14話 王都への道、そして玉座の影
王都ヴァルテへの道は、思っていたより遠く、そして近かった。
物理的な距離としては、馬車で二日。宿場町で一泊し、翌日の夕方には城壁が見えるという。だがエリナにとって、その道のりは単なる移動以上の意味を持っていた。
父が仕え、夢を見て、そして失脚した場所へ向かう道。
クロヴェル侯爵が権勢を振るう宮廷のある場所。
国王がいる場所。
七歳の体には少し大きすぎる荷物のような気もしたが、それでも足取りは軽かった。
出発の朝、ルシェムの空は快晴だった。
長屋の前に、ハンスが用意した頑丈な荷馬車が停まっている。屋根付きで、座席が二列。荷台の一部にはサンプル品と最低限の荷物が積まれていた。
「本当に行くのね」
セレーナが、少し潤んだ目でエリナのマントを直していた。
薄い茶色のマントの留め具を留めながら、指がわずかに震えている。
「行ってくる。必ず戻る」
エリナは短く答えた。言葉を増やすと、こちらまで揺らぎそうだったから。
今回、王都へ行くのは四人だ。
エリナ。 フィオナ。 ゴードン。 そしてレイン。
マリオとルナはルシェムに残る。商会の現場を回し、出荷と採取を続ける。マリオは最後まで「俺も行く」と言っていたが、ゴードンに「留守を任せられるのはお前だけだ」と言われて渋々引き下がった。
ルナはといえば、いつも通り無表情で、しかしエリナに薬草入りの小さな布袋を渡してきた。
「旅先で、風邪」
「ありがとう。飲み薬?」
「うん」
それだけ言って、すぐに視線を落とした。猫が足元にすり寄っている。
「ルシェムのことは任せろよ」
マリオが拳を突き出した。エリナはその拳に自分の拳を軽く合わせた。
「頼んだ」
「任しとけ」
短いやり取りに、言葉以上のものが詰まっていた。
馬車の御者台には、ゴードンが座った。
意外にも彼は馬の扱いがうまかった。若い頃に地方を回っていたことがあるらしい。
馬車の中、向かい合って座るのはエリナとフィオナ、そしてレインだ。
「なんか、妙な組み合わせね」
馬車がルシェムを離れ、街道に出たところでフィオナが言った。
「どこが?」
「無適性の没落令嬢と、没落男爵家の毒舌令嬢と、平民上がりの天才魔法使い」
フィオナが指を折る。
「そこに、冤罪会計士の御者付き。物語でも書けそう」
「書かれてるかも」
エリナが返した。
「どこに?」
「どこかの誰かが」
フィオナが笑い、レインが少し首を傾げた。
「何の話だ」
「気にしないで」
フィオナが流す。
「で、レイン。王都までの道で何か気をつけることは?」
「治安は悪くない。ただ……」
レインが少し考えるように視線を上げた。
「王都に近づくほど、監視の目は増える」
「監視?」
「魔法省と王宮の目だ」
レインが淡々と言った。
「誰が出入りしているか。どの商会がどんな荷を運んでいるか。すべて記録される」
「アッシュフォード商会も、当然チェックされるわね」
フィオナが頷く。
「名前だけで目を引くもの」
「名前、変えた方がよかった?」
エリナが聞く。
「変えたら変えたで不自然よ」
フィオナが即答した。
「今さら偽名を使っても、遅かれ早かれバレる。だったら堂々と使った方がいい」
「同意する」
レインも頷いた。
「中途半端な隠し方は、かえって危険だ」
エリナは窓の外を見た。
道が続いている。遠くの地平線まで。
父はこの道をどんな気持ちで通ったのだろう。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ締め付けられた。
でも、その隣には——
今の私は、一人じゃない。
その実感が確かにある。
一日目は順調だった。
途中の宿場町で馬を休め、簡素な宿に泊まった。ゴードンは帳簿を開き、フィオナは酒場でさりげなく情報を集め、レインは静かに部屋の隅で魔術書を読んでいた。
エリナは、宿の窓から外を眺めていた。
夜空は、ルシェムと同じように星が出ている。
違うのは、自分のいる場所だけ。
そう思うと、不思議な感覚だった。場所が変わっても、やることは同じ。情報を集め、整理し、次の一手を考える。それはルシェムの長屋でも、王都近くの宿でも、本質的には変わらない。
「眠れない?」
背中から声がした。フィオナだった。
「少し」
「緊張?」
「してないと言ったら嘘になる」
「でしょうね」
フィオナが窓際に来て、同じように外を見た。
「でも、あなたの緊張って普通の人とは違う気がする」
「どう違うの」
「怖いから足がすくむ、じゃなくて、怖さを観察して分類している感じ」フィオナが肩をすくめた。「『これは恐怖A、これは不安B』とか、頭の中でラベル貼ってそう」
「……してない」
「ちょっとはしてるでしょう?」
図星を刺された気がして、エリナは少しだけ目を逸らした。
「あなたは?」と聞き返す。
「私?」
フィオナが笑った。
「私はとっくに腹を括ってるわよ。クロヴェルって名前を聞いた時からね」
「復讐?」
「それもある。でもそれだけじゃない」
フィオナが窓枠にもたれた。
「あなたがここまでやってきたのを見て、『これは面白い賭けになる』って思ったのよ」
「賭け?」
「そう。魔法貴族社会に、知識と商いで楔を打ち込めるかどうかの賭け。負けたら私たちは吹き飛ぶ。でも——」
「勝つ」
「そう。勝ったら、この国は少しだけマシになる」
フィオナが横目でエリナを見た。
「あなたのお父さんが見たかった景色に、ちょっとは近づけるかもしれない」
エリナは答えなかった。
代わりに、窓の外の星をもう一度見た。
賭け。
合理主義者の自分は、本来は賭けを嫌うはずだ。確率の低い勝負は避ける方がリスクが少ない。
でも、避けて通れない賭けもある。
それが、今、自分が向かっているものなのだろう。
二日目の午後、王都ヴァルテの城壁が見えてきた。
遠くからでもわかるほど巨大な石の壁。高くそびえ立つ塔。城壁の向こうに、さらに高く王城の塔が突き出ている。
エリナは馬車の窓に手をついて、その光景を見た。
「……大きい」
自分の声が少し震えているのがわかった。
フィオナが隣で笑った。
「最初は誰でもそう言うわよ。私も最初は圧倒されたもの」
「今は?」
「今は、『壊すにはどこが脆いか』しか考えない」
「物騒」
「比喩よ、比喩」
フィオナが肩をすくめた。
「でも、あながち間違いでもない。どんな大きな城壁も、必ずどこかに綻びがある。あなたのお父さんは、それを見つけようとしてたんでしょうね」
レインが窓の外を一瞥した。
「ヴァルテの城壁は、物理的な防御であると同時に、象徴だ。『この国は堅固である』というメッセージ。その象徴に、楔を打とうとしているお前たちは——」
「反逆者?」
「改革者だろう」レインが淡々と訂正した。「少なくとも、陛下はそう見ている」
エリナは、城壁から目を離した。
国王。
まだ会ったことのない人物。その人の目に、自分がどう映るのか。
それを考えると、少しだけ指先が汗ばむのを感じた。
王都の門の前には、長い列ができていた。
荷馬車、旅人、商人、貴族の馬車。身分によって列の位置が違う。貴族の馬車は優先レーンを通り、一般の商人や平民は列を作って順番を待つ。
ゴードンが書類を確認しながら、エリナに言った。
「アッシュフォード商会としての登録証と、王宮からの呼び出し状。これがあれば、入門検査は簡略化されるはずです」
「私たちが呼ばれてるって、門番は知ってる?」
「書状にはその旨が書かれてます。問題は——」
「問題は?」
「門番たちがそれをどこまで理解しているか、ですね」
ゴードンが苦笑した。
「上からの通達が現場に伝わる速度は、どこの世界でもあまり変わらない」
「最悪の場合は?」
「少し言い争いになるかもしれません」
「その時は、私が出る」
フィオナが前に出た。
「口喧嘩なら任せて」
「頼もしい」
エリナが言った。
御者台のゴードンが笑った。
列は思ったより早く進んだ。
門の間近まで来ると、鎧姿の兵士と、簡素なローブを着た書記官が待っていた。書記官の腰には、魔法省の紋章がついた小さなプレートが下がっている。初級魔法師だろう。
「身分と目的を」
書記官が事務的な声で言った。
「アッシュフォード商会です」
ゴードンが答えた。
「こちらが代表者のゴードン・ハース。そして——」
エリナが前に出て、一歩進んだ。
「実務責任者、エリナ・アッシュフォードです」
書記官の目が、一瞬だけ大きく開いた。
「アッシュフォード……侯爵家の?」
「元侯爵家の娘です」
書記官が慌てて手元の書類をめくった。ゴードンが冷静に、王宮からの呼び出し状を差し出す。
「本日、国王陛下への謁見のために参上しました。書状をご確認ください」
書記官が封蝋を確かめ、内容を読み、そして顔色を変えた。
「こ、これは……!」
兵士たちがざわめいた。「王宮からの直々の呼び出しだと?」「この子どもが?」
フィオナが横目でそれを見て、小さく笑った。
「目立つわね、やっぱり」
「目立つでしょうね」
エリナが小さく息を吐いた。
「でも、今さら引き返せない」
書記官が慌てて姿勢を正した。
「失礼しました。アッシュフォード商会一行、入門を許可します! 王宮への案内役を手配しますので、門の内側でお待ちください!」
兵士たちが道を開けた。馬車が城門をくぐる。
石造りの巨大なアーチを通り抜けた瞬間、エリナは無意識に息を詰めた。
これが、父が何度も通った門。
そう思うと、喉の奥が熱くなる。
でも、涙は出なかった。
泣いている暇は、まだない。
王都の中は、ルシェムやベルナとはまるで別世界だった。
石畳の道が碁盤の目のように広がり、両側には二階建て、三階建ての店や屋敷が並ぶ。人の数が多い。商人、職人、貴族、兵士、魔法師。魔法の光を使った看板がところどころに浮かび、荷車や馬車が絶え間なく行き交っている。
エリナは馬車の窓から、その光景を食い入るように見た。
「すごい……」
「圧倒されるわよね」
フィオナが頷いた。
「でも、よく見て」
「何を?」
「石畳の継ぎ目。水路の位置。建物の高さのバランス。人の流れ」
フィオナが指先で窓の外を示した。
「この街は、見かけほど合理的じゃない」
「……たしかに」
エリナはすぐにそれを理解した。
一部の通りにだけ人が集中し、別の通りは妙に空いている。排水溝の位置が悪く、雨が降ればすぐに水たまりができそうな箇所。建物の影が無駄に重なり、昼でも薄暗い路地。
「ここも、改善の余地だらけ」
「そういう顔してる」
フィオナが笑った。
「どんな顔?」
「『直したい』って顔」
「直したい」
「やっぱり」
レインが横から口を挟んだ。
「魔法で補っている部分が多いから、設計が甘くても回っているだけだ」
「それが問題」
エリナが言った。
「魔法がなければ、すぐに破綻する構造」
「だからこそ、お前のような存在に陛下が興味を持った。魔法なしでも回る構造を作れるかどうか。——それを確かめたいはずだ」
王宮へ続く坂道を登ると、空が近くなった気がした。
白い石で築かれた高い塀。その向こうに、王城の塔がそびえ立つ。門の前には、王宮騎士団の兵士たちが整列していた。鎧は銀色に輝き、胸当てには王家の紋章が刻まれている。
さっきの書記官とは違い、ここで待っていたのは、青いマントを羽織った一人の男だった。
まだ若い。二十代半ばくらい。整った顔立ちに、柔らかな目。だがその眼差しの奥には、鋭い観察力が潜んでいる。
「お待ちしておりました。アッシュフォード商会の皆様ですね」
「はい」
ゴードンが答えた。
男はエリナに視線を向け、静かに一礼した。
「国王陛下の命により、ご案内を務めます。アルバ・ヴァルデリアと申します」
その名前に、エリナは一瞬だけ目を見開いた。
「第二王子……?」
「肩書きはそうですが、今日はただの案内役です」
アルバが微笑んだ。
「どうぞ、緊張なさらずに」
フィオナが小声で耳打ちした。
「緊張するなって言われて、緊張しない人間がどこにいるのよ」
「ここには一人いるかもしれない」
レインがぼそりと言った。
「誰のこと?」
「……さあな」
エリナはそのやり取りを半分だけ聞きながら、アルバを見ていた。
王子という肩書きに似合わないほど柔らかい雰囲気。でも、その柔らかさに油断させられると危ない、と直感が告げていた。
この人も、レインと同じ種類の目をしている。
そう思った。
何でもないように笑いながら、すべてをよく見ている目。
アルバが歩き出した。エリナたちも、その後をついていく。
王宮の中庭を抜け、大理石の階段を上り、豪奢な廊下を進む。
壁には歴代国王の肖像画。天井には魔法で灯された光の装飾。床には分厚い絨毯が敷かれている。
アルバが、歩きながら言った。
「陛下は、あなたのことをとても興味深く思っておられます」
「私の、こと?」
「ええ。魔法を持たないのに、魔法と同じかそれ以上の成果を出している少女。没落した侯爵家の娘でありながら、アッシュフォードの名を捨てない商会主」
アルバが振り返った。
「そして——父上の旧友の娘」
エリナの心臓が、一瞬止まったような感覚になった。
「……父と、面識が?」
「ありますよ」
アルバが微笑んだ。
「子どもの頃、よく膝に乗せてもらいました。難しい話を、わかりやすく図にして見せてくれる人でした」
エリナは言葉を失った。
父が、王子を膝に。
想像もしていなかった光景だ。
フィオナが横目でエリナを見た。その視線には、「だから言ったでしょう」という色があった。
「父上は、アッシュフォード侯爵の案を高く評価していた」
とアルバが続けた。
「魔法に頼らない軍制、税制の見直し、魔法省の権限再編。もしあの案が通っていたら、この国は今とは違っていただろうと」
「でも、通らなかった」
「ええ」
アルバが短く答えた。
「その理由の一つが、これからあなたが対峙する相手です」
クロヴェル。
その名前を、アルバはあえて口に出さなかった。
だが、エリナにはわかった。
「着きました」
アルバが立ち止まった。
目の前には、大きな扉がある。重厚な木製の扉に、金色の装飾が施されている。両側には王宮騎士が二人ずつ立っていた。
ここが——
玉座の間。
父が、夢を語り、そして切り捨てられた場所。
エリナの手に、うっすらと汗が滲んだ。
アルバが振り返った。
「この先では、言葉一つが重くなります。ですが——」
その目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「あなたはきっと、大丈夫だと私は思っています」
「根拠は?」
気づいたら、口が動いていた。
アルバが少し意外そうに目を瞬いたが、すぐに笑った。
「ルシェムとベルナと学院で、あなたがやってきたこと。それを見れば十分です」
フィオナが小さく笑った。
「王子様に太鼓判を押されたわね」
「太鼓判の意味が違う気がする」
エリナが小声で返した。
レインは、何も言わなかった。ただ、その目がいつもより少しだけ真剣だった。
「行こう」
エリナは小さく息を吸って、扉を見た。
逃げ道は、とっくに捨てている。
お父さん。
心の中で、短く呼びかける。
——見ていて。
扉が、ゆっくりと開き始めた。
光が、差し込んできた。
七歳の没落令嬢が、父の夢の続きを求めて、玉座の影へと歩み出す瞬間だった。
読んでいただきありがとうございます。
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