。髪を丁寧に整えて、サンプルの入った革鞄を持った。
マリオが馬車を手配していた。ハンスの知り合いが持つ荷馬車だ。御者台に乗ったマリオが、エリナを見て少し目を丸くした。
「……なんか、いつもと違う」
「服が違うだけ」
「そういうことじゃなくて」
「行くよ」
エリナは荷台に乗り込んだ。マリオがそれ以上は言わずに手綱を取った。
ゴードンが隣に座った。膝の上に書類の束を乗せている。昨夜も遅くまで数字を確認していたのを、エリナは知っていた。
「緊張しているか?」
「していない」
「正直に言っていい」
「していない。考えることがありすぎて、緊張する暇がない」
ゴードンが、静かに笑った。
ロッソ商会の建物は、ベルナの中心部にあった。
石造りの二階建て。入り口に商会の看板が出ていて、中から人の話し声が聞こえる。活気がある。それだけで、商会として機能していることがわかった。
受付の男が、エリナを見て一瞬だけ表情を変えた。子どもが来た、という顔だ。でもゴードンが名刺を出すと、奥へ案内した。
通された応接室は広くも狭くもない。革張りの椅子が四脚、中央にテーブル。窓から通りが見える。
ベルダンは五分後に現れた。
六十代手前の男だ。体格がよく、日焼けした顔に深い皺がある。長年商売をしてきた顔、とエリナは思った。目が鋭い。入ってきた瞬間から、すでに室内を値踏みしていた。
ゴードンと握手して、それからエリナを見た。
「これが、噂の商会の実質的な運営者か」
「エリナ・アッシュフォードと申します。本日はお時間をいただきありがとうございます」
「アッシュフォード……」
ベルダンが少し目を細めた。
「没落した侯爵家の娘が商売をしているとは聞いていたが、本当に子どもだったな」
「年齢は関係ないと思います」
「そう思うのは子どもだけだ」
ベルダンが椅子に座った。
「だが——わざわざ来たからには、聞くくらいはしてやろう。何を持ってきた」
エリナは革鞄を開けた。
テーブルに並べたのは六点だ。
石鹸三種類——標準品、香草入り、肌の弱い人向けに刺激を抑えたもの。豆のペースト二種類——標準品と、保存期間を延ばした長期保存版。そして消毒液。
それぞれの隣に、小さな説明書きを置いた。成分、使い方、効能、価格。
ベルダンが一つずつ手に取った。石鹸の匂いを嗅ぎ、ペーストを少量指につけて舐め、消毒液の栓を開けて確認した。
表情は動かなかった。
これは交渉上手な人間の顔だ。判断は内側でしている。
「ルシェムで衛生状態が改善したという話は聞いた。子どもの病気が減って、傷の治りが早くなった。石鹸のせいだと言われているが、本当にそうなのか」
「因果関係の完全な証明はまだ途上です。ただ——」
エリナは書類を一枚取り出した。
「ルシェムの過去二年の病人数と、石鹸が出回り始めてからの三ヶ月の比較です。数字をご覧ください」
ベルダンが書類を取った。
数字を読む目が、少し変わった。商人の目だ。感情ではなく、損得で動く目。その目が、数字の意味を計算している。
「……病人が減れば、仕事を休む人間が減る。生産性が上がる。それが購買力に繋がる」
ベルダンが独り言のように言った。
「そうです。石鹸は衛生用品ですが、経済効果があります。使う人間が増えるほど、その町全体の活力が上がる」
「大きく出たな」
「数字の裏付けがあります」
ベルダンがしばらく書類を見ていた。
それから顔を上げて、本格的な交渉が始まった。
「石鹸を月に百個、ペーストを五十個、仕入れたい。ただし、今の販売価格から三割引きで」
三割引き。エリナは計算した。材料費と人件費を考えると、三割引きでは利益がほぼ消える。
「二割引きまでなら可能です」
「二割五分だ」
「二割一分」
「二割三分」
「二割二分。ただし条件があります」
ベルダンが少し目を細めた。値引き交渉の途中で条件を出す——予想していなかったのかもしれない。
「聞こう」
「一つ目、独占販売権をベルナとその周辺三町に限定する。他地域は我々が別ルートで販売する権利を留保する」
「それは構わない」
「二つ目、ロッソ商会の配送ネットワークを使って、注文から納品まで十日以内を保証してほしい。在庫リスクをこちらが持つ代わりに、配送はそちらに負担してもらう」
ベルダンが少し考えた。
「配送コストが乗る分、うちの利幅が減る」
「その分、販売価格に転嫁できます。消費者への説明は我々が資料を用意します。品質の証明書付きで。それがあれば、多少高くても売れる」
「品質の証明書?」
「使用前後の効果を比較した説明書きです。ルシェムの事例と数字を添えて。消費者は正体のわからないものより、説明のあるものを選びます」
ベルダンがしばらく黙った。
エリナは急かさなかった。ゴードンも動かなかった。マリオは扉の外で待っているから、この場にいない。静かなのは、エリナとゴードンとベルダンの三人だけだ。
「……三つ目はあるか?」
「あります」
「言え」
「半年後に取引量を見直す機会を設けてほしい。実績が数字で出た時点で、こちらの卸値を再交渉したい」
「上げるつもりか」
「下げる可能性もあります。量が増えれば原価が下がるから」
ベルダンが少し動いた。目の奥に、何か変わったものがあった。
「……量が増えれば原価が下がる、とはっきり言う商人は少ない」
「本当のことだから言います。嘘をついて長続きする取引はない」
沈黙があった。
長い沈黙だった。ベルダンが指でテーブルを軽く叩いた。考える時の癖だろう。
それから言った。
「わかった。条件を飲もう。二割二分引き、配送はこちら持ち、半年後に再交渉。ただし最初の三ヶ月は試験期間として、月の発注量を七十個と三十個に抑える。実績が出たら百個と五十個に戻す」
エリナは一秒だけ考えた。試験期間は想定内だ。数字も許容範囲内。
「同意します」
ベルダンが手を差し出した。エリナはその手を握った。
大きな手だった。何十年もの商売が染み込んだ手だ。自分の手がその中に収まった時、エリナは少しだけ、自分がまだ子どもだということを実感した。
でも握り返す力は、負けない。
帰り道の馬車の中で、ゴードンが口を開いた。
「見事だった」
「条件は最低限は守れた」
「それだけじゃない。ベルダン会頭は最後、あなたのことを値踏みではなく見ていた。対等な相手として」
エリナはそれを聞いて、窓の外を見た。
ベルナの町が遠ざかっていく。街道沿いの木が、風に揺れていた。
「量が増えれば原価が下がると言ったのが効いた、ということ?」
「商人は自分に有利なことしか言わない、と思っている。あなたは不利になる可能性も含めて話した。そういう人間は、信用される」
エリナは頷いた。前世で何度も見てきたことだ。短期的な利益のために嘘をつく人間は、長期的な信頼を失う。どちらが得かは、計算するまでもない。
御者台のマリオが声をかけてきた。
「どうだった!」
「取れた」
「やったあ!」
マリオが派手に喜んだ。御者台で立ち上がりかけて、ゴードンに「危ない」と注意された。
エリナは小さく笑った。
声に出た。
それが少し意外で、自分で少し驚いた。
長屋に戻ると、セレーナとルナが待っていた。
結果を話すと、セレーナが目を潤ませた。ルナは表情を変えなかったが、いつもより少し早く頷いた。
夜、エリナは帳簿に今日の交渉結果を記録した。取引条件、発注量、納品スケジュール、半年後の見直し予定。
書き終えてから、欄外に小さく書いた。
最初の大口取引、完了。
それだけだ。感想も、感慨も書かない。帳簿は数字と事実のためにある。
でも書いた後に、少しだけ手を止めた。
ベルダンの大きな手の感触が、まだ残っていた。
次は王都だ。
エリナは帳簿を閉じた。
ルシェムからベルナへ。ベルナから、次はもっと大きな場所へ。
一手ずつ、確実に。
アッシュフォードの名前を、この世界に刻むために。
ランプを吹き消した。暗くなった部屋で、エリナは目を閉じた。
眠りにつく直前、ふと思った。
今日の結果を、レインに話したら何と言うだろう。
考えて、すぐに首を振った。
情報共有の相手として有用だから、そう思っただけだ。
それだけのことだ。
……それだけのことだ。
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