13話 クロヴェルを斬る言葉
国王に会う話が決まった翌日、フィオナは「今日の午後、時間ある?」とだけ言って、珍しく一人で事務室に残った。
エリナは午前中の仕事——石鹸の出荷確認と、ベルナ向けの在庫調整、それからルナの薬草仕分けのチェック——を片付けてから、昼食を早めに済ませた。
午後、事務室に入ると、フィオナが既に机の上に何枚もの板と紙を広げていた。
板には、炭で書かれた名前と線。紙には簡単な地図と、いくつかの数字。
「座って」
フィオナが顎で向かいの椅子を示した。いつもより声が少しだけ低い。
「今日、話すって言ってたクロヴェルのこと?」
「ええ。どうせ国王に会う前に、どこかで一度は全部整理しなきゃいけなかったから」
エリナは椅子に座り、机の上の板を見た。
中央に大きく『クロヴェル侯爵』。そこから何本も線が伸びている。魔法省、財務省、商人ギルド、王立魔法学院、地方領主たちの名前。
フィオナが一本一本、指でなぞった。
「じゃ、始めましょうか。——私が知っているクロヴェル家の話を、全部」
「まず、私の家から」
フィオナは自分の名前を書いた小さな板を指先で軽く叩いた。
「クロスベル男爵家。今は没落済み」
「二年前、事業失敗で没落したって言ってた」
「表向きはね」
フィオナが皮肉っぽく笑った。
「でも、内情は少し違う」
「聞かせて」
「父は元々、地方の小さな港町を任されてた。クロスベル領は船の寄港地で、商人との付き合いが多かった。父はそこで、魔法に頼らない運送の仕組み——馬車と小舟を組み合わせた物流網——を考えて、実際に動かし始めた」
エリナの頭の中で、すぐに構図が浮かんだ。
「既存の魔法輸送と競合した」
「そう」
フィオナが頷く。
「王都と各地方を結ぶ主要な早馬便や魔法通信網は、ほとんどがクロヴェル家とその取り巻きの貴族の管理下にある。うちの父のやろうとしたことは、それに穴を開ける可能性があった。だから——潰された」
フィオナの声は淡々としていた。
「最初は税の査察が来た。次に、取引先の商人に『クロスベルと組むなら、うちとの契約は切る』って圧力がかかった。それでも粘ってたら、今度は借入金の返済期限が一方的に前倒しにされた」
「借金?」
「事業を広げるための資金よ。父は計画的に借りてた。でも貸し手の一部が、ある日突然『返済期限を守れないなら一括返済を求める』って言い出した。普通はそんな無茶はしない。でも——背後に、いた。魔法省と繋がっている貴族と、商人ギルドの一部。それをまとめて動かせる人間なんて、そう多くない」
フィオナが中央の名前を軽く叩いた。
「クロヴェル侯爵。直接命令したかどうかまでは知らないけど、『あの領地の試みは目障りだ』と言ったのは確か」
エリナは指先に力が入るのを自覚した。机の縁を握る手が、少し白くなる。
「父は、借り換え交渉をしようとした。でも相手にされなかった。最終的に、爵位を返上して資産を手放す代わりに、刑事罰だけは免れた。——形式上は『事業の失敗による自滅』。実態は、じわじわと首を絞められて選択肢を奪われた結果」
フィオナの目が、一瞬だけ揺れた。すぐに元の鋭さに戻る。
「それが、私とクロヴェルの最初の接点」
「直接会ったことは?」
「一度だけ」
フィオナが視線を少し宙に泳がせた。
「爵位返上の書類に父が署名する時、立ち会い人として来てた」
「どんな人だった?」
「完璧な貴族、って感じ」
フィオナが唇を歪めた。
「穏やかで、礼儀正しくて、言葉選びも丁寧。それでいて、一言一言が、相手の逃げ道を塞ぐように計算されてる」
エリナはダリウスの笑顔を思い出した。穏やかで、礼儀正しくて、それでもどこかぎこちない目。
「父に、『あなたの努力は理解している』って言ったの。『しかし、王国の秩序を守るためには、一定の線引きが必要だ』って。——わかる?」
「『理解している』と言いながら、切り捨てる言い方」
「そう。理解してるって言葉ほど、相手を突き放す道具はないわ」
フィオナの声に、かすかな怒りが滲んだ。
「その目を見て、ああ、この人は父の何も見てないんだなってわかった」
エリナは黙って聞いていた。
理解している、か。
その言葉の軽さと重さを、前世でも何度も見てきた。
「で、本題はここから」
フィオナは指で板の別の部分を叩いた。
「クロヴェル家の『力の源』の話」
中央の『クロヴェル侯爵』から伸びる線の一本に、『魔法省 副長官』と書かれている。
「魔法省は名目上、魔法師の登録と任用を管理する役所。でも実態は『魔法に関わるあらゆる利権を束ねるところ』。軍の魔法部隊、王都の結界維持、王宮の防御、魔法研究への資金配分——全部、ここを通る」
「そこに、クロヴェルがいる」
「副長官という肩書き以上の影響力よ。現長官は高齢で、実務はほとんどクロヴェルが仕切ってる。つまり、この国の『魔法』に関する実権の多くを握ってるってこと」
「魔法省の中にも派閥がある?」
「もちろん。大きく三つ」
フィオナは別の板を取り出し、三つの円を書いて繋いだ。
「一つ目が、クロヴェルを中心とした『貴族派』。魔法は貴族の特権であるべき、って考え方。二つ目が『実務派』。魔法の有効活用を重視して、階級より成果を見る人たち。レインの師匠は多分こっち。三つ目が『研究派』。新しい魔法理論や応用技術に興味がある学者タイプ」
「エリナは、どこから見ても嫌われそうね」
フィオナが自分で言って、自分で笑った。
「魔法を使わずに結果を出してるから、貴族派から見れば目障り。実務派から見れば利用価値はあるけど、扱いが難しい。研究派から見れば興味深いけど、自分たちの領分を侵されそう」
「つまり、誰にとっても『無視できない存在』になりつつある」
「そういうこと」
エリナは、静かに息を吐いた。
無視されない、というのは、必ずしも良いことではない。
注目は、保護にもなるが、標的にもなる。
「クロヴェルが最近、明確に動いたのは三つ」
フィオナは一本指を立てた。
「一つ目。学院への通達。レインが言ってた『魔法以外の手段を過度に評価するな』ってやつ。これは、治癒魔法師と薬草学講座に特に強く出てる。石鹸と消毒液の位置づけを、あくまで『補助』に押さえつけようとしてる」
「魔法の優位を守りたい」
「そう。二つ目」
フィオナは別の線を叩いた。
「商人ギルドの一部に、『アッシュフォード商会への融資条件を厳しくしろ』って圧力がかかってる。具体的には、『土地を担保にしない限り大口の融資はするな』って」
「まだ、うちは大口の融資を受けてない」
「だから事前牽制よ。あなたが今後、規模を一気に広げようとした時に、『土地を担保にしろ』って言われる可能性が高い。それを飲めば、アッシュフォード商会と、あなたの家族全員の生活基盤をギルド経由で握られる」
エリナは、自分の胸のあたりをぎゅっと掴んだような感覚を覚えた。
母の住む長屋。マリオの家。ルナの居場所。
それらが見えない鎖で繋がれる未来図。
「三つ目」
フィオナの声が少し低くなった。
「これは、半分は噂。でも、かなり信憑性が高い」
「聞かせて」
「クロヴェル侯爵が、次期魔法省長官の椅子を狙ってる。現長官が引退するタイミングを見計らって、自分を後継に据えるための根回しを始めてるって話」
エリナの脳裏に、レインの言葉が浮かんだ。
——最近、国王陛下との距離が開いている。
「国王は?」
「陛下は、本当は別の人間を長官にしたいらしい。平民出身で、実務派の魔法師。クロヴェルとは真逆のタイプ。でもそれをやるには、大貴族たちの反発が強すぎる」
「だから、板挟み」
「そう。そこで陛下が探しているのが、『魔法以外の力』」フィオナがエリナを指先で示した。あなたみたいな」
「じゃあ、質問」
フィオナが椅子の背にもたれた。
「クロヴェルが今後取りそうな手を、三つ挙げて」
いきなりの問いかけだったが、エリナの頭はすでに動いていた。
「一つ目、情報操作。私とアッシュフォード商会に関する噂を流して、『危険な思想を持った無謀な子ども』って印象を広める」
「具体的には?」
「『魔法を否定している』『貴族社会を壊そうとしている』『危険な薬をばらまいている』とか。治癒魔法師の仕事を奪うって話もその一つ」
「正解。二つ目は?」
「経済的圧迫。今言ってた融資条件の話。あと、取引先への圧力。ロッソ商会に『アッシュフォード商会と取引を続けるなら、別の利権を渡さない』ってやる可能性もある」
「三つ目」
「……直接的な妨害。商会の倉庫を急な検査で止めるとか、運送路に嫌がらせをするとか、最悪は事故に見せかけてこちらの人間を——」
そこで、エリナは言葉を切った。
フィオナが静かに頷いた。
「だからこそ、こっちの『手札』も整理する必要があるのよ」
フィオナは板の別の部分を叩いた。
「クロヴェルに対抗するための材料は、大きく四つ」
一本指。
「一つ目。数字。ルシェムと学院での成果データ。『魔法以外の手段』が、どれだけ人を救っているかの証拠。これは、誰が見ても否定しにくい」
二本目の指。
「二つ目。世論。町の人たち、商人たち、平民出身の魔法師たち。『石鹸と薬が役に立っている』って実感を持つ人間が増えれば増えるほど、クロヴェルが公然とそれを潰しにくくなる」
三本目の指。
「三つ目。国王陛下とのパイプ。これはこれから作るところ。陛下があなたの価値を直接理解してくれれば、クロヴェルが動いた時に『待った』をかけられる可能性がある」
四本目の指。
「四つ目。——ダリウス・クロヴェル」
エリナの目がわずかに見開かれた。
「ダリウス?」
「会ったでしょう。あの男の目を見て、どう思った?」
エリナは机を見つめた。
「……完全な悪人には見えなかった」
「そう」
フィオナが頷く。
「あの人は、父親と同じやり方をしてるけど、同じものを見てるわけじゃない」
「どういう意味?」
「彼は、父親のやり方に疑問を持ってる。でも家と立場がそれを許さない。そういう目だった」
フィオナが少しだけ視線を落とした。
「私の家が爵位を返上する時も、彼は立ち会いに来てた」
「その時に、何か——」
「彼は、何も言わなかった。父親の横に立って、黙って書類を見てた。それが逆に印象に残ったのよ。何も言わない目って、あるでしょう」
エリナはレインの目を思い出した。あの無表情な目の奥にある、静かな何か。それとは少し違う種類の何も言わない目。
「ダリウスは、父親になりきれない」
フィオナが続けた。
「でも、今は父親の側に立たざるを得ない。そういう人間は、どこかで揺らぐ。——その揺らぎを、利用できる可能性がある」
「味方につける?」
「そこまではいかなくても、『完全な敵』にはさせない。情報を流してもらうとか、動きを遅らせてもらうとか。クロヴェル家の中に、一本だけでもこちら側に揺れている線を作れたら、大きい」
エリナは黙って考えた。
「でも——危険でもある」
「もちろん」
フィオナがあっさり認めた。
「感情に流されて近づけば、逆に利用されるリスクもある。だから、私が見る」
「フィオナが?」
「情報戦と感情戦は、私の担当。あなたは数字と戦略に集中すればいい」
その言い方が妙に頼もしくて、エリナは少しだけ肩の力が抜けた。
「最後に、父上の話」
フィオナの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「アッシュフォード侯爵のこと」
エリナの背筋が、無意識に伸びた。
「知ってること、全部教えて」
「全部は難しいけど、私が聞いた範囲でね」
フィオナは別の紙を取り出した。
「父がよく話してたの。『アッシュフォード侯爵がこんな提案をしていた』『もしあの人の案が通っていたら、うちの領地も違っていたかもしれない』って」
「父の……案?」
「『魔法に頼らない国家運営』。魔法省の権限を削って、省庁間のバランスを取り直す案」
フィオナが図を描いた。
「軍の一部を平民志願制にして、魔法だけじゃなく戦術と兵站で戦える部隊を作る案。税制を見直して、魔法貴族の特権税を削る案」
「それって——」
「今あなたがやろうとしてることの、国家レベル版よ」
フィオナが笑った。
「父はよく言ってた。『アッシュフォード侯爵は、魔法に頼りきったこの国の膝に、そっと楔を打ち込もうとしている』って」
エリナの喉の奥が、きゅっと詰まるのを感じた。
「でも、その案は通らなかった」
「当然ね。クロヴェルを筆頭に、貴族派が総出で潰した。『魔法の権威を傷つける』『王国の伝統に反する』って大騒ぎして」
「父は——どうしてそこまで」
「理由までは知らない。でも、多分——」
フィオナがエリナを見た。
「あなたと同じものを見てたからじゃない?」
エリナは、机の上の板を見つめた。
魔法省、商人ギルド、王立魔法学院、貴族派、実務派、国王。そこに一本だけ、アッシュフォードの名が線でつながれていた。
父は一人で、この図を相手にしていた。
今は、自分がそれを継ごうとしている。
でも——自分は一人ではない。
フィオナがいて、ゴードンがいて、マリオがいて、ルナがいて。レインがいる。
それが、父との一番大きな違いだ。
「……ありがとう」
気づけば、エリナの口からその言葉がこぼれていた。
「何に?」
「全部。クロヴェルのことも、父のことも」
「礼を言うのはまだ早いわよ」
フィオナが肩をすくめた。
「これから本番なんだから」
「本番?」
「国王陛下に会う日。その時に、今日整理したこの図を頭の中に入れた状態で話せるかどうか。それが最初の山場」
フィオナは炭を持ち、板の端に小さく書き加えた。
『国王謁見 準備中』
「あと——」
フィオナが少しだけ悪戯っぽく笑った。
「ダリウスと再会した時に、感情で殴りかからないようにね」
「殴らない」
「言葉で、よ」
「それは……」
エリナは少し黙った。
「保証できない」
「正直ね」
フィオナが笑った。
エリナも、ほんの少しだけ、笑った。
その夜、エリナは一人で板の図を見つめていた。
魔法に支配されたこの国の構造が、一本一本の線で可視化されている。クロヴェルの影。その影の中に、父の名前と、自分の名前。
怖い。
正直にそう思った。
でも——
面白い。
そうも思っている自分に気づいた。
知識と線で世界を組み替える作業は、前世でやっていた「システム設計」にどこか似ていた。複雑なものを分解して、構造を見て、ボトルネックを見つけて、改善の一手を打つ。
今、その相手が「国家」になっているだけだ。
「お父さん」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。
「あなたが見ていたものを、私も見てみる」
返事はない。
でも、どこかで見ていると信じたくなるくらいには、今日は少しだけ感傷的だった。
エリナ・アッシュフォード、七歳。
クロヴェルの情報は、もう『影』ではなく、具体的な線として目の前にある。
次に必要なのは、その線をどう切るか——あるいは、どう結び直すか、だ。
ランプを吹き消す前に、エリナはもう一度だけ板を見た。
中央の『クロヴェル侯爵』の下に、小さく『ダリウス』と書き足した。
その右隣に、ごく小さく。
「揺らぎ 利用可?」
と書いて、すぐに指でこすって消した。
まだ、言葉にするには早い。
でも、いつか——必ず使う。
その確信だけを胸に、エリナは灯りを消した。
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