8話 消毒液と、二度目の雨
消毒液が完成したのは、ダリウスが去ってから十日後のことだった。
材料は蒸留した酢と、特定の樹皮を煮出した液を合わせたものだ。酢の蒸留は最初の難関だった。この世界にも酢は存在するが、濃度が低く、薬として使えるレベルには程遠い。陶器の蒸留器を自作するのに三日かかり、蒸留の条件を探るのにさらに五日かかった。
完成品を小瓶に入れて光に透かした。無色に近い、わずかに黄みがかった液体。匂いは鋭い。
合格。
エリナは小瓶に木の栓をして、棚に並べた。傷口に直接使える消毒液、石鹸では届かない深い部分の洗浄に使えるもの。クラウスの時のような感染症例が、これで一段階早く対処できるようになる。
それから少し間を置いて、別のことを考えた。
レインに見せると言った。
でも場所がわからない。あの少年がいつまたルシェムに来るかも、来るかどうかも、わからない。
エリナは栓をもう一度確認して、棚から目を離した。
来たら見せる。それだけだ。
レインが来たのは、その翌日だった。
またしても、雨だった。
今度は朝から降っていた。霧のような細かい雨が、町全体を灰色に包んでいた。エリナは薬草の仕分け作業を台所でしていて、戸口を叩く音を聞いた。
マリオかナンシーだろうと思いながら開けた。
違った。
旅装束の少年が立っていた。前回より少し汚れている。靴底の麻紐は、新しいものに替わっていた。
「……修理したんだ」
エリナが言った。自分でも、開口一番それを言うとは思っていなかった。
レインが一瞬だけ目を細めた。
「した」
「よかった。入って」
台所に通した。狭い部屋だ。棚に薬草が並び、壁に分類図が貼られ、隅に帳簿が積んである。貴族の屋敷の応接間とは正反対の空間だ。
レインは部屋を一度見回してから、何も言わずに椅子に座った。この人は余計なことを言わない、とエリナは再確認した。狭い部屋だとか、貧しいとか、そういうことを顔に出さない。ただ、目だけが部屋の中をきちんと観察していた。
エリナはお湯を沸かしながら言った。
「消毒液、できた」
「見せてくれ」
「お湯が沸いてから」
「なぜ」
「使い方を説明しながら見せた方が早いから。飲み物を出す間に準備する」
レインが黙った。それを肯定と受け取って、エリナは作業を続けた。
乾燥させたカモミール系の花を湯呑みに入れて、お湯を注ぐ。香草茶だ。砂糖はないが、花の自然な甘みがある。レインの前に置いた。
「飲める?」
「ありがとう」
短いが、本物の言葉だとわかった。お世辞の質感がない。
エリナは棚から消毒液の小瓶を取り出して、テーブルに置いた。
「これ。傷口の洗浄に使う液体。石鹸で洗えない深い傷や、処置の前に使う」
レインが小瓶を手に取った。光に透かして、栓を外して匂いを嗅いだ。眉がわずかに動いた。
「強い匂いだ」
「酢を蒸留したものが入ってるから。匂いは強いけど、傷に使っても組織を大きく傷めない程度の濃度に調整してある」
「どうやって確認した?」
「ルナという子の手に少量つけて、翌日の状態を観察した。赤みも腫れもなかった」
「ルナ?」
「薬草を集めてくれている子。孤児で、私より薬草の知識が細かい」
レインが小瓶を戻した。
「実際に傷に使ったことは」
「一例ある。先月、荷運びの男性が足に深い傷を作って三日後に発熱した。傷口を洗浄してこの液体で処置して、薬草の飲み薬を併用したら五日で回復した」
「魔法の治癒なしで」
「なしで」
レインがしばらくテーブルを見ていた。それから顔を上げた。
「石鹸を学院に持ち帰って、魔法師に分析させた」
「わかった?」
「界面活性作用、という言葉が出た。魔法師たちは、この原理を魔法で再現できないか議論している」
エリナはそれを聞いて、少し考えた。
「魔法で再現できたとしても、材料と手順がわかれば誰でも作れる石鹸の方が広く使える。魔法師がいない村にも届く」
「そう言ったら、一人の魔法師が怒った」
「魔法の価値を否定したと思ったの?」
「そう取る人間もいる」
エリナは香草茶を一口飲んだ。
「否定したいわけじゃない。魔法がある人間には魔法を使えばいい。ない人間には別の方法がある。それだけのことだと思ってる」
レインが少し目を細めた。
「合理的だ」
「前にも言ったね、それ」
「同じことを思うから、同じことを言う」
エリナはそこで少し止まった。この人の言葉は無駄がない。だから逆に、言われた言葉の重さが妙に残る。
雨が少し強くなった。屋根を打つ音が大きくなる。
レインが窓の方を見た。
「今日はここで足止めになりそうだ」
「泊まる場所は?」
「宿を探すつもりだった」
「この雨では難しい。うちに泊まってもいい。母に話す」
レインが少し驚いた顔をした。珍しい表情だ。
「いいのか」
「狭いけど、雨の中をうろうろさせるよりいい。合理的でしょう」
レインがまた、口の端だけで笑った。
「……いつもそうやって全部、合理的で片付けるのか」
「合理的じゃないことの方が少ない」
「少ないが、ある、ということか」
エリナは少し止まった。
「……何が言いたいの」
「別に」
レインが香草茶を飲んだ。それ以上は言わなかった。エリナは何かを言い返そうとして、うまい言葉が見つからなかった。それも珍しいことだった。
夕方、セレーナが仕事から戻ってきた。
台所にレインが座っているのを見て、一瞬止まったが、すぐに柔らかい顔になった。
「お友達?」
「知り合い」エリナが答えた。「王立魔法学院の生徒。今日は宿が取れないから泊めたいんだけど」
セレーナがレインを見た。レインが立ち上がって、きちんと頭を下げた。
「突然お邪魔して申し訳ありません。レイン・ソレイユと申します」
セレーナが少し目を見開いた。礼儀正しい、という顔だ。
「もちろんよ。狭くて申し訳ないけど」
「十分です。ありがとうございます」
夕食はエリナが作った。豆のスープとパン、それから薬草を使った簡単なおかず。材料は多くないが、組み合わせと火加減で補う。
レインが一口食べて、動きを止めた。
「……美味しい」
「当たり前のことを言う」とエリナが返した。
セレーナが小さく笑った。母がそんなふうに笑うのを、エリナは久しぶりに見た気がした。
夜、母が寝てから、エリナとレインは台所で向かい合っていた。
ランプの光だけがある。外はまだ雨が続いていた。
エリナは切り出した。
「一つ聞いていい」
「どうぞ」
「クロヴェル家について、何か知ってることはある」
レインの目が少し変わった。鋭くなった、というより、集中した感じだ。
「クロヴェルがどうかした」
「先週、息子のダリウスが来た。支援を申し出るという名目で」
「断ったか」
「体よく断った。でも次は別の手を使ってくる気がする。だから事前に知っておきたい」
レインがしばらく黙った。ランプの火が揺れた。
「クロヴェル侯爵は、魔法省の副長官を兼任している。宮廷での発言力は大きい。ただ——」
レインが少し間を置いた。
「最近、国王陛下との距離が開いていると学院でも言われている。陛下が平民出身の魔法師を重用し始めたことを、クロヴェルは快く思っていない」
「それは知らなかった」
「表には出ない話だ。ダリウス本人は——」
レインが少し考えるように目を伏せた。
「学院での評判は悪くない。父親のやり方とは少し違うと言う者もいる。ただ、父親に逆らえるかどうかは別の話だ」
エリナはその情報を頭に入れた。
国王陛下とクロヴェルの距離が開いている。平民出身の魔法師を重用している。
これは使える情報だ。
「ありがとう」
「礼はいい」とレインが言った。
「ただ——」
少し止まった。続きを選んでいる感じだ。
「無理をするな」
エリナが顔を上げた。
「七歳で、一人で、クロヴェル家を相手にしようとしている」
レインの声は平坦だった。でも平坦さの下に、何かがあった。
「仲間がいても、限界がある。無理をして潰れるのは合理的じゃない」
エリナはしばらくレインの顔を見た。
この人は今、心配をしている。そういう顔だ。でも心配という言葉を使わない。合理的じゃない、という言葉に変換して言った。
なぜかそれが、ひどく自分に似ていると思った。
「わかってる」とエリナは答えた。
「無理はしない。でも止まりもしない」
「それを無理という」
「進む速さを調整するだけ。止まることとは違う」
レインが少し黙ってから、言った。
「……頑固だな」
「よく言われる」
「誰に」
「マリオに」
「そうか」
また沈黙があった。でも不快じゃない。雨の音が続く。ランプが揺れる。
エリナはふと思った。この静かな時間が、妙に落ち着くのはなぜだろう。
考えて、すぐに結論を出した。
余計なことを言わない人間と一緒にいると、自分も余計なことを考えなくて済むから。効率がいい。
それだけのことだ。
それだけのことだ、とエリナは二度、心の中で繰り返した。
翌朝、雨が上がった。
レインは朝食を食べてから立つ準備をした。荷物は少ない。動作に無駄がない。
戸口で振り返った。
「消毒液、五個もらえるか」
「四十ルシェ」
「払う」
エリナは棚から小瓶を五個取り出して、布に包んだ。レインが銀貨を置いた。数を確認せずに受け取った。この人が誤魔化すとは思えなかった。
レインが布包みを鞄に入れた。それから少し間があった。
「また来る」
前回と同じ言葉だった。でも今回は少し違う言い方だった。前回は「来るかもしれない」だった。今回は「来る」だった。
エリナはその違いに気づいたが、特に何も言わなかった。
「消毒液の次は何を作る」
「膏薬。それから、もう少し濃度の高い解熱薬」
「見せてくれ」
「できたら売る」
「買う」
それだけ言って、レインは歩き出した。
今度は振り返らなかった。
エリナは戸口に立ったまま、その背中が路地の角を曲がって見えなくなるまで見ていた。
なぜ見ていたのか。
自問して、答えが出なかった。
珍しいことだった。エリナはたいていのことに、すぐ答えが出る。でも今朝の自分の行動には、合理的な説明がつかなかった。
……まあいい。
結論を保留にして、台所に戻った。膏薬の材料を並べながら、頭の中で今日の作業を組み立て始めた。
でも不思議と、作業の端っこに、路地の角の映像が残っていた。
薄汚れた旅装束と、小さな革鞄と、新しい麻紐で直した靴底。
エリナはそれを頭から追い出そうとして、追い出せなかった。
効率が悪い。
そう思いながら、それでも少し、口の端が上がっていた。
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