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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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17話 ルシェム帰還、そして広がる輪

 ルシェムへ戻る道は、来た時とは少し違って見えた。

 同じ街道、同じ宿場町、同じ景色。

 なのに、馬車の窓から見える木々の色も、すれ違う旅人の顔も、どこか違って感じる。

 変わったのは景色じゃなくて、自分の方なんだろうな。

 エリナは、膝の上で軽く手を組みながら、そう思った。

 王宮で何を語ったか。国王とどんな約束をしたか。フィオナを王都に残してきたこと。レインと交わした、ささやかな約束。

 その一つ一つが、自分の中の重心を少しずつ動かしている気がした。


「眠くないか?」


 馬車の中で、向かいに座るゴードンが声をかけた。


 今、馬車にいるのはエリナとゴードンの二人だ。レインは王都の郊外で別れ、学院へ戻った。フィオナは王都に残っている。


「眠くはない」

「考えごとですか」

「整理してる」

「無理はなさらず」


 ゴードンは短く言って、また黙った。

 この男の沈黙は心地よい。必要な言葉だけを置いて、あとはそっとしておいてくれる。

 エリナは膝の上の革鞄を軽く撫でた。

 中には、王宮からの正式な書状の写しと、フィオナとレインに書いた最初の手紙の下書きが入っている。

 

 ルシェムに着いたら、すぐに動かないと。


 頭の中で、もう次の段取りが回り始めていた。

 ルシェムの町が見えてきたのは、二日目の夕方だった。

 石壁とも呼べないような低い土塀。古びた門。市場の端に立つ木製の看板。王都の壮大な城壁を見た直後だと、すべてが妙に小さく、けれど不思議と懐かしく感じられる。

 ハンスの息子のマリオが、町の入り口で待っていた。

 馬車を見つけた瞬間、彼は手を大きく振った。


「エリナーっ! ゴードンさんっ!」


 声が、思いきり大きかった。

 馬車が止まるのを待たず、マリオは横を走ってついてきた。


「ただいま」


 エリナが窓から声をかけると、マリオがニッと笑った。


「おかえり。なんかすごいことになったって、本当か?」

「誰から聞いたの」

「フィオナさんが、王都を出る前に早馬で手紙を送ってくれた。簡単な経緯と、『エリナが帰ったらすぐ集まれ』って」

「相変わらず手が早い」


 エリナは小さく笑った。

 ルシェムまでの二日間、その手紙はおそらく自分たちの馬車より先に着いていたのだろう。


「ルナは?」

「家にいる。猫と一緒に薬草仕分けてる」

「相変わらず」

「相変わらず」


 マリオの返事に、ふっと肩の力が抜けた。


 帰ってきた。

 

 その実感が、ようやく胸の真ん中に落ちた。


 家の前まで戻ると、戸口にセレーナが立っていた。

 馬車を降りる前から、母の目はすでに潤んでいた。


「ただいま、お母さん」

「おかえりなさい、エリナ」


 短いやり取り。

 でも、その短さの中に、二日間ずっと心配していた母の気持ちが詰まっていた。

 エリナは少しだけ背伸びをして、母の腕の中に身体を寄せた。

 いつもなら、こういう触れ合いはあまり長くは続けない。でも今夜は、もう少しだけ。


 この温度を、忘れないでおこう。


 あの玉座の間の、ぴんと張り詰めた冷たい空気を思い出すたびに、この温度を思い出せれば、足元はぶれない。

 そんな気がした。


 翌朝、エリナは早起きしてマリオとルナを呼んだ。

 長屋の事務室。いつもの場所に、いつもの三人。

 でも、空気はいつもと少し違った。

 マリオは胡座をかいて、いつもより少しだけ姿勢が正しく見える。ルナは膝に猫を一匹乗せながら、エリナの方を真っ直ぐ見ていた。


「王宮での話、簡単に説明する」


 エリナは紙を一枚広げ、王宮で起きたことを順を追って話した。


 国王との謁見。父の話。クロヴェルとのやり取り。一年という期限。「魔法に頼りきらない国」の議論を、再び開く可能性。

 マリオは途中で何度か目を見開き、最後の方では口がぽかんと開いていた。

 ルナは、ほとんど表情を変えなかった。だが、膝の上の猫が一度ゆっくり伸びをした時、その毛並みを撫でる指先がいつもよりわずかに早く動いた。

 話し終えると、しばらく沈黙が流れた。


「……すごいことになったな」


 最初に口を開いたのは、マリオだった。


「すごいというか」


 エリナが小さく肩をすくめた。


「大変なことになった」

「同じだろ」

「ちょっと違う」

「どう違うんだよ」

「すごいは結果。大変は過程」

「相変わらずだな、お前」


 マリオが少し笑った。

 ルナがぽつりと言った。


「……仕事、増える?」

「増える」


 エリナが頷く。


「ルナにも、頑張ってもらう」

「うん」


 ルナの返事は短かった。

 だが、その「うん」の中にある引き受けの覚悟は、誰よりも揺るがない。

 この子は、言葉が少ない分だけ、約束が重い。

 エリナはそう知っている。


「で、これから具体的に何やるんだ?」


 マリオがあぐらをかいたまま身を乗り出した。


「大きく三つ」


 エリナは紙に書き出した。


「一つ目、現場の拡大。ルシェムとベルナだけじゃなく、周辺三町にも石鹸と薬草薬を届ける」

「三町って、具体的にはどこ?」

「ベルナの北のヴァロウ。南のキーシュ。それから、街道沿いのトレネ」

「結構離れてるな……」

「だから、各町に現場責任者を置く」

「責任者?」

「ルシェムでいうマリオやルナみたいな役。商品の管理、現地の協力者の取りまとめ、簡単な販売対応。私たちが直接全部やるのは無理だから、現地の人に任せる」

「誰にやらせるんだ?」

「候補は何人かいる」


 エリナは別の紙を出した。


 「ルシェムで石鹸を使ってくれてる人たちの中で、評判がよくて、字が読めて、責任感がある人。マリオに見極めを手伝ってほしい」

「俺に?」

「マリオは、人の付き合い方を見るのが得意でしょう」

「……まあ、得意かもな」

「お願い」

「任せろ」


 マリオが胸を軽く叩いた。


「二つ目」


 エリナは指を一本足した。


「生産体制の強化」

「うちの台所じゃ、もう無理ってこと?」

「無理」


 エリナがあっさり認めた。


「石鹸も薬草薬も、量を増やすには専用の作業場が必要。ハンスさんに相談して、長屋の隣の空き家を借りられないか聞こうと思ってる」

「親父に話せばすぐ動くと思う。親父、最近お前のこと『あいつは本物だ』って言ってる」

「ハンスさんが?」

「うん。あの木の容器の話の時から、ずっと」


 エリナは少しだけ、口の端が緩むのを抑えた。

 信頼というのは、こういう積み重ねの上にしか乗らない。


「三つ目」


 エリナはさらに指を立てる。


「数字の整理」

「数字……?」

「ルシェムで石鹸を使うようになってから、子どもの病気が減った、傷の治りが早くなった、仕事を休む人が減った。そういう変化を、ちゃんと数字で記録する仕組みをつくる」

「どうやって数字にするんだ」

「町の人たちに、聞き取りをする。『最近、子どもが病気で寝込んだ日数は?』『傷が膿んだことは?』『仕事を休んだ日数は?』とか」

「面倒くさそうだな」

「面倒くさい。でも、これがないと王宮への報告にならない」

「そうか……」

「だから、最初はマリオに手伝ってもらう。聞き取りは、人当たりがいい方が成功率が高い」

「俺、また使われるな」

「『使う』じゃなくて『頼る』」

「言い換えただけだろ」

「言い換えで気分が変わるなら、それは大事な技術」


 マリオが呆れ顔で笑った。


「相変わらずだなぁ、お前」


 その「相変わらず」が、今のエリナには嬉しかった。

 王宮での緊張感の後で、こういう日常の軽さが、心の余白を埋めてくれる。


 昼過ぎ、エリナはハンスの作業場を訪ねた。

 大きな手で木材を削っていたハンスは、エリナが現れると一度手を止め、目を細めた。


「無事に戻ったか」

「戻りました」

「マリオから、おおよそ聞いた」

「相談したいことがあって」

「言ってみろ」


 エリナは、長屋の隣の空き家を借りたいこと、石鹸と薬草薬の生産専用の作業場として使いたいこと、改造には少し費用がかかること——順を追って説明した。


 ハンスは、最後まで黙って聞いていた。

 話が終わると、ふっと息を吐いた。


「家主は、俺がよく知ってる男だ。話は通してやる」

「ありがとうございます」

「改造の手間賃は、いつも通りでいい」

「いつも通り、って?」

「売れた分から払う」


 ハンスが少し笑った。


「最初にやった、あれだ」


 エリナの胸の奥が、少しじんとした。

 最初に木の容器を頼んだ時の、あの取引が、今も二人の間で生きている。


「ハンスさん」

「なんだ?」

「……ありがとうございます」


 今度はもっとはっきり、頭を下げた。

 ハンスは、また少しだけ笑った。


「礼はいい。お前は、ちゃんと約束を守る奴だ。俺はそういう奴と仕事をする」


 短い言葉。

 でも、それは契約書何枚分にも値する重みがあった。


 夕方、エリナは一人で町を歩いた。

 久しぶりのルシェムの街並み。市場、井戸、薬屋、肉屋、職人通り。

 石畳の継ぎ目から雑草が顔を出していた。家々の壁には、見覚えのある落書き。子どもが追いかけっこをしている声。


 変わっていない。


 二週間しか離れていなかったのに、ずっと長く離れていたような気がする。

 市場の端で、マルタが店じまいの準備をしていた。


「マルタさん」


 声をかけると、マルタは目を上げて、ぱっと顔をほころばせた。


「戻ったかい!」

「はい」

「王都はどうだった?」

「いろいろあった」

「『いろいろ』で済まされる話じゃないだろうよ」


 マルタはケラケラ笑った。


「ペースト、まだ売れてる?」

「絶好調。それと、最近もう一つ売ってほしいって声があるんだよ」

「もう一つ?」

「石鹸の中でも、もうちょっと匂いがいいやつ。香草入りの。前にあんたが試しに作ってくれただろ? あれが、評判いいんだよ」

「……なるほど」


 エリナは頭の中で、すぐにそれをメモした。

 香草入りの石鹸を、定番ラインに昇格させる。原価は少し上がるが、価格にも乗せられる。

 現場の声が一番強い。

 王宮で何を語ろうと、玉座の前で何を約束しようと、結局のところ「実際に使う人が何を求めているか」が、すべての出発点だ。

 その感覚を忘れたら、自分は父と同じ場所で躓くかもしれない、とエリナは思った。


 その夜、家に戻って、エリナはセレーナと二人で夕食をとった。

 質素な食卓だった。豆のスープと、固めのパンと、少しの干し肉。

 でも、温かい。


「王都の人は、どんな人だった?」


 食事の途中、セレーナが何気なく聞いた。


「いろんな人がいた」

「お父様の知り合いの方も?」

「いた」


 エリナは少しだけ、間を置いた。


「アルバ殿下が、お父様のことを覚えてた。膝に乗せてもらってたって」


 セレーナの手が、一瞬止まった。


「……アルバ殿下が……お父様が、難しい話を図にして見せてくれたって」


 セレーナは黙って、皿を見つめていた。


「お父様は」


 ようやく口を開く。


「ずっと、誰かに伝えたかったのよ。自分が見ていたものを」

「うん」

「でも、伝えたい相手に届く前に、潰されてしまった」

「うん」

「あなたは——」


 セレーナが顔を上げた。


「あなたは、それを引き継がなくていいのよ。エリナ。あなたは、あなたの好きなように生きていい」


 優しい声だった。

 でもその優しさは、エリナの胸の一番奥を、確かに刺した。


「お母さん」

「うん?」

「私は、引き継ぐんじゃないの」

「えっ?」

「お父様の夢を引き継ぐ、んじゃない」


 エリナは静かに言った。


「私は私で、同じものを見たから、同じ方向に歩いてるだけ」

「同じもの……?」

「魔法がなくても、人が幸せに暮らせる仕組み。それは、お父様の夢でもあるけど、私自身が見たいものでもある」


 セレーナは、しばらくエリナの顔を見つめていた。

 それから、目を少しだけ伏せて、頷いた。


「……そう」

「だから、心配しないで」

「心配は、する」

「うん」

「でも——応援する」


 短い言葉。

 でも、その一言で、エリナの心の中で、何か一つの重しがそっと外れた気がした。

 お母さんの『応援する』。

 それは王宮の任務以上に、自分を支えるものになる。


 夜、自分の小さな机に向かって、エリナはペンを取った。

 書くべき手紙は、二通。


 一通は、フィオナへ。

 もう一通は、レインへ。


 フィオナへの手紙には、ルシェムの状況、現場責任者の候補、香草入り石鹸の評判、ハンスとの作業場の話。

 数字と事実を中心にしながらも、最後に一行だけ添えた。


 『あなたがいないと、事務室が少し広く感じる。早く慣れたい。』


 書いてから、自分でも少し驚いた。

 でも、消さずに残した。

 フィオナなら、笑って読んでくれる気がした。

 レインへの手紙は、もう少し短い。

 学院での進捗を聞きたいこと、ルシェムでの計画の概要、現場の数字をまとめ次第送ること。

 最後に一行。


 『ルシェムにも、今日少しだけ雨が降った。』


 書いてから、しばらくその一行を見つめた。

 なぜそんなことを書いたのか、自分でも説明できない。

 でも、これも消さなかった。

 雨と一緒に来る人だから。

 そんな感覚を、いつかちゃんと言葉にする日が来るのか。

 あるいは、最後まで言葉にしないままなのか。

 今はどちらでもよかった。

 手紙を二通封筒に入れ、机の端にきちんと並べた。

 ランプを吹き消す前に、エリナはもう一度、机に向かい合った。


 頭の中に、これからの一年が広がっている。


 現場の拡大。生産体制。数字の整理。クロヴェルへの備え。学院との連携。フィオナの王都での動き。アルバとの関係構築。そして——母を、これ以上心配させすぎないこと。

 やることは、山ほどある。

 でも、一人ではない。

 ルシェムにはマリオがいて、ルナがいて、ゴードンがいて、ハンスがいて、マルタがいる。

 王都にはフィオナがいて、レインがいる。

 そして、玉座の上には、父の言葉を覚えてくれていた人が、いる。


 この国の中に、自分と同じ方向を見ている人が、少なくとも何人かはいる。


 それが、何よりの強さだった。

 一年後、何がどうなっているかはわからない。

 成功しているかもしれないし、失敗しているかもしれない。


 でも、少なくとも——


 今夜、机の前で一人、ランプの火を見つめている自分は、確かに「動き始めた」。


 エリナ・アッシュフォード、七歳。

 ルシェムに帰還。

 

 一年の戦いの、本当のスタートラインに、ようやく立った。

 ランプの火を、ふっと吹き消した。

 暗くなった部屋で、外から微かに虫の鳴く声が聞こえた。

 遠くで、犬が一度だけ吠えた。

 ルシェムの夜は、いつも通り、静かだった。

読んでいただきありがとうございます。

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