7話 ダリウスの影
噂というのは、水のように低いところへ流れる。
そしてある程度溜まると、今度は高いところへ逆流する。
ルシェムで石鹸と薬草薬が広まり始めてから二ヶ月。エリナの名前は市場の主婦たちの口から隣町へ、隣町から街道沿いの宿場へ、宿場から行商人の荷馬車へと乗り移って、気づけば王都の商人ギルドの耳にまで届いていた。
エリナはそれを、グレンから聞いた。
「王都から来た男が、お前のことを聞いてたぞ」
朝の市場で声をかけてきたグレンの表情が、いつもより硬かった。エリナは手を止めた。
「どんな男?」
「商人とは言ってたが、目つきが商人じゃなかった。聞き方が妙に細かくてな。お前が何を作ってるか、誰と一緒にやってるか、家族はいるか——そういうことを」
エリナの頭の中で、何かが静かに警戒音を鳴らした。
「その男、今もいる?」
「昨日の夕方に馬車で帰ったよ。でもな——」
グレンが声を落とした。
「馬車に紋章がついてた。見覚えのある紋章だ。クロヴェルの家紋だった」
エリナは表情を変えなかった。
意識して、変えなかった。
家に戻って、台所に座った。
母はまだ仕事に出ていた。部屋には誰もいない。
エリナは膝の上で手を組んで、静かに考えた。
クロヴェル家がこちらの動きを把握した。これは想定より早い。エリナはまだ七歳で、商売の規模もルシェム周辺に留まっている。脅威と判断するには小さすぎるはずだ。
では、なぜ今、動いた。
可能性は二つ。一つは、アッシュフォードという名前に反応した。もう一つは、魔法なしで衛生状態を改善しているという報告が何らかの形でクロヴェルの耳に入り、その背景を調べた。
どちらにせよ、結論は同じだ。
見られている。
前世のエンジニアとしての習性が、リスク評価を自動的に始めた。現状の脅威レベル、取れる対策、最悪のシナリオ。
最悪のシナリオ——クロヴェル家が母の存在を使って圧力をかけてくる。
エリナの胸の奥で、冷たいものが動いた。怒りではない。恐怖でもない。もっと静かで、もっと根の深いもの。
お母さんには、絶対に傷をつけさせない。
その日の夜、エリナはマリオを呼んだ。
路地の隅に二人で座って、声を落として話した。
「クロヴェルの人間が調べに来た。今後、私たちの動きを誰かに聞かれても、答えなくていい」
マリオが眉を寄せた。
「クロヴェルって、あの大貴族の? なんでそんなところが」
「私の家を潰した家だから」
短く答えた。マリオが黙った。エリナがその話を自分からしたのは、初めてだった。
「……知ってたのか、それ」
「ずっと知ってた」
「それで商売始めたのか」
「それだけじゃない。でも、理由の一つではある」
マリオがしばらく地面を見ていた。それから顔を上げた。目に、珍しく真剣な光があった。
「俺に何かできることがあるか」
「ある。今日から、見慣れない人間が町に来た時は教えて。グレンさんにも同じことを頼む。商売の話を聞きに来た人間には、私が直接対応する。お母さんには近づけない」
「わかった。他には?」
「今のところはそれだけ。でも——動くかもしれない。近いうちに」
「どこへ」
「王都へ」
マリオがまた黙った。今度は長い沈黙だった。
「一緒に行くよ」
「危ないよ」
「知ってる」
「お父さんに怒られる」
「説得する」
エリナはマリオの顔を見た。七歳の子どもの顔だ。でも目だけは本気だった。
この人は、本当に律儀だ。
「……ありがとう」
マリオが少し照れたように頭を掻いた。
翌週、二度目の使者が来た。
今度は調査ではなかった。
市場の入り口に、上等な馬車が止まった。御者が二人、供が一人。そして馬車から降りてきたのは、二十代半ばほどの男だった。
整った顔立ち。仕立ての良い上着。腰に魔法師の証である銀の留め金がついたベルト。すべてが「貴族」と書いてあるような存在感だった。
男はまっすぐエリナの元へ歩いてきた。
エリナはマルタの店の前で豆のペーストの補充をしていた。男が近づいてくるのを、ずっと視界の端で追っていた。逃げなかった。逃げる必要はない。
「エリナ・アッシュフォード嬢か」
男の声は穏やかだった。丁寧だった。でもその穏やかさの下に何があるか、エリナにはわかった気がした。
「そうです」
「私はダリウス・クロヴェルという。父がかつてお父上と同じ宮廷に仕えた。ご挨拶に伺った」
周囲の視線が集まってきた。貴族がルシェムの市場に来るのは珍しい。ましてや子どもに話しかけている。
エリナは籠を持ち直して、ダリウスを正面から見た。
整った顔だ。笑っている。でも目が——少し違う。笑い方と目の動きが、微妙にずれている。この人は今、何かを測っている。
「ご丁寧にありがとうございます」
エリナは礼儀正しく返した。
「でも私は今、仕事中ですので」
「ああ、邪魔をするつもりはない。少し話せないか。時間は取らせない」
断る理由を作れない言い方だった。計算された言葉の選び方だ。
エリナは頷いた。
市場の端、人気が少ない場所でダリウスと向き合った。
近くで見ると、年齢は十六か十七くらいだとわかった。整った顔の中に、どこかまだ少年の名残がある。でも目だけは大人だ。
「噂を聞いた。魔法を使わずに石鹸と薬草薬を作り、町の衛生を改善していると。素晴らしいことだと思って、直接会いに来た」
「ありがとうございます」
「どこでそのような知識を」
「自分で考えました」
「七歳で?」
「年齢は関係ないと思います」
ダリウスがわずかに目を細めた。エリナの答え方を測っている。エリナはその視線を正面から受け止めた。
「うちの父が、あなたに興味を持っている。才能ある人間を支援したいと言っている。もしよければ、王都で活動する機会を作れるかもしれない」
これが本題だ、とエリナは思った。
支援。美しい言葉だ。でも「クロヴェル家の管理下に入れ」という意味でもある。エリナがどれだけの知識を持っているか、何を考えているか、近くに置いて監視する——あるいはその知識を取り上げる。
どちらにせよ、受けてはいけない話だ。
でも——断り方を間違えると、別の手段を使ってくる。
エリナは少し考えてから、答えた。
「とても嬉しいお申し出です。ただ、今は母の体調が優れず、離れることが難しい状況で」
「お母上が? それは心配だ。治癒魔法師を手配することもできるが」
「ご好意はありがたいのですが、母は見知らぬ方に診ていただくのを好みませんので」
ダリウスが微笑んだ。
「そうか。では落ち着いたら、また話を聞いてほしい」
「はい。その時は是非」
社交辞令を社交辞令で返した。ダリウスはそれを知っている。エリナも、ダリウスが知っているとわかっている。それでも二人は笑顔のまま、会話を終えた。
ダリウスが馬車へ戻りながら、一度振り返った。
「アッシュフォード嬢」
「はい」
「お父上は、優秀な方だったと聞いている」
エリナは表情を動かさなかった。
「存じております」
「ではまた」
馬車が走り去った。御者が鞭を入れる音が遠ざかる。石畳の上に、蹄の音だけが残った。
その夜、エリナはなかなか眠れなかった。
天井を見上げながら、ダリウスの目を思い出した。
あの目は——単純な悪意ではなかった。それが、むしろ厄介だとエリナは思った。純粋な悪意なら、対処法は単純だ。でも、複雑なものを抱えた人間は、行動が読みにくい。
お父上は優秀な方だったと聞いている。
あの言葉の意味は何だ。
揺さぶりか。それとも——本当に何か知っているのか。
エリナは目を閉じた。前世の記憶の中から、交渉の原則を引っ張り出す。
情報が少ない時は、動かない。動く前に、もっと知る。
今のエリナに必要なのは、クロヴェル家の内側の情報だ。表向きの動きではなく、宮廷での立ち位置、父親との関係、ダリウス自身が何を考えているか。
それを知る方法が、一つある。
レイン。
王立魔法学院の生徒で、王都を知っている。情報を持っているかもしれない。
次に会った時に、聞いてみよう——エリナはそこまで考えて、少し止まった。
次に会った時、というのを今、自然に考えた。
それが何を意味するかは、考えなかった。考える必要もないことだと判断した。
ただ、消毒液の完成を、少し急ごうと思った。
それだけだ。
それだけのことだ。
ランプも消えた暗い部屋で、エリナはようやく目を閉じた。
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