18話 三つの町、三人の顔
王都から戻って一週間が経った。
ルシェムの作業場の改造は、ハンスとマリオを中心に順調に進んでいた。長屋の隣の空き家は、思っていたより造りがしっかりしていて、改造に必要な手間も予算も予定より少なくて済んだ。
石鹸の生産ラインを置く部屋、薬草の乾燥と仕分けをする部屋、そして消毒液の蒸留器を据え付ける部屋。三つの作業区画を、薄い板で仕切る形にした。換気のために高い位置に小窓を増設し、水回りも改修した。
完成までにあと十日ほど。
その十日の間に、エリナはもう一つ大事なことを進めなければならなかった。
現場責任者の候補を、決める。
「候補は、こんな感じだ」
マリオが長屋の事務室で、紙を一枚広げた。
炭で大きく書かれた名前が、三つ。
マグダ・トーラン(ヴァロウ町)
ジルカ・ベッセル(キーシュ町)
オーリック・モア(トレネ町)
「全員、ルシェムで石鹸を使ってくれてる人と繋がりがあって、向こうの町でもそれなりに顔が広い。字も読めるし、計算もまあ何とかなる」
「人柄は?」
「マグダは肝っ玉母ちゃん。子持ちで、ヴァロウの女衆の中心にいる」
マリオが指で名前を叩く。
「ジルカは、男だけど物腰が柔らかい。キーシュの宿屋の次男で、家業と別に何かやりたがってる」
「もう一人は?」
「オーリックは、トレネで小さい雑貨屋を一人でやってる老人だ。年は六十過ぎ。ちょっと頑固」
エリナは三つの名前を、じっと見た。
「三人とも、人物像が違うね」
「だろ。お前が言ってた『町の事情によって合う合わないがある』ってやつだろ? だから幅を持たせて候補を出した」
「いい判断」
「俺の判断っていうか、ゴードンさんに意見もらった」
「ちゃんと相談したのが、いい判断」
「言い方」
マリオが頬を膨らませて、エリナは小さく笑った。
「順番は?」
「近い順だと、ヴァロウ、トレネ、キーシュ。馬車で順に回れば、三日でひと回りできる」
「じゃあ、明日出発」
「早いな」
「鉄は熱いうちに」
「またそれ」
「便利な言葉だから」
マリオが首を振りながら、明日の支度に取り掛かった。
翌朝。
まだ朝霧が残る時間に、エリナとマリオとゴードンの三人は馬車に乗り込んだ。
ルナは留守番。母のセレーナと一緒に、作業場の改造の進み具合を見ておいてくれる。ルナが頷くとき、いつもより少しだけ早かった気がした。任されることを、彼女なりに受け止めているのだろう。
馬車は街道を北上し、半日ほどでヴァロウに着いた。
ヴァロウ町
ヴァロウは、ルシェムよりひと回り小さな町だった。
石造りの家が少なく、木造の家が多い。中央には農産物を売る広場があり、その周りに肉屋、パン屋、雑貨屋が並ぶ。住民の多くは近隣の農地で働く人たちで、町全体に土と汗の匂いがあった。
マグダ・トーランの家は、広場の北側にあった。
二階建ての小さな家。一階の窓から、もうもうと湯気が立ち昇っている。洗濯か、夕食の仕込みか、あるいはその両方か。
扉をノックすると、中から大きな声が返ってきた。
「入りな! 手が離せないから、勝手に入ってきな!」
マリオが先に扉を開けた。
台所からは、四十代半ばと思しき女性が、両手で大きな鍋をかき回しながら振り返った。背が高く、肩幅が広い。エプロンの裾がところどころ焦げている。子どもが二人、足元で何かの遊びをしていた。
マグダの目が、エリナを見た。
一瞬、固まる。
「……あんたが、噂のエリナちゃんかい?」
「はい」
「思ったよりちっこいねぇ!」
マグダはガハハと笑った。声が大きい。
「ごめんね、こんな散らかってる時に。すぐ片付けるから、その辺座ってな」
「お構いなく」
「いやいや、客は座らせるもんだよ」
マグダは手早く子どもたちを部屋の隅へ追いやり、テーブルの上の食器を片付けた。椅子を三脚並べ、湯気の立つお茶を出した。
「で?」
マグダが向かいに座った。
「マルタから話は聞いてるよ。あの石鹸を、ヴァロウでも本格的に売りたいんだろ?」
「はい」
「で、誰かが現場で取り仕切る必要があると」
「そうです」
「あたしを名指しで来たのは、マルタの紹介かい?」
「マリオが推薦してくれて、その後にマルタさんにも確認しました」
「マリオから?」
マグダがマリオを見た。マリオが少し頭を掻いた。
「前にうちの肉屋に来た時、マグダさんが他の人に石鹸の使い方を教えてるのを見て……」
「ああ、あの時の坊主かい」
「坊主って」
「坊主だろ、まだ。あんたも七つやそこらだろ」
「八つ」
「同じだよ」
マグダがケラケラ笑った。
エリナは、その笑い方を観察しながら考えていた。
周囲が明るくなるタイプ。
マグダがいる場には、自然と人が集まりそうだ。それは、現場責任者として大きな武器になる。
「具体的に何やってほしいのか、聞かせな」
お茶を一口飲んで、マグダが切り出した。
「ヴァロウに、月に何度か石鹸と薬草薬を届けます。それを、ヴァロウの中で売る場所を整え、使い方を町の人に教え、売上と在庫を記録してほしい」
「字は書けるよ、一応」
「計算も?」
「足し算引き算くらいならね。掛け算は怪しい」
「掛け算は、こっちで仕組みを用意します。マグダさんがやるのは、数を数えて記録すること」
「ふん、なるほど」
マグダがしばらく考え込むようにテーブルを見た。
「報酬は?」
「売上の一割を、現場経費として」
「悪くないね」
「ただし、責任もあります。使い方を間違えて誰かを傷つけたら、こちらにも責任が及ぶ。だから、町の人に教える時の説明は、こちらが用意した手順に沿ってもらいたい」
「マニュアル通りにってことかい?」
「そう」
「あたしは、それでいい」
マグダがあっさり頷いた。
「自分流より、ちゃんとしたやり方で教えた方が、後々楽だ」
「即決ですか」
「あんたを見て、即決した」
「私を見て?」
「七つやそこらの子が、王宮まで行って戻ってきた話を、もうこの辺じゃみんな知ってるんだよ」
マグダが少し声を低くした。
「そんな子が、ヴァロウみたいな田舎町にわざわざ足を運んできた。それだけで、十分信頼するに値する」
エリナは少しだけ、視線を落とした。
噂が、思っていたより早く広がっている。
いいことでもあり、危ういことでもある。
でも、今は素直に受け取った。
「ありがとうございます」
「お礼はまだ早いよ。やってから言いな」
マグダがまた、ガハハと笑った。
トレネ町
ヴァロウから半日。街道沿いのトレネに着いた頃には、すっかり日が傾いていた。
トレネはヴァロウと違って、街道沿いの宿場町だった。馬車の往来が多く、夜になっても人の気配が消えない。宿屋と食堂、それから旅商人向けの雑貨屋が立ち並んでいる。
オーリック・モアの店は、町の中心からは少し外れた路地にあった。
看板はかすれていて、何の店かもひと目ではわからない。木の扉を押すと、ぎいっと重い音を立てて開いた。
中には、薄暗い灯りの下、雑多な品物が所狭しと並んでいた。陶器、紐、蝋燭、古い金具、布。一見、何もかも雑然と置かれているように見えるが、よく見ると、種類ごとにきちんと分類されている。
店の奥に、白髪の老人が一人、帳簿を広げていた。
「……何の用だ」
顔も上げずに、低い声が言った。
「初めまして」
エリナが声をかけた。
「アッシュフォード商会の——」
「アッシュフォード?」
老人がそこで顔を上げた。
眼鏡の奥の目が、鋭くエリナを見た。
「……ふん」
「ご存じですか」
「噂程度には」
オーリックが、ぱたんと帳簿を閉じた。
「子どもが来るとは聞いていたが、本当に子どもだったか」
「はい」
「親はいないのか?」
「母は、ルシェムにおります」
「父は?」
「亡くなりました」
オーリックの目が、ほんのわずかに動いた。
哀れみではない。何かを察した目だった。
「……まあ、座れ」
オーリックが、店の奥に粗末な椅子を二脚示した。
エリナとマリオが座った。ゴードンは外で馬の世話をしている。
「で、用件は?」
エリナは、ヴァロウでマグダに話したのとほぼ同じ内容を、もう一度説明した。
オーリックは、最初から最後まで黙って聞いていた。
話が終わると、しばらく腕を組んで天井を見ていた。
「条件は悪くない」
ようやく口を開いた。
「だが、わしには合わん」
エリナの背筋が、少しだけ伸びた。
「理由を、お聞きしても?」
「わしは、もう年だ。店を維持するだけで精一杯だ。新しい商品の責任者をやる体力はない」
「なるほど」
「だが——、適任者なら、紹介できる」
「適任者?」
「わしの息子の嫁の妹が、この町で薬草摘みをしている。シェナという。今は薬屋の手伝いだが、薬草の知識はわしより詳しい」
「年齢は?」
「二十二、三だったか。読み書きはできる。計算もそこそこ」
「お会いできますか」
「明日の朝、ここに呼んでおく」
即決だった。
マリオが横で目を丸くしている。
「ご紹介、ありがとうございます」
エリナが頭を下げた。
「でも、なぜそこまでしてくださるんですか?」
オーリックが、片眉を少し上げた。
「あんた、わしが何のために店をやっとると思う?」
「商売、ですよね」
「金儲けじゃない。もう食うには困っとらん。それでも店を続けてるのは、町の人間が困らんようにするためだ。蝋燭が切れた、紐が必要だ、そういう時に走り込める場所が、この町には必要だからな」
「……」
「あんたのやってることは、その延長だ」
オーリックが目を細めた。
「石鹸で病気が減る、薬草で傷が治る。それが広がるのは、町にとっていいことだ。わしが直接関われんでも、繋ぐくらいはできる」
エリナは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は、シェナを見てから言え。あれが向いてるかどうかは、あんたが判断することだ」
頑固な老人。でも、頑固さの方向が、エリナたちと同じ向きだった。
翌朝、店の前で待っていたのは、痩せた女性だった。
長い髪を後ろで一つに束ね、簡素な布の服を着ている。手の甲には、何度も薬草を扱った人特有の、緑色のうっすらとした染みがあった。
「シェナです」
声は静かで、だがしっかりしていた。
エリナは、彼女と一時間ほど話した。
薬草の知識を尋ねれば、ルナと変わらない正確さで答えが返ってきた。計算問題を出せば、迷わず正解を導いた。「町の人にどう薬草の使い方を説明するか」と聞けば、相手の年齢や性別によって言葉を変える例まで挙げてくれた。
向いている。
話していて、確信した。
最後に、エリナは一つだけ聞いた。
「クロヴェル侯爵から、もしこの仕事を辞めるよう圧力がかかったら、どうしますか?」
シェナの目が、少し見開かれた。
「……そんな話まで、あるんですか」
「ある可能性は、ゼロではないです」
シェナはしばらく考え込んでから、ゆっくりと言った。
「私はこの町で生まれて、この町で育ちました。町の人が病気で苦しむのを、何度も見ました」
「……」
「貴族様が誰であろうと、町の人が助かるなら、私はやります」
即答ではなかった。
でも、考えてから出された答えには、即答以上の重みがあった。
エリナは、深く頷いた。
「お願いします」
キーシュ町
最後の町、キーシュは、ベルナのさらに南にあった。
漁港に近い町で、海の匂いが街道まで届いていた。
ジルカ・ベッセルの家は、町の宿屋の隣にある。彼の家業は宿屋だが、本人は次男で、店を継ぐ立場ではない。
迎えに出てきたジルカは、二十代後半の細身の男だった。物腰が柔らかく、最初の挨拶の時から、ふっと相手の警戒を解くような微笑を浮かべる。
「いらっしゃい。お話、伺ってます」
声がよく通る。低すぎず、高すぎず、聞き取りやすい音域だった。
応接間に通され、エリナは三度目の説明を始めた。
ジルカは熱心に聞いた。途中で何度かメモを取った。ヴァロウのマグダのような豪快さも、トレネのオーリックのような頑固さもない。だが、別の何かがあった。
話が一段落したところで、ジルカが言った。
「正直に申し上げますと——」
彼の口調が、わずかに改まった。
「私、この話を聞いた時に、二つのことを考えました」
「聞かせてください」
「一つは、町の役に立てるなら是非やりたい、ということ」
「もう一つは?」
「実家の宿屋から、ちゃんと独立できるかもしれない、ということです」
エリナは少し首を傾げた。
「独立、ですか」
「私は次男なので、いずれ家を出る必要があります。でも、特に手に職があるわけではない」
ジルカが少し苦笑した。
「この仕事は、私にとって、独立の足場になり得ます。だから、町のためというより、自分のためにやりたい、という気持ちが半分あります」
その正直さに、エリナは少しだけ意表をつかれた。
マリオが横でじっと聞いている。
「……正直に言ってくれて、ありがとうございます」
「いえ、嘘をついて始めても、後で歪みが出ますから」
「同感です」
エリナは少し考えてから、続けた。
「ジルカさん」
「はい」
「『町のため』と『自分のため』が一致している人の方が、私は信頼します」
「……と、言いますと」
「町のためだけ、と言う人は、いずれ疲弊します。自分のためだけ、と言う人は、いずれ町を裏切ります。両方ある人だけが、長く続けられます」
ジルカが、少し驚いた顔をした。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……あなたの噂、本当だったんですね」
「噂、ですか」
「『七つの子どもとは思えない』という噂です」
「八つになりました」
とマリオが反応する。
「失礼しました」
エリナが謝罪する。
ジルカが声を立てて笑った。
その笑い方には、媚びがなかった。本当に面白いから笑う、というシンプルな笑い方だった。
「条件は、お受けします。ただし、一つだけお願いがあります」
「なんでしょう」
「最初の三ヶ月は、報酬を通常の半額にしてください」
マリオが思わず横から口を挟んだ。
「半額?」
「はい。まだ私は実績がありません。半分の報酬で結果を出してから、通常額に戻してもらえれば、こちらも自信を持てますし、商会側も損をしません」
エリナは、しばらくジルカを見つめた。
自分から条件を厳しくしてくる人間は、信頼できる。
前世でもよく見たパターンだった。
「わかりました。三ヶ月後に、お互いの実績と感触で見直しましょう」
「はい」
二人は、テーブル越しに軽く手を合わせた。
握手というほど大袈裟ではない、軽い触れ合い。
でもそれが、契約の合図になった。
三つの町を回り終え、馬車はルシェムへの帰路についた。
夕方の街道。傾く太陽が、馬車の影を長く伸ばしていた。
「結果、三人決まったな」
マリオが、御者台から振り返った。
「ヴァロウのマグダ、トレネのシェナ、キーシュのジルカ」
「三人とも、タイプが全然違う」
「だから、いい」
「いい?」
「同じタイプばかり集めても、組織は強くならない。マグダは人の輪を作るのが上手い。シェナは薬草の専門家として深く知ってる。ジルカは話術と独立心がある。三人合わせて、初めて一つの形になる」
「お前、なんでそんなこと知ってんの?」
「考えれば、わかること」
「考えても、俺はそこまで行かない」
「マリオは、別のところで考えてる」
「別のところ?」
「『この人と一緒にいたら、楽しいかどうか』」
マリオが、ぐっと言葉に詰まった。
「……それ、悪い意味?」
「いい意味」
エリナがあっさり答えた。
「私が見落とすところを、マリオは最初に見抜く。マグダもジルカも、マリオが推薦してくれなかったら、私だけでは候補にも入らなかった」
「……そうか」
マリオは少し照れたように頭を掻いて、前を向き直した。
ゴードンが横でくすりと笑った。
「いい組み合わせですよ、お二人は」
「俺たちが?」
「ええ。バランスが取れている」
馬車が、街道の小さな丘を越えた。
遠くにルシェムの町並みが見え始めた。
また、輪が一回り大きくなった。
エリナは、頭の中で組織図を描き直した。
中央にアッシュフォード商会の本拠地——ルシェム。
その周りに、ヴァロウ、トレネ、キーシュ、ベルナ。
そして遠く、王都に、フィオナとレイン。
ベルナにはロッソ商会との取引網。
学院にはレインを通じた連携。
王宮には、薄いながらも国王とアルバとの線。
一年前には、長屋の台所に石鹸の型を一つ並べていただけだった。
それが、今、こんなにも広がっている。
まだ、足りない。
でも、確実に、進んでいる。
ルシェムに着いた頃、空はすっかり暗くなっていた。
長屋の前で、ルナが小さなランプを持って待っていた。
馬車を見つけると、彼女は無言で手を一度だけ振った。
いつもの、無口な歓迎。
「ただいま」
エリナが馬車から降りて、ルナの隣に立った。
「……うん」
「変わったことは?」
「ない」
「そう」
「猫が、一匹、増えた」
「そう」
他愛もない報告。
でも、その他愛もない報告が、王宮から戻った夜と同じくらい、エリナの胸を温めた。
ここが、自分の場所。
どんなに輪が広がっても、戻ってくる場所は、ここで変わらない。
その日の夜、エリナは机に向かい、また一通の手紙を書いた。
宛先は、フィオナ。
『新しい仲間が三人増えた。タイプが全然違う三人。すぐに紹介する。』
書き終えて、ペンを置いた。
窓の外、夜風が少しだけ強くなっていた。
ランプの火が揺れた。
一年の戦いは、また一歩、前へ進んだ。
読んでいただきありがとうございます。
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