11話 毒舌令嬢と、雨宿りの論戦
フィオナ・クロスベルと出会ったのは、ベルナへの二度目の訪問の帰り道だった。
ロッソ商会との取引が軌道に乗り始めて一ヶ月。試験期間の数字が予測を上回ったため、ベルダンから「早めに次の話をしたい」と連絡が来た。ゴードンと二人でベルナへ向かい、発注量の引き上げと新商品の追加について話し合った。交渉は二時間で終わった。前回より短かった。信頼が積み上がると、交渉は速くなる。
問題は帰り道に起きた。
街道の途中で、空が急に暗くなった。春の嵐だ。風が強く、雨粒が横から叩きつけてくる。ゴードンが御者台から声をかけてきた。
「あの廃屋で雨宿りしよう。馬が危ない」
街道脇に、半分崩れた石造りの小屋があった。昔は見張り小屋か何かだったのだろう。屋根の一部は残っている。馬を繋いで、中に入った。
先客がいた。
小屋の隅に、少女が座っていた。
年はエリナと同じか少し上——八歳か九歳くらいだろう。膝を抱えて壁に寄りかかり、雨の降る入り口を睨んでいた。服は上等な生地だが、泥で汚れている。靴も濡れている。髪は乱れていた。
でも顔立ちは整っていた。鼻筋が通って、唇が薄い。そして目が、どこか刃物のように鋭かった。
エリナが入ってきたのを見て、少女は顔を上げた。値踏みするような視線が走った。一秒もかからず、上から下まで見た。
「……何」
開口一番がそれだった。挨拶でも自己紹介でもない。
「雨宿り。邪魔なら端に寄る」
「別に邪魔じゃない。ただ、思ったより小さかったから」
「私が?」
「アッシュフォード商会の話を聞いてたから、もっと大きい人間かと思ってた」
エリナは少し止まった。
「知ってるの?」
「ベルナで知らない人間の方が少ない。七歳の元令嬢が石鹸と薬を売って商会を立ち上げた。ロッソのベルダンを唸らせたとか」
少女が肩をすくめた。
「噂は耳に入るもの。特に、ここ最近は退屈してたから」
退屈、という言葉の使い方が引っかかった。
「なぜここに?」
「馬車が壊れた。御者が修理に行って、戻らない。二時間は経ってる」
少女がまた雨の入り口を睨んだ。
「まったく、使えない」
「一人で待ってたの」
「見ればわかるでしょう」
エリナはゴードンを見た。ゴードンが小さく頷いた。
「ゴードン、馬車の場所を聞いて確認してきてもらえますか。御者が困ってるかもしれない」
ゴードンが少女に場所を確認して、外へ出た。小屋に二人が残った。
沈黙があった。
雨の音が続く。風が唸る。少女は膝を抱えたまま、壁を見ていた。
エリナは鞄から布を取り出して、少女の前に差し出した。
「靴が濡れてる。拭いた方がいい」
「……いらない」
「風邪をひく」
「あなたには関係ない」
「関係はないけど、狭い小屋で風邪をひかれると困る」
少女がエリナを見た。一瞬、何かを計るような目になって、それから鼻を鳴らした。
「……随分と正直なのね」
「遠回しに言うのが苦手なだけ」
「それは欠点じゃないの」
「時と場合による」
少女が小さく、面白そうに口を曲げた。笑い、ではない。でも笑いの一歩手前くらいの表情だ。
布を受け取った。靴を脱いで、足を拭いた。動作は丁寧だった。育ちが出ている。
「名前は?」と少女が聞いた。
「エリナ・アッシュフォード」
「知ってた。私はフィオナ・クロスベル。元クロスベル男爵家の娘。今は——」
少し間があった。
「ただの平民、ということになってる」
元貴族。没落した。エリナは素早く情報を整理した。
「いつ没落したの」
「二年前。父が事業に失敗して、借金を抱えて爵位を返上した」
フィオナの声は平坦だった。感情を削ぎ落とした言い方だ。
「母はそれより前に亡くなってる。今は父と二人。ベルナで細々とやってる」
「どんな仕事を」
「父は元の伝手で商人の帳簿を手伝ってる。私は——」
フィオナがまた少し間を置いた。
「特に何も。没落令嬢に需要はない」
最後の一言に、棘があった。自分に向けた棘だとわかった。
「魔法の適性は?」
フィオナが少し目を細めた。
「なぜそれを聞く?」
「参考までに」
「Ⅲ階。輝晶。普通よりは高い。でも没落貴族の娘が魔法を使える場所なんてない」
「情報収集は得意?」
唐突な質問に、フィオナがわずかに眉を上げた。
「……人より耳がいい、とは言われる。人が何を考えてるか、大体わかる」
「交渉は?」
「なぜそんなことを聞くの?」
「採用面接をしてるから」
フィオナが固まった。
雨の音だけが続いた。それから少女は、信じられないものを見る目でエリナを見た。
「……今、何と言った?」
「採用面接。うちの商会に来る気はないかと思って」
「あなたが私を雇うと言ってる?」
「そうなる前に確認したいことがある」
フィオナが呆気に取られている間に、エリナは続けた。
「交渉の場で相手の感情を読める人間が必要だった。私は数字と論理で動くけど、感情で動く人間の読み方が得意じゃない。そこを補える人間を探してた」
「一時間前に会ったばかりよ」
「人を見るのにそこまで時間はかからない。あなたは最初の一秒で私を値踏みした。条件反射で情報を集める習慣がある。それが何かを示してる」
フィオナがしばらく黙った。
長い沈黙の間、雨が小屋の屋根を叩いた。フィオナの目が、様々なものを通り過ぎていくように動いた。
「……条件を聞かせてもらえる?」
「まず試用期間を一ヶ月。情報収集と交渉の補佐を担当してもらう。月給は今すぐは少ないけど、実績に応じて上げる。将来的には参謀として商会の戦略全体に関わってほしい」
「参謀」フィオナが繰り返した。
「あなたの頭は、帳簿係には収まらないと思う。戦略を考える立場の方が向いてる」
フィオナがエリナを見た。今度は値踏みではない。違う種類の目だ。
「……一つ聞いていい?」
「どうぞ」
「なぜ私なの。ベルナにはもっと経験のある人間がいる」
「経験は積める。感性は積めない。あなたが最初に私を見た時の目の動き、情報の拾い方、言葉の選び方——全部、天性のものがある。それは教えて身につくものじゃない」
フィオナが少しの間、黙ったまま雨を見ていた。
それからゆっくりと、口を開いた。
「一つだけ言っておく」
「どうぞ」
「私は愛想がない。お世辞を言わない。間違いは間違いと言う。それで困る人間が多い」
「それで困らない」
「なぜ?」
「私も同じだから」
フィオナが、今度こそ笑った。声には出なかったが、口の端が上がって、目が変わった。刃物みたいな鋭さは消えていなかったが、その中に何か別のものが混じった。
「……面白い人ね、あなた」
「よく言われる」
「誰に?」
「マリオとレインに」
「どんな人間?」
「マリオは幼馴染。レインは——」
エリナが少し考えた。
「知り合い。魔法学院の生徒」
「男?」
「そうだけど」
「へえ」とフィオナが少し意味ありげな顔をした。
「どんな男?」
「優秀な魔法使い。口数が少ない。合理的な思考をする」
「それだけ?」
「それだけ」
フィオナがじっとエリナの顔を見た。それから小さく息を吐いた。
「……わかった。試用期間、やってみる」
ゴードンが戻ってきたのは、それから少し後だった。
「御者は馬車の車輪が外れていて、修理に手間取っていた。あと半刻ほどで直るそうだ」
フィオナが立ち上がった。泥で汚れた服を手で払った。
「もう少しここにいてもいい?」
「どうぞ」とゴードンが答えた。それからエリナを見た。
「この方は?」
「フィオナ・クロスベル。来月から商会で働いてもらう」
ゴードンがフィオナを見た。フィオナがゴードンを見た。
「……話が早いのね」
フィオナがエリナに言った。
「時間は有限だから」
「本当に愛想がない」
「あなたも大概でしょう」
「それはそうね」
フィオナが肩をすくめた。ゴードンが静かに笑った。
雨が上がる頃、フィオナの馬車が直ったと御者が知らせに来た。
小屋の入り口でフィオナが振り返った。
「一つだけ聞いていい?」
「どうぞ」
「クロヴェル家とやり合うつもりでしょう、いつか」
エリナは少し止まった。
「なぜそう思う?」
「アッシュフォードの名前を捨てないで使ってる。没落した家の名前をわざわざ商会名にする理由は、一つしかない」
フィオナが真っ直ぐにエリナを見た。
「復讐だけじゃなくて、父親の名誉回復を狙ってる。そのためにはいつかクロヴェルと正面からぶつかる必要がある。違う?」
エリナはしばらくフィオナを見た。
一時間前に出会った少女が、核心を一言で言い当てた。
「……違わない」
「そう」
フィオナが頷いた。
「それなら、役に立てると思う。クロヴェル家のことは、少し知ってるから」
「どのくらい」
「父が爵位を返上した時に、クロヴェル侯爵が関わっていたという噂がある。証拠はない。でも、知っていることはある」
エリナの目が、少し鋭くなった。
「それは——」
「来月から話す。今日はここまで」
フィオナが馬車の方へ歩き出した。
「それまでに私のことを調べてもいい。信用できるか確認して」
「調べる」
「正直ね」
「遠回しが苦手だと言った」
フィオナが歩きながら、一度だけ振り返った。
「エリナ」
「何?」
「その男——レインだっけ。あなたが思ってるより、大事な存在になると思うよ」
エリナが答えようとした時、フィオナはもう馬車に乗り込んでいた。
蹄の音が遠ざかる。
エリナは街道に立ったまま、しばらく馬車の消えた方向を見ていた。
なぜレインの話になった。
そして、なぜその一言が、少し引っかかっているのか。
答えは出なかった。
ゴードンが隣に来た。
「良い人材ですね」
「そう思う」
「クロヴェルの情報を持っているとしたら、なおさら」
「来月が楽しみ」
馬車に乗り込みながら、もう一度だけ考えた。
あなたが思ってるより、大事な存在になると思うよ。
フィオナは初対面で人の感情を読む目を持っていると言った。
だとしたら——その言葉は、何を読んだ上での言葉なのか。
エリナは首を振った。
考えるべきことは他にある。クロヴェルの情報、商会の次の展開、王都への準備。
優先順位をつければ、レインのことは最下位だ。
最下位、のはずだ。
馬車が動き出した。街道を、ルシェムへ向けて走り出した。
エリナは窓の外を見ながら、最下位のことを、なぜかもう一度だけ考えた。
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