12話 報せと矛盾と、三人の夜
レインが三度目にルシェムを訪れた日、空は晴れていた。
珍しいことだ、とエリナは後になって思った。彼と会う時はいつも雨が降っているような気がしていたからだ。初めて会った日も、二度目に消毒液を見せた日も、雨が降っていた。
だからその日、青空の下を歩いていた時に後ろから声をかけられた瞬間、一瞬、誰だかわからなかった。
「靴底の紐、変えたんだな」
振り返ると、陽の光の中にレインが立っていた。
旅装束は前よりも少しだけ新しくなっていた。まだ質素だが、布の擦り切れが少ない。革鞄は同じものだが、手入れされているのがわかる。右の靴底には、麻紐ではなくちゃんとした革の補強が施されていた。
「……修理したんだ」
「前回も言った」
「今回は紐じゃなくて、ちゃんと直してる」
「合理的な投資だと気づいた」
淡々としたやり取り。エリナは、そのごく当たり前のような会話に、なぜか少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
「来ると聞いてなかったけど」
「伝えてない」
「どうやってここがわかったの」
「長屋の場所をマリオに聞いた」
言われて周囲を見回すと、少し離れたところでマリオがこちらを見ていた。目が合うと、なぜか妙ににやけた顔をして手を振ってきた。
「マリオが妙な顔をしてる」
「知ってる」
「何か吹き込んだ?」
「何も」
嘘だとわかった。だが今追及するのはやめた。
「とりあえず中に入って」
「客人か?」
背後から別の声がした。
フィオナだった。
アッシュフォード商会の拠点として借りている隣室の扉にもたれかかり、腕を組んでこちらを見ていた。今日もいつものように、少し乱れた栗色の髪を後ろでまとめ、動きやすい簡素なワンピースを着ている。
目が、面白そうに光っていた。
「噂の魔法使い君ね?」
「……誰だ?」
レインがわずかに眉を寄せた。
「フィオナ・クロスベル。ここの参謀見習い」
フィオナが軽く顎をしゃくった。
「この前、小屋で話したって聞いたわ。あなたの話、少しだけ」
「どこまで話したの?」
エリナが横から割り込んだ。
「あなたが合理主義者で、口数が少なくて、魔法の才能がバカみたいに高いってところまで」
「余計な形容詞がついてない?」
「事実を言っただけ」
レインがエリナを見た。その視線が「なぜそんな話をした」と言っているのを、エリナは感じた。
「話した覚えは……あるような、ないような」
「私は質問しただけ。答えたのはあなたよ」とフィオナが肩をすくめた。
「まあいいわ。中で続きましょう。外で立ち話するには、話が多そうだから」
事務兼作業部屋に三人で入った。
壁一面に貼られた薬草の分類図、棚に並ぶ石鹸と薬草薬のサンプル、机の上に積まれた帳簿と紙。小さな空間だが、情報と物資がぎっしり詰まっている。
ルナは外に採取に出ていた。ゴードンは商人組合との打ち合わせで出かけている。マリオは荷物の運搬中だ。
今日は珍しく、中心メンバーのうち三人だけが小さな部屋に集まった。
「お茶を淹れる」
「カモミール?」
「他に何があると思ってるの?」
「選択肢がないのは合理的じゃない」
「うるさい」
言いながら、いつものようにケトルに水を入れ、火にかける。水が温まるまでの数分間、沈黙が流れた。
沈黙を破ったのは、意外にもフィオナだった。
「学院で、どれくらい騒ぎになってる?」
レインが視線を向けた。
「何の話だ?」
「決まってるでしょう。石鹸と消毒液。それから、魔法抜きで怪我人と病人を減らしている変な子どものこと」
「変な、は余計」エリナが小さく抗議した。
「でも事実でしょ?」
レインが少しだけ口の端を動かした。笑い、なのかもしれない。
「騒ぎというほどではない。だが、治癒魔法師の一部と薬草学の講座では、ルシェムの事例が教材に使われ始めている」
「教材」
エリナがその言葉を繰り返した。
「『魔法を使わない衛生改善の試み』という題で、講義が一つできた。俺も何度か出席した。お前の名前が出た時は、教室が少しざわついた」
フィオナが興味深そうに身を乗り出した。
「ざわついたって、どんなふうに?」
「『無適性の元令嬢がそんなことを?』という驚きと、『本当にそんなことができるのか?』という懐疑と、『魔法師の仕事を取る気か?』という反発と」
「だいたい予想通りね」
フィオナが肩をすくめた。
「既得権益を脅かされると、人は騒ぐ」
「一部の若い魔法師は、興味を持っている。『魔法と知識を組み合わせれば、もっと面白いことができるのではないか』と」
エリナはケトルの湯気を見つめたまま、黙って聞いていた。
教材。
前世で、自分が学ぶ側だった時代のことを思い出した。ホワイトボードに書かれた論文のタイトル。スライドに投影された先人たちの名前。自分が今、そのスライドの端っこに入っているかもしれない、と想像すると、奇妙な感覚になった。
「嫌?」
フィオナの問いかけに、エリナは瞬きした。
「何が?」
「名前だけ一人歩きして、実物を知らない人間が好き勝手に評価してる状況。嫌じゃない?」
エリナは少し考えてから、首を振った。
「嫌、ではない。気持ち悪くはあるけど」
「気持ち悪い?」
「情報が不完全なまま流れてるから。正確さが足りない。だから気持ち悪い」
「そこ?」
「そこ」
フィオナが小さく笑った。「本当に、そういうところよね」
カモミール茶を三つの湯呑みに注いだ。
フィオナは香りを嗅いで「悪くない」と言い、レインは黙って口をつけた。エリナは自分の分を手に取りながら、レインに向き直った。
「今日は、何の用?」
「二つある」
「一つ目から」
「石鹸と消毒液の追加注文」
レインが鞄から紙を取り出した。
「学院の医療棟で試験的に使った結果、一定の効果が確認された。特に手術前後の消毒に使うと、傷の化膿率が目に見えて下がった」
エリナの背筋がわずかに伸びた。
「数字は?」
「ここに」
レインが紙をテーブルに置いた。
「症例数、感染件数、日別の推移。三ヶ月分だ」
エリナは紙を引き寄せた。数字が並んでいる。前世で何度も見たタイプの表だ。エクセルではなく手書きだが、構造は同じだった。
傷の感染率が三分の二以下に下がっている。特に、手術後二日目から四日目のピークがなだらかになっている。
ちゃんと効いている。
「学院としては、このまま使用を続けたいと思っている。ただ——学院が正式に採用するとなると、魔法省の許可が必要だ。その過程で、クロヴェル侯爵の耳にも入るだろう」
フィオナがすぐに反応した。
「つまり、あなたが来た一つ目の用件は『喜ばしい報せと、面倒ごとの予告』ってわけね」
「そういう言い方もできる」
エリナは紙から目を離した。
「学院での採用は止めるべき?」
「それを決めるのはお前だ」
「レインはどう思う?」
「合理的に考えれば、採用すべきだ。救える命が増える。魔法師の負担が減る。患者の家族の負担も減る。それはこの国全体にとって利益だ」
「でもクロヴェルが動く」
「動く可能性は高い」
フィオナが唇を尖らせた。
「動くって、どの程度?」
「おそらく最初は、学院に圧力をかける。『魔法以外の手段に頼るのは王国の誇りを傷つける』とか『魔法師の職域を侵す』とか、そういった名目で」
「くだらないわね」
フィオナが吐き捨てた。
「くだらなくても、力を持っている人間が言えば現実になる」レインは淡々としていた。
「だからこそ、お前に知らせに来た」
エリナは、しばらく黙っていた。
数字を見る。学院で救われた命の数を、頭の中で具体的な顔のない人間たちに置き換える。ルシェムでのクラウス、子どもたち、グレンの手。あの延長線上にいる人たち。
それから、クロヴェルの顔を思い浮かべた。まだ一度も直接会ったことのない男の顔。ダリウスの、どこか影のある横顔。
「止めない」
自分でも驚くほど、即答だった。
フィオナが少し目を見開いた。レインは特に驚いた様子を見せなかった。
「理由を聞いてもいいか?」
「学院で救われる人間の数と、クロヴェルの不機嫌とを天秤にかけた。前者の方が重い」
フィオナが、ふっと息を漏らした。
「そういうところ、本当に好きよ」
「褒めてる?」
「褒めてる」
レインが少しだけ目を細めた。
「俺も、同じ結論だ」
「じゃあ話は早い。学院の採用は進めて。私たちはこっちでクロヴェルに備える」
「備える?」と言い、フィオナが片眉を上げた。
「どうやって?」
「それが二つ目の用件。国王陛下が、お前に会いたがっている」
部屋の空気が、わずかに変わった。
カモミールの香りも、木のきしむ音も変わっていないのに、空気の密度だけが変わったような気がした。
「……今、何て」
エリナが聞き返した。
「国王陛下が、お前に会いたがっている。ルシェムの件、ベルナでの取引、学院での成果。いくつかの報告が陛下の元に届いた。その中に、お前とアッシュフォード商会の名前がある」
「なぜレインがそれを」
「俺の師匠が、陛下直属の魔法師団にいる。その経路で聞いた」
フィオナが腕を組んだまま、低く口笛を吹いた。
「……とんでもないところまで行ったわね、あんた」
「行ったつもりはない」
エリナは小さく言った。
王都ヴァルテ。玉座の間。国王。父がかつて夢見た「魔法に頼らない国家」の話を、わずか七歳の娘がその本人に語ることになるかもしれない。
実感は、まだなかった。
「陛下は改革派だが、完全に自由なわけではない。貴族たち、とくにクロヴェルのような大貴族の圧力を受けている。その中で、平民出身の魔法師や、魔法以外の手段を持つ人間に興味を持っている」
「だから、私?」
「そうだろうと推測している」
フィオナがエリナを見た。
「行くつもり?」
「行かない選択肢はある?」
「あるにはあるけど、それはそれで不自然ね。国王の招きを断った無適性の没落令嬢、ってレッテルが付く。それはそれで面倒」
「行く。ただし、準備が必要」
「当然ね。陛下がどんな人間か、何を求めてるか、どこまで本音で話せるか。事前に情報を集める」
「それは任せよう」とレインが言った。
「俺には宮廷の情報を集めるルートがある。ただ、時間はあまりない」
「なぜ?」
「クロヴェルも、お前に手を伸ばし始めているからだ」
エリナはダリウスの顔を思い浮かべた。穏やかな笑みと、笑いと一致しない目。その奥に隠された何か。
「どの程度、動いてる?」
「学院の一部の教師に、『魔法以外の手段を過度に評価するな』という通達が出た。名指しではないが、ルシェムの事例を暗に牽制している」
「早いわね」フィオナが舌打ちした。
「でも、まだ直接じゃない。牽制の段階」
「そう。だからこそ、国王に会うタイミングは今が最適かもしれない」レインが続けた。「クロヴェルが完全に動き始める前に、陛下とのパイプを作る」
エリナはゆっくりと息を吸った。
父が夢見た場所。
玉座の間。王と直接話せる場所。
そこに、七歳の自分が行こうとしている。
怖くないと言えば嘘になる。でも——
「行く」
やはり、即答だった。
フィオナが小さく笑った。
「と思った」
「怖くないのか」レインが聞いた。
「怖い」
エリナは正直に言った。
「でも、怖くても行くしかない場所ってある」
レインの目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「……そういうところも、変わらないな」
「前にも言った?」
「似たことを」
フィオナが二人を見比べて、わざとらしく咳払いした。
「はいはい、真面目な話は一旦ここまで」
「どこが真面目じゃないの」
エリナが眉をひそめた。
「空気が固くなりすぎてるのよ」
フィオナが肩をすくめた。
「それに——レイン、あなた一つ勘違いしてる」
「何を?」
「この子、怖い怖い言いながら、怖いことを選ぶタイプだから。『無理をするな』って言っても無駄よ」
レインがエリナを見た。
「……知っている」
「じゃあなぜまた来たの?」
フィオナがニヤリと笑った。
「合理的に考えれば、情報だけ誰かに託してもよかった。わざわざ自分で来た理由は?」
レインが少し黙った。
沈黙が、また落ちた。
エリナは、なぜか少しだけ胸がざわついた。答えを聞きたくて、でも聞きたくなくて、そんな矛盾した感情が一瞬で駆け巡った。
レインはやがて、いつもの平坦な声で言った。
「情報の伝達は、誤差が少ない方がいい」
「……それだけ?」
「それだけだ」
フィオナが肩を落とした。
「はい出ました、合理的言い訳」
エリナは、なぜか少しだけほっとした自分に気づいて、内心で首を振った。
何に安心してるの。意味がわからない。
その夜、三人は遅くまで机を囲んだ。
王都への旅程、いつ出発するか、誰を連れて行くか。留守の間の商会の運営体制。クロヴェルがどのタイミングでどんな手を打ってくるかの予測。
フィオナが宮廷と貴族社会の情報を並べ、レインが学院と魔法省の内部事情を補足し、エリナがそれを整理して行動計画に落とし込む。
気づけば、外はすっかり暗くなっていた。
マリオが途中から帰ってきて、「難しい話してるなぁ」と頭を掻きつつ、お茶を運んだ。ルナは隅っこで静かに薬草を仕分けしながら、時々こちらを見ていた。
不思議な夜だった。
ルシェムの小さな長屋の一室で、王都の政治と魔法省の思惑と、国全体の衛生政策の話が同時に進んでいる。その中心に、自分がいる。
現実感は、やはり薄かった。
でも——
机の向こう側にいるレインとフィオナの顔を見ていると、不思議と「できないこと」より「できること」が先に浮かんだ。
一人じゃない。
その実感が、怖さを少しずつ上書きしていく。
夜も更けて、話が一段落した頃。
レインが立ち上がった。
「今日はここまでだ。宿に戻る」
「泊まっていけば――」
エリナが言いかけて、フィオナと目が合った。フィオナが微妙にニヤついた顔をしていたので、咄嗟に言葉を飲み込んだ。
「……宿は取ってあるの?」
「取っていない」
「じゃあ泊まっていけば?」
フィオナが代わりに言った。
「どうせまたここに来るんでしょうし」
「そうだろうな」
レインが素直に頷いたのが、なぜか少しおかしかった。
その夜、レインは再びエリナの家に泊まった。
前回と違うのは、フィオナも隣室に残っていたことだ。三人で遅くまで資料を広げていたせいで、寝る時間がずれ込んだ。
寝床に入る前、エリナはふと窓の外を見た。
いつの間にか、雨が降り始めていた。
遅れてやってきた、レインの雨。
やっぱり、あなたは雨と一緒に来る。
そんなことを一瞬だけ思って、すぐに首を振った。
意味のない相関関係に意味を見出すのは、合理的じゃない。
そう自分に言い聞かせながら、布団をかぶった。
でも耳は、屋根を打つ雨音を数えていた。
いつの間にか、眠りに落ちていた。
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