16話 一年の約束と、動き始めた盤面
王宮からの帰り道、足が地に着いていないような感覚が、しばらく続いた。
国王との謁見。父の名が再び玉座の前で語られたこと。一年という期限付きの「任」。魔法省、クロヴェル、学院、王宮——それらが一気に現実の輪郭を持った。
エリナは、王都の石畳を踏みしめながら、自分の足音だけを数えていた。
一、二、三、四——。
数えることで、頭の中のざわめきを整理しようとしていた。
王都での滞在は三日だけ、と決まっていた。
一日は謁見。残り二日は、情報収集と今後の段取りに使う。
王宮を出た一行は、まず王都中心部の小さな宿に入った。アルバの配慮で、比較的静かな場所が選ばれている。広くはないが、四人で一部屋を使える程度の余裕はあった。
「まずは整理ね」
宿の一室に入るなり、フィオナがテーブルに紙と炭を広げた。
「一年でやることを、全部出す。優先順位をつけて、誰が何をやるか決める」
「了解」
エリナも椅子に座り、紙の前に身を乗り出した。
レインは壁際に立って腕を組み、ゴードンは窓のそばで外を眺めながら耳を傾ける。
「一年の任務、ざっくり言うと三つ」
フィオナが指を立てる。
「一つ。ルシェムとベルナ、その周辺三町での石鹸と薬草薬の普及拡大。二つ。王宮に提出するための『数字と報告』の仕組みづくり。三つ。クロヴェルの妨害への備え」
「それぞれ、細かく分解する」
エリナが引き継いだ。
「一つ目は、単純に量を増やすだけじゃ足りない。使い方の教育、配布ルートの整備、価格の調整、在庫管理……」
「二つ目は、今までの帳簿を『王宮向けの言葉』に翻訳する作業ね」
フィオナが言う。
「単なる売上表じゃなく、『どれだけ人が助かったか』を数字で見せられる形にしないと」
「三つ目が、一番読みにくい」
エリナは少し眉をひそめた。
「クロヴェルがいつ、どの程度まで動いてくるか、見通しが立ちにくいから」
レインがそこで口を開いた。
「三つ目は、二つ目の質に依存する」
「どういう意味?」
フィオナが聞く。
「王宮に届ける『成果の数字』が明確であればあるほど、クロヴェルが公然と潰しにくくなる」レインが淡々と言う。「逆に、数字があいまいなら、『怪しげな試み』として簡単に封じ込められる」
「つまり、報告の質を上げること自体が、防御になる」
「そういうことだ」
ゴードンが窓際から振り向いた。
「その点は、私が中心になってやりましょう。商人ギルド向けの報告書と、王宮向けの報告書は書き方が違いますからね」
「お任せする」
エリナが頷く。
「私とルナとマリオは、現場側の数字と状況を渡す」
「私とレインは、王都側の『空気』を拾う」
フィオナが続けた。
「宮廷と魔法省、学院の動きを追いながら、どこまで踏み込めるか測る」
「……役割分担は、そんなところか」
エリナは紙に四つの名前を書いた。
エリナ
フィオナ
レイン
ゴードン
そこからそれぞれに矢印を伸ばし、仕事を割り振っていく。
いつもの作業だ。ルシェムの小さな長屋でやっていたことを、少し大きなスケールに拡大しているだけ。
だが、その少しの幅が、今までとは桁違いだった。
「一番の問題点は?」
作業の手を動かしながら、フィオナが聞いた。
「現時点で、私たちのリソースが明らかに足りない。人的にも、金銭的にも」
「具体的に」
「人間で言えば、現場側の中核が私、マリオ、ルナだけ。ベルナと周辺三町に本格的に広げるなら、最低でも各町に一人ずつ『現場責任者』が必要になる」
「候補はいる?」
「ルシェムで石鹸を使ってくれている人たちの中から、信頼できる人を数人ピックアップしてる。でも、まだ話はしてない」
「それを、帰ったらすぐやる必要があるわね」
フィオナがメモを取る。
「お金の方は?」
「ベルナからの取引が順調だから、当面の運転資金は足りてる。でも、在庫を一気に増やすとなると、今の手持ちだけでは心許ない」
「つまり、どこかで資金調達が必要になる」
「そう」
「その時に、クロヴェルが仕掛けてくる可能性がある」
フィオナが眉を寄せた。
「『土地を担保にしろ』とか」
「だから、ギルド経由じゃなくて、別のルートも考えるべき。例えば——」
そこで、一度言葉を切った。
頭に浮かんだのは、一人の顔だった。
「……アルバ殿下」
レインが頷いた。
「第二王子を通じて、王宮側からの小規模な支援を受ける、という手もある」
「でも、そこまで王宮に頼るのは危険じゃない? 陛下の機嫌が変わったり、他の貴族との力関係が変わった時に、一気に足をすくわれる」
「だから、『王宮からの支援』に頼る部分は最小限にすべきだ」ゴードンが静かに言った。「ただし、『王宮が後ろ盾になり得る』という事実そのものは、クロヴェルに対する牽制になる」
エリナは紙の片隅に小さく書いた。
「資金:ギルド以外のルート」
「王宮=後ろ盾(実際の依存は最小限)」
信用を分散させる。依存先を一つに絞らない。
前世の起業経験者の本で、何度も見た教訓だ。
それは国家相手でも同じらしい。
「あと一つ」
話が一段落したところで、フィオナが指を一本上げた。
「感情の問題」
「感情?」
エリナが首を傾げる。
「そう」
フィオナは真顔で言った。
「私たちは数字と戦略で動いてるけど、クロヴェルも陛下も、周囲の貴族も、最終的には『好き嫌い』で動く部分がある」
「好き嫌い……」
「『アッシュフォードが嫌いだから』という理由だけで反対票を入れる人間もいるし、『あの子が気に入ったから』というだけで味方になる人間もいる。そこを完全に無視すると、足をすくわれる」
レインが静かに頷いた。
「感情の潮目を読むのは、俺よりお前の役目だな」
「わかってる」
フィオナが肩をすくめる。
「そのためにも、王都に誰か残した方がいいと思う」
「残す?」
「そう。全部ルシェムに戻るんじゃなくて、一人は王都に拠点を作る」
フィオナがエリナを見る。
「私が残る」
エリナは一瞬、言葉を失った。
「一人で?」
「一人で動く方が、動きやすいこともある」
フィオナが笑う。
「情報を集めて、クロヴェル派と国王派の動きを見て、必要ならすぐに連絡を飛ばす。その役は、現場よりも王都の空気に慣れてる私の方が向いてる」
「危険じゃない?」
「安全な場所なんて、今どこにもないわよ」
フィオナがあっさりと言った。
「それに、父も王都で帳簿の仕事をしてる。住むところには困らない」
エリナは、少し黙って考えた。
王都に、目と耳を残す。
合理的だ。合理的だが——。
「寂しくは、ならない?」と、気づいたら口にしていた。
フィオナが一瞬だけ目を丸くして、それから吹き出した。
「あなたがそれを言うとは思わなかった」
「言ってはいけなかった?」
「いいえ。むしろ言ってほしかった」
フィオナが笑う。
「正直、ちょっと寂しいわよ。でも、ルシェムにいたってどうせ忙しくしてるでしょうし」
「それはそう」
「だから、ちゃんと手紙をちょうだい。数字と状況だけじゃなくて、あなたの頭の中で何を考えてるかも」
「書く」
「約束よ」
フィオナが指を差し出した。エリナはその指に自分の指を軽く絡めた。
それは、子どもの約束の仕方だった。
でも、その瞬間に結ばれたものは、きっと子ども同士の約束よりも重い。
その日の夜。
宿の屋根裏にある小さな部屋で、エリナは一人で紙に向かっていた。
「一年計画」と書いた紙の下に、大きく三つの柱。
【現場】
【王都】
【数字】
それぞれに、今日の話で出た項目を書き込んでいく。
現場——ルシェムとベルナ、周辺三町。
王都——王宮、魔法省、商人ギルド、学院。
数字——病人の減少、労働日数の増加、商会の利益と再投資額。
一本一本の線を引きながら、エリナは気づいていた。
これは、父がやろうとしたことを、もっと細かく分解してやり直しているだけだ。
父は一気に「国」の仕組みを変えようとした。兵制、税制、官僚機構——大きな歯車をいきなり動かそうとして、跳ね返された。
エリナは、その歯車の一番外側から、小さなネジを一個ずつ締め直しているだけ。
でも、その小さな積み重ねが、いつか大きな歯車を動かす。
そう信じられる程度には、彼女の頭の中には前世の「システム設計」の感覚が根を下ろしていた。
コンコン、と扉が叩かれた。
「入って」
扉が少し開き、レインが顔を出した。
「起きていたか」
「起きてる」
レインが部屋に入ってきた。手には何も持っていない。
「どうかした?」とエリナが尋ねる。
「話がある」
そう言うと同時に、レインの目がいつもより少し真剣だった。
「学院の話だ」
レインは部屋の中ほどに立ったまま、言った。
「陛下の決定を受けて、学院でも動きが出る。石鹸と消毒液の正式採用を巡って、魔法師たちの間で議論が始まるだろう」
「反対も多い?」
「多いだろうな」
レインはあっさり認めた。
「だが、賛成もそれなりにいる」
「レインは?」
「賛成だ」
即答だった。
「だから、俺も一年で結果を出す必要がある」
「結果?」
「『魔法以外の手段と組むことで、魔法師の仕事がどう変わるか』という結果だ」
レインは少しだけ視線を落とした。
「魔法師たちにとって、お前のやっていることは『仕事を奪う』ように見える部分がある。だが、実際には『仕事の質を変える』ことになる」
「重たい単純作業から解放されて、本当に魔法じゃないとできないことに集中できる」
「そうだ。だが、それを頭で理解しても、感情が追いつかない者もいる。だから具体的な事例を積み上げて、説得していく必要がある」
「大変そう」
「お互い様だ」
レインが少しだけ笑った。
エリナは紙の端に「学院側:事例づくり」と書き込んだ。
「つまり、レインも一年の約束をしたってこと?」
「そうだな」
レインは窓の外を一瞥した。
「国王に対してというより、自分に対しての約束だ」
「破ると?」
「自分が気持ち悪い」
「それは嫌だね」
「嫌だ」
短い会話に、妙な一体感があった。
ふと、レインがエリナの描いた図を覗き込んだ。
「それは?」
「一年計画」
「見ても?」
「いいよ」
レインは紙を手に取り、目を通した。
【現場】【王都】【数字】という三本の柱と、その下に連なる項目たち。
「整理の仕方が、前と変わっていないな」
「前?」
「ルシェムで、最初に石鹸の話をした時も、似たような図を描いていた」
「覚えてたの?」
「印象に残ったからな」
レインは紙を戻し、少し間を置いて言った。
「……怖くないのか」
「何が?」
「一年という期限が」
エリナは少し考えた。
「怖い部分もある」
「どこが」
「『ここまでやれれば十分』という基準がわからないところ。どこまでやれば、父の案を『是とする』議論の場が開かれるのか」
「陛下の言葉を信じるなら、『一年の結果次第』だ」
「でも、その『次第』の中身は、まだ見えない」
レインが頷いた。
「それは、俺も同じだ」
「同じ?」
「俺もまた、『一年後に学院の空気がどう変わっていれば十分か』を、自分で決めなければならない」
エリナは少し笑った。
「変なところで似てるね、私たち」
「そうかもしれない」
「でも、怖さの種類は違うかも」
「どう違う」
「私は、『父の夢をもう一度持ち出していいかどうか』が怖い」
言いながら、自分でもその言葉に驚いていた。
レインがエリナを見た。
「父の夢を?」
「失脚した人の夢を、もう一度国の前に出すことになる」
エリナは紙の中央に小さく『父』と書いた。
「もし一年の結果が足りなかったら、『やっぱりアッシュフォードの案は駄目だ』って結論にされるかもしれない」
「それは——」
「父を、二度殺すみたいなものかもしれない」
言った瞬間、部屋の空気が少し重くなった。
フィオナにも、ゴードンにも、まだ言っていなかった本音だ。
レインは少し黙ってから、ゆっくりと言った。
「それでも、やるのか」
「……うん」
エリナは頷いた。
「それでも、やる」
「なぜ」
「やらなかったら、一度目の死も無駄になるから」
レインが、目を細めた。
「『やらなかった後悔』と『やって失敗した後悔』のどちらを選ぶか、という話だな」
「そう」
「お前は、後者を選ぶタイプだ」
「レインは?」
「俺も」
エリナは少しだけ、笑った。
「なら、同じ方向に走れるね」
「ああ」
「一つ、頼みがある」
レインがふいに言った。
「何?」
「一年後、お前が王宮に報告に来る時」
「うん」
「俺も、その場にいたい」
エリナは一瞬、意外そうに目を瞬いた。
「学院の代表として?」
「そういう名目になるだろうな」
「その時までに、学院の中で『そういう立場』になっておくってこと?」
「そうだ」
「大変そう」
「お互い様だ」
同じ言葉が、二度目に重なる。
妙に心地よい反復だった。
「じゃあ私からも一つ頼みがある」
「何だ」
「一年後、王宮で報告した日に——」
エリナは少しだけ考えた。
「その日の夜、どこかでゆっくり話がしたい」
「話?」
「数字と結果じゃなくて、その一年間に何を考えてたかを。レインが」
自分でも、なぜそれを頼んだのかわからなかった。
でも、言葉はもう出てしまっていた。
レインが、少しだけ目を見開いた。
そして、ほんのわずかに笑った。
「……いいだろう」
「約束?」
「ああ」
七歳の部屋で交わされた、その約束は。
きっと一年後、王都のどこかで、思いもよらない形で果たされることになる。
そのことを、この時の二人はまだ知らない。
王都滞在三日目。
フィオナは父と共に暮らす小さな貸家へ移った。荷物は少ない。本当に必要な書類と、アッシュフォード商会の印章、そしてエリナが書いて渡した「一年計画」の写しだけ。
「必ず、手紙ちょうだいよ」
「書く」
「数字だけじゃなくて、変なこと考えた時も」
「変なこと?」
「レインのこととか」
「考えない」
「はいはい、どうだかね」
フィオナはニヤリと笑って、王都の雑踏に消えていった。
ゴードンは商人ギルドの古い知り合いと接触し、王都とルシェムを結ぶ安全な送金ルートを一本確保した。
「これで、ギルド経由以外の資金移動もできます」
「心強い」
「用心に用心を重ねるに越したことはありませんから」
レインは学院に戻る支度をしながら、「三ヶ月ごとに学院側からの報告をまとめて送る」と約束した。石鹸と消毒液の効果、魔法師たちの反応、それに伴う学院内の空気の変化。
エリナは、王都での最後の夜、宿の窓から王城の塔を見上げた。
一年。
短いようで、長い。
長いようで、短い。
でも、その一年が——
父の夢を『再び生かす』か『完全に終わらせる』かを、大きく左右する。
怖い。
でも——
面白い。
その矛盾を抱えたまま、七歳の少女は静かに目を閉じた。
翌朝、馬車は再び王都を離れ、ルシェムへ向けて走り出す。
アッシュフォード商会の、一年の戦いが本格的に始まる。
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