86話 十月と、それぞれの秋
十月になった。
秋が深まった。
朝の空気が、指先に刺さるような冷たさを持ち始めた。
エリナは毎朝、台所の窓を開けて、今日の空気を確認した。
今日は、昨日より少し冷たい。
でも、気持ちよかった。
冷たい空気が、気持ちよく感じるようになったのは、いつからだろう。
考えて、わからなかった。
気づいたら、そうなっていた。
十月になって、ベルトが作業場に来て一ヶ月が経った。
エリナはベルトに言った。
「一ヶ月、経ちました。続けてもらえますか?」
「続ける」
「ありがとうございます」
「合っていた。山の仕事と、似ているところが多い。丁寧にやれば結果が出る。それが、俺には合う」
「ルナは、どう思っていますか?」
エリナがルナに聞いた。
「合っている。薬草の扱いが、最初より丁寧になった。山を知っている人間は、植物の気持ちがわかる」
「植物の気持ち、ですか?」
「そういうものがある。急かすと、うまく育たない。待てば、ちゃんと育つ。そういうことを、山にいるとわかる」
十月に入ってから、各町からの手紙が届いた。
マグダから。
エリナちゃん、元気かい。
子どもたちへの石鹸の使い方を教える活動、続いている。今月で半年になった。
一つ、嬉しいことがあった。最初に教えた子どもたちが、今度は自分より小さい子どもに教えるようになった。子どもが子どもに教える連鎖が始まった。
これが続けば、教えなくても広まる。そういうものになってきた気がする。
――マグダ――
エリナはマグダの手紙を読んで、少しだけ止まった。
子どもが子どもに教える。
連鎖が始まった。
誰かが意図したわけではない。
でも、始まった。
マグダさんへ
子どもが子どもに教える連鎖が始まった、という話を読んで、少しだけ止まりました。
これは、一番強い形だと思います。教える人がいなくなっても、続いていく。そういうものになった時、本当に広まった、と言えると思います。
マグダさんが始めてくれた活動が、そこまで来た。ありがとうございます。
――エリナ――
シェナから手紙が来た。
エリナ殿へ
新しい薬草の供給を始めて、三ヶ月が経ちました。
今月の事例報告です。長引く咳への効果が確認された事例が、累計で四十二件になりました。副作用の報告は、引き続きありません。
ルナさんと話し合って、来月から供給量をさらに増やすことにしました。
一つだけ、個人的なことを書きます。
この薬草を見つけた時、ルナさんに相談しました。「まだ安全かどうか確認できていない」と言ったら、「急がなくていい。確かめてから使う」と言ってくれました。その言葉があったから、慎重に進められた。
その結果が、今の四十二件だと思っています。
――シェナ――
エリナはシェナの手紙を読んで、ルナを呼んだ。
「シェナから手紙が来た。四十二件の事例が確認されました」
「そう」
ルナが棚を見ながら言った。
「副作用も、引き続きなし」
「良かった。でも、まだ続ける。もっと多くの事例を見てから、安全だと言いたい」
「急がない、ですね」
「そう。四十二件は、まだ少ない。でも、良い始まり」
「シェナが、ルナの言葉が大事だったと書いていました。急がなくていい、確かめてから使う、という言葉が、慎重に進める支えになったと」
ルナが少しだけ、エリナを見た。
「そう。言葉が、届いていたんだ」
「届いていました」
「なら、よかった」
ジルカから手紙が来た。
エリナ殿へ
消毒液の供給を増やして、半年が経ちました。
漁師たちの間で、消毒液を使うことが、当たり前になってきています。以前は「使い方がわからない」と言っていた人が、今は自分で使っています。
一つ、伝えたいことがあります。先月、漁に出た時に怪我をした漁師がいました。以前なら、傷が膿んで仕事ができなくなっていたかもしれない怪我でした。でも、すぐに消毒液を使ったから、三日で仕事に戻れました。
その漁師が言っていました。「この液がなかったら、一ヶ月は休んでいた」と。
その言葉を、そのまま届けたいと思って、書きました。
――ジルカ――
エリナはジルカの手紙を読んで、少しだけ目が熱くなった。
この液がなかったら、一ヶ月は休んでいた。
数字ではなかった。
一人の漁師の言葉だった。
でも、その言葉が、数字より重かった。
ジルカさんへ
漁師の方の言葉を、そのまま届けてくれてありがとうございます。
一ヶ月は休んでいた、という言葉の重さを、受け取りました。
こういう言葉が届くたびに、続けることの意味が確かめられます。ジルカさんが届けてくれるから、確かめられます。
来年も、続けましょう。
――エリナ――
ダリウスからも、この月に手紙が来た。
エリナ・アッシュフォード殿へ
宮廷の動きについて、定期報告をする。
今月は、大きな動きはなかった。魔法省の文書が出たことで、新たな規制案を検討していた動きは、完全に止まっている。
一つだけ、気になることがある。
アッシュフォード商会の名前が、宮廷内で以前より良い文脈で語られることが増えてきた。以前は、規制すべき対象として語られることが多かった。今は、成功事例として語られることが増えた。
これは、良いことだが、気をつけるべきことでもある。注目が増えれば、また別の動きが出てくる可能性がある。
引き続き、見ていく。
――ダリウス・クロヴェル――
エリナはダリウスの手紙をゴードンに見せた。
「成功事例として語られるようになった、というのは、確かに良いことですが、ダリウスが言う通り、注目が増えることの危うさもありますね」
「そうですね。目立つことが、必ずしも良いことではない」
「でも、今の状態は、三つの書類が揃っている。それが防御になります」
「準備しておいたことが、意味を持つ、ということですね」
「そうです。準備は、何かが起きてからでは遅い。起きる前にやっておくことが、大事です」
「ゴードンさんが、数字を積み上げてきてくれたことが、準備だったんですね」
「エリナさんが方向を決めてくれたから、積み上げられました。いつものことですが」
レインからも手紙が来た。
エリナへ
先月の魔法師団長への報告が、受け入れられた。前期の成果として、感染率の低下が正式に記録された。後期の準備も、順調に進んでいる。
師匠が、ルナ殿から送られてきた薬草のサンプルを確認した。学院でも、試験的な使用を始める方向になった。
それから、個人的なことを一つ。
秋の図書室は、夏より少し静かだ。光の入り方が変わって、静かな感じになった。
お前から届いたメモを、また読んだ。
待つことと、続けることは、似ているかもしれない。
今も、そうだと思っている。冬が来るのを、待ちながら、続けている。
――レイン――
エリナはレインの手紙を読んで、「冬が来るのを、待ちながら、続けている」という一行を少しだけ見た。
自分も、同じだった。
冬が来るのを、待ちながら、続けている。
レインへ
師匠のサンプルの確認が進んでいること、ルナに伝えます。ルナが喜ぶと思います。
「冬が来るのを、待ちながら、続けている」という言葉を受け取りました。
私も、同じです。
今月、マグダさんから子どもが子どもに教える連鎖が始まったと聞いた。ジルカさんから漁師の言葉を届けてもらった。シェナから四十二件の事例が届いた。ダリウスが宮廷の動きを教えてくれた。
全員が、それぞれの場所で、続けていた。
続けることが繋がること、という言葉を、今月また確かめました。
冬を楽しみにしています。
――エリナ――
手紙を書き終えて、エリナは少しだけ机の前で考えた。
今月届いた手紙を、頭の中で並べた。
マグダ。シェナ。ジルカ。ダリウス。レイン。
五人が、五つの場所から、五つの違う話を届けてくれた。
でも、全部が同じ方向を向いていた。
続けていること。
続けてきたことが、形になっていること。
そして、また続けていくこと。
その夜、エリナはフィオナの家に行った。
珍しいことだった。
いつもは、フィオナが長屋に来た。
でも、今日はエリナから行きたかった。
フィオナが驚いた顔をした。
「珍しいな。来たのか」
「来ました」
「どうした?」
「特に用事はありません。でも、来たかった」
フィオナが少しだけ笑った。
「そう、入って」
台所に入った。
フィオナが薬草茶を作った。
フィオナの庭の薬草で作った茶だった。
「これが、庭の薬草ですか?」
「そうだ。ルナが選んでくれた、眠りを助けるやつを少し混ぜた」
「いい匂いですね」
「そうだろ? 帰ってきた時に、この匂いがすると、落ち着く」
二人で、薬草茶を飲んだ。
特に、大事な話はしなかった。
フィオナが今日の王都からの手紙の話をした。
エリナが今月届いた各町からの手紙の話をした。
話しながら、エリナは思った。
こういう時間が、最近増えていた。
仕事の話でも、戦略の話でもなく、ただ話す時間。
以前は、話すことには必ず目的があった。
情報を共有する。方針を決める。問題を解決する。
でも最近は、ただ話したいから話す、という時間が増えていた。
「フィオナ」
「何?」
「こういう時間が、最近増えた気がします」
「どういう時間だ」
「特に目的がない時間。ただ話す時間」
「それが、変わったことの一つだな」
「そうですか」
「以前のあなたは、目的のない時間を持てなかった。常に次のことを考えていた。今は、ただここにいる時間がある」
「それが、変わったことですか?」
「大事な変化だと思う。目的なしにここにいられることが、ここが本当に自分の場所になった証拠だと思うから」
エリナは、フィオナの言葉を受け取った。
目的なしにここにいられること。
それが、本当に自分の場所になった証拠。
フィオナ自身も、今日の自分のような状態になっているのかもしれない。
「フィオナも、そうなっていますか。ルシェムで」
「少しずつ。来るたびに、目的なしでいられる時間が増えている気がする」
「気づいたらそうなっていた、という形で」
「そうだな。あなたのお母さんの言葉が、また当てはまった」
帰り道、エリナはルシェムの夜道を歩いた。
五分の道だった。
でも、今日は少しゆっくり歩いた。
秋の夜の空気が、冷たくて、きれいだった。
星が出ていた。
見上げた。
たくさんの星が、見えた。
以前は、夜空を見上げることがあまりなかった。
今日は、見たかったから、見た。
それだけのことだった。
長屋に戻って、短いメモを書いた。
今日、目的なしにフィオナの家に行った。
目的なしに行けること。それが、本当の場所になった証拠だとフィオナが言った。
帰り道、星を見た。見たかったから、見た。
それが、今日一番大事なことだった気がする。
書いて、引き出しに入れた。
ランプを吹き消した。
エリナ・アッシュフォード、九歳。
今日、目的なしにフィオナの家に行って、星を見た。
それが今夜、一番大事なことだった。
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