15話 玉座の前で、七歳は何を語る
玉座の間は、思っていたより静かだった。
もっと人がいて、ざわめきがあって、豪華絢爛な音楽が流れているのかと思っていた。だが現実は違った。高い天井に反響するのは、歩く音と衣擦れの気配だけ。
赤い絨毯が、まっすぐ玉座へと伸びている。
左右には、重厚な柱が等間隔に並び、その間に王家と歴代の英雄たちのタペストリーが掛けられている。光は高窓から差し込み、床の大理石をほのかに照らしていた。
そして、その最奥。
ひとつだけ高く据えられた椅子。
国王の椅子。
そこに座る人物を、エリナは見た。
ヴァルデリア国王——ラオネル・ヴァルデリア三世。
四十代半ばほどだろうか。鋭さよりも、どこか疲れを帯びた穏やかな目をしている。だが、穏やかさが弱さでないことは、向き合った瞬間にわかった。
人をよく見ている目だ。
玉座の右側には、王宮魔法師団の長と思しき老人が立ち、左側には数人の高官たちが控えている。その中に、見慣れた紋章をつけた男の姿があった。
クロヴェル侯爵。
エリナは、その視線を一瞬だけ感じた。冷たい、というより無色の目。対象を評価し、分類し、その上で切り捨てる目。
見ている。
でも、今はそちらを見返さない。
エリナは絨毯の上を歩いた。両脇をフィオナとレインが固め、少し後ろにゴードンが続く。途中でアルバが横に退き、一行を見守る位置に移動した。
決められた位置まで進み、エリナは跪いた。
「アッシュフォード商会、実務責任者——エリナ・アッシュフォードにございます。陛下のお召しにより、参上いたしました」
声は震えなかった。
震えさせないように、喉と舌の動きを意識した。
沈黙が、一拍。
そして、国王の声が降ってきた。
「顔を上げなさい、エリナ・アッシュフォード」
落ち着いた、低い声だった。
エリナはゆっくりと顔を上げた。
国王ラオネルの目が、真っ直ぐこちらを見ていた。
その目に、敵意はなかった。好奇と、慎重さと、わずかな期待。
「遠路、よく来てくれた」
ラオネルが言った。
「王都までは長い道のりであったろう」
「はい。しかし、道中は安全でございました」
形式的な挨拶が交わされる。
その間、エリナは視線を下げすぎないように注意しながら、玉座の周囲を観察した。
国王の隣には、白髪の老人——王宮魔法師団長。その後ろに、レインが『実務派』と呼んでいた派閥の象徴と思しき魔法師たち。
左側には、財務省と魔法省の高官が並ぶ。その中に、クロヴェル侯爵がいる。完璧な姿勢と、完璧な表情。
そして、背後の柱の陰には、何人かの侍従と書記官。細かな反応を記録する役割だろう。
一つの会議体として見ると、この場は奇妙な構造をしている。
国王は頂点に座っているが、両側に強い利害を持つ勢力が控えている。その間に、自分は今、立っている。
「そなたのことは、いくつか報告を受けておる。ルシェムでの石鹸と薬草薬の普及、ベルナでの商売、王立魔法学院での消毒液の効果。魔法を持たぬ身でありながら、よくここまでやってきた」
「過分なお言葉、身に余ります」
「過分とは思わぬがな」
ラオネルが口元をわずかに緩めた。
「年は、七つであったか」
「はい」
「そなたの父——アッシュフォード侯爵とは、何度も語り合ったことがある」
国王の視線が、少しだけ柔らかくなった。
「あの男は、面白い話をする男であった。『魔法に頼りきらぬ国を』と、何度も言っておった」
エリナの胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
やはり、ここでその話が出る。
「……父は、失脚いたしました」
「知っておる」
ラオネルの声に、わずかな苦味が混じった。
「私の力が足りなかったからな」
玉座の間の空気が、わずかに張り詰めた。
クロヴェルの気配が、遠くで静かに揺れたのを、エリナは感じた。
「さて」
ラオネルが姿勢を正した。
「エリナ・アッシュフォード」
呼ばれ、エリナも背筋を伸ばす。
「そなたに問う。——なぜ、アッシュフォードの名を捨てなかった?」
来た。
フィオナが「絶対に聞かれる」と言っていた質問だ。
エリナは、短く息を吸った。
「二つ、理由がございます」
「聞こう」
「一つ目は、父の名誉を取り戻すため」
エリナははっきりと言った。
「アッシュフォードの名は、今や『裏切り者』『横領者』といった汚名と共に語られております。その汚名を、事実に基づいて正すためには、その名を掲げ続ける必要があると考えました」
玉座の間に、さざ波のようなざわめきが走った。
「汚名」という言葉を、七歳の少女が国王の前で使ったのだ。驚くのも無理はない。
だがラオネルは、何も言わなかった。黙って続きを待っている。
「二つ目は、父が描いた『魔法に頼りきらぬ国』という構想を、別の形で証明するためです」
ラオネルの目が、細くなった。
「別の形?」
「父は、国家の制度や軍制、税制の見直しという形で提案をされました。しかし、その案は退けられました。その理由の一つは、『実例がない』ことだったと聞いております」
フィオナが、隣でわずかに息を飲む気配を見せた。
そう。ここで『実例』を出す。
「ですので私は、まず小さな単位で『実例』を作ることにいたしました」
エリナは続ける。
「一つの町、一つの商会、一つの市場。その中で、『魔法を使わずとも人々の生活を良くできる』ことを、数字と結果で示そうと考えました」
ラオネルがゆっくりと頷いた。
「ルシェムとベルナ、そして学院での成果が、それだと?」
「はい。まだ道半ばではありますが、石鹸と薬草薬により、病人の数は減り、労働力の損失も減っております。学院での消毒液の試験では、治癒魔法に頼らずとも、感染のリスクを大きく下げられることが確認されております」
エリナは、事前に用意しておいた書類をゴードンから受け取り、前に差し出した。
「ここに、その数字をまとめたものがございます」
侍従がそれを受け取り、玉座の脇に控える魔法師団長の元へ運ぶ。老人が目を細めて書類を読み始めた。
クロヴェルも、その動きをじっと見ている。
「数字は、嘘をつかぬな」
しばらくの沈黙ののち、魔法師団長がぽつりと言った。
「少なくとも、この書類に記された範囲では、効果は明白でございます、陛下」
ラオネルがエリナを見た。
「そなたは、魔法を否定しておるのか?」
その問いは、柔らかいが、鋭かった。
これを誤れば、一気に『異端者』のレッテルが貼られる。
エリナは、あらかじめ何度も頭の中で反復した言葉を、ゆっくりと口にした。
「いいえ、陛下。私は魔法を否定しておりません」
「ほう」
「魔法は、素晴らしい力です。火を灯し、水を引き、傷を癒し、この国を守っております。それは疑いようのない事実です」
玉座の間の空気が、わずかに緩んだ。
レインが横で微かに頷いたのが、視界の端に見えた。
「しかし——」
エリナは続けた。
「魔法は、全てを救えるわけではありません」
再び、空気が引き締まる。
「魔法を使える人間は限られております。魔法に必要な資源や時間も無限ではありません。治癒魔法師が全ての病人を救うことはできませんし、魔法による輸送だけで国中の物資を賄うこともできません」
エリナは一人一人の顔を見るように、視線を少しずつ動かした。
「だからこそ、魔法の届かない場所を埋める手段が必要だと考えます。それが、石鹸であり、薬草薬であり、運送の仕組みであり、商会のネットワークです」
「つまり——」
ラオネルがゆっくりと言葉を継いだ。
「魔法を『否定』するのではなく、『補う』と?」
「はい」
「魔法の特権を、貴族から奪おうとしているのではないと?」
「奪う必要はございません」
エリナは即答した。
「魔法の力が必要な場面は、これからも必ずあります。国境の防衛、魔物の討伐、大規模な災害への対応——それらは魔法の得意とするところでしょう」
クロヴェルの視線が、わずかに動いた。
「ですが、日々の暮らしを支える小さな部分、例えば毎日の手洗いであったり、軽い怪我の手当てであったり、食料の保存であったり——そういったものは、魔法でなくとも対応可能です」
エリナは一呼吸置いた。
「魔法がなくてもできることを、魔法だけに任せるのは、かえって魔法の価値を下げると考えます」
玉座の間にいた何人かが、わずかに表情を変えた。
魔法の価値を下げる、ではなく、『下げることになる』。
魔法を尊重しつつ、依存を批判する。
「魔法は、本来もっと『ここぞ』という場面に使われるべきです。そのためにも、日常の多くを『魔法以外の仕組み』で回せるようにする必要があります」
ラオネルが、深く頷いた。
「……そなたの父も、似たようなことを言っておった」
その声には、懐かしさと、少しの悔しさが滲んでいた。
そこで、横から別の声が入った。
「陛下」
クロヴェル侯爵だった。
「お言葉ながら——」
その一言だけで、玉座の間の空気が変わった。
ラオネルが視線を向ける。
「何だ、クロヴェル」
「この娘の言うことは、一理ございます」
クロヴェルは穏やかに言った。
「しかし、それはあくまで『一地方』『一商会』の話。国家の方針として取り入れるには、あまりに拙速かと存じます」
抑揚の少ない、滑らかな声。だが、その裏にある意図は明確だった。
「魔法は、この国の礎にございます。その権威を損なうような動きは、たとえ善意からのものであっても、慎重に検討されるべきでありましょう」
エリナの中に、父の失脚にまつわる数々の話と、フィオナの家の没落の記憶が一瞬で蘇った。
この声で、多くのものが切り捨てられてきた。
「拙速かどうかは、結果を見て判断すべきではございませんか、クロヴェル侯爵」
自分が話すべきかどうか、一瞬だけ迷った。
だが——
フィオナが横で、ほんのわずかに顎を引いた。
行け。
その合図だと、エリナは受け取った。
「ルシェムで、病気で倒れる子どもの数が三分の一以下に減りました」
エリナは、クロヴェルにではなく、国王に向かって言葉を継いだ。
「学院の医療棟では、消毒液の導入により術後感染が半分以下になりました。これらは、魔法なしで達成された数字です。一地方、一商会の話ではありますが、その影響は無視できない規模になりつつあります」
クロヴェルが静かにエリナを見る。
「このままの流れで行けば、魔法師たちの負担は軽くなり、彼らは『魔法でしかできないこと』に専念できるようになるでしょう。それは、魔法の価値を高めこそすれ、貶めるものではないと考えます」
ラオネルが、興味深そうにクロヴェルを見た。
「クロヴェル。そなたはどう思う?」
「……魔法師団の負担が減ること自体は、悪いことではございません」
クロヴェルが静かに答える。
「ただし、それが『魔法に頼らない方が良い』という風潮につながるのであれば、問題です」
「風潮を変えるのは、難しいことだ」
ラオネルが呟いた。
「はい。人々が『魔法がなくてもよい』と考え始めれば、いずれこの国の『魔法による抑止力』も弱まりましょう。それを危惧しております」
抑止力。
エリナは心の中で、その言葉を繰り返した。
「では、問います」
エリナは、あえて一歩前に出た。
「今、魔法を使えない人々は、どう抑止されているのでしょうか?」
玉座の間に、少しざわめきが走った。
「エリナ」フィオナが小声で制そうとしたが、エリナは止まらなかった。
「魔法は、強い力です。しかし、その魔法を使えない人々——平民や、魔素のない者たち——は、魔法によって守られながらも、魔法によって支配されてもおります」
ラオネルの目が鋭くなった。
「それを、悪いことだとは申しません。強い力が弱い者を守るのは、当然の役割ですから」
そこで、一拍置く。
「ですが、弱い者が『自分で自分を守る手段』を持つことも、また必要ではありませんか?」
フィオナが横で、息を呑んだ。
レインの目が、わずかに見開かれた。
クロヴェルの顔は変わらなかった。
「石鹸で手を洗い、薬草で傷を手当てし、商会で仕事を得て、自分の生活を自分で支える。そういう『自分でできること』が増えれば、魔法は『すべて』を支配しなくても済むようになります」
エリナは、ラオネルをまっすぐに見た。
「それは、この国にとって『危険』でしょうか。それとも——『強さ』になるでしょうか?」
玉座の間に、沈黙が落ちた。
長い、長い沈黙だった。
誰も口を開かなかった。
空気が張り詰めているのに、どこか静謐でもあった。
最初に口を開いたのは、国王ラオネルだった。
「……七つとは思えんな」
小さな苦笑が、口元に浮かんでいた。
「そなたの父も、似たようなことを申しておった。『国が強いとは、強い者が強いことではなく、弱い者が少ないことだ』とな」
エリナの胸が、熱くなった。
父が言った言葉。
直接聞いたことはない。でも、確かに彼が言いそうな言葉だ。
「クロヴェル」
ラオネルが横を向いた。
「そなたの懸念もわかる。魔法の権威が揺らげば、外敵への抑止力が弱まる可能性はある」
「はっ」
「だが同時に——民の生活が安定し、病が減り、飢えが減ることもまた、国の強さに繋がる」
「……」
「どちらか一方だけを取る、という話ではなかろう」
ラオネルがゆっくりと立ち上がった。
玉座の間にいる全員が、自然と姿勢を正した。
「エリナ・アッシュフォード」
名を呼ばれ、エリナは膝をつきかけて——やめた。
ここは、目を逸らしてはいけない場だと、本能が告げていた。
「そなたの試みを——『公式に』試してみる価値はあると、私は思っておる」
その言葉に、玉座の間の空気が激しく揺れた。
『公式に』という二文字の重さを、ここにいる誰もが理解している。
「魔法省と協議しつつ、いくつかの地方において、石鹸と薬草薬の普及を進める。その経済的・医療的効果を、王宮が直接監査する」
ラオネルは続ける。
「同時に——魔法師団にも、魔法以外の手段と連携する教育を施す。『魔法でしかできぬこと』と『魔法でなくともできること』を識別し、より効率的な運用を目指す」
それはつまり——
父が目指した『魔法に頼りきらない国』の、ごく小さな第一歩。
「クロヴェル」
ラオネルが、魔法省の副長官に視線を向けた。
「この件、魔法省としても協力せよ」
クロヴェルは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
だがすぐに、完璧な微笑を浮かべた。
「……陛下の御意のままに。魔法省としても、国の益となる試みには協力を惜しみません」
その言葉が本心かどうかは、誰にもわからない。
だが、国王の前で「反対だ」とは言わなかった。
それだけで、今は十分だった。
「エリナ・アッシュフォード」
ラオネルが再び、こちらを向いた。
「そなたに一つ、任を与える」
エリナは息を飲んだ。
「アッシュフォード商会を通じて、ルシェム、ベルナ、その周辺三町における石鹸と薬草薬の普及を、今後一年のうちにどこまで進められるか」
国王の声は、はっきりと響いた。
「その結果をもって、そなたの父の案——『魔法に頼りきらぬ国』の是非を、改めて議論する場を設けよう」
父の名が、ここで再び浮かび上がる。
「やれるか?」
問われている。
七歳の、自分に。
父が果たせなかった夢の「一次審査」を。
エリナは、迷わず答えた。
「はい。必ずやり遂げてみせます」
その声に、震えはなかった。
フィオナが横で、小さく笑った。
レインの目が、わずかに柔らかくなった。
ゴードンが背後で、静かに頷いた。
クロヴェルの視線は、読めなかった。
だが、それでいい。
これは、父の戦いの続きであり、同時に——私自身の戦いだ。
謁見は、それで一旦区切りとなった。
形式的な挨拶と礼が交わされ、一行は玉座の間を下がった。
扉が閉まる直前、エリナは振り返った。
玉座の上で、ラオネルが何かを考えるように目を閉じていた。その姿を、ほんの一瞬だけ見届けて——扉が閉じた。
外の廊下に出た瞬間、フィオナが大きく息を吐いた。
「……生きた心地がしなかった」
「あなたが?」エリナが少し驚く。
「ええ。あなたがどこまで言うのか、ヒヤヒヤしてたもの」
「言いすぎた?」
「ギリギリ。でも、そのギリギリが、あの人には刺さったみたいね」
レインが静かに言った。
「陛下は、ずっと誰かを探していたのかもしれない」
「誰か?」
「魔法に頼らぬ言葉で、魔法の外側からこの国を語れる人間を」
レインがエリナを見た。
「少なくとも、今日はそれが見えた」
アルバが近づいてきた。
「お疲れさまでした、エリナ殿」
彼の目は、どこか楽しそうだった。
「父上は、きっと今、久しぶりに『わくわくしている』と思いますよ」
「わくわく?」
「ええ。国王というのは、なかなか新しいものに出会えないものですから」
アルバが笑った。
「今日は、久々に『未知』が現れた」
エリナはどう返していいかわからず、ただ小さく会釈した。
未知。
私は、未知か。
父が見せたかった『未知の国』の、最初の小さなピースであるなら——それは、悪くない。
王宮を出て、城下へ戻る道。
エリナは、ふと空を見上げた。
青空に、白い雲が流れている。
大きなものの中に、自分が小さく立っている。
それが、今の実感だった。
でも、小さいからこそ、動きやすい場所もある。
フィオナが隣で言った。
「一年で、どこまでやれるかね」
「やれるだけ、やる」
「そういう答え方しかしないのよね、あんたは」
「それ以外に、意味のある答えはない」
レインがぽつりと言った。
「一年あれば、学院側も動かせる」
「どう動かすの?」
「魔法師たちに、『魔法以外の手段を敵ではなく味方と見る』ように仕向ける」
「そんなことできるの?」
「やる」
レインがあっさりと言った。
「お前が一年で結果を出すなら、俺は一年で考え方を変える」
フィオナが呆れたように笑った。
「本当に、変なコンビね」
「よく言われる」
エリナが返した。
「誰に?」
「マリオに」
三人の声が、王都の雑踏に紛れて消えていく。
だが、その一歩一歩が、この国のどこかに小さな波紋を広げていることを、まだこの時のエリナは知らなかった。
ただ——
父が夢見た『魔法に頼りきらない国』へのカウントダウンが、今、玉座の間で静かに始まったことだけは、確かだった。




