85話 ベルトと、新しい手
九月の終わりに、マリオがベルトを連れてきた。
午前中のことだった。
エリナが作業場で石鹸の型を確認していると、マリオが声をかけてきた。
「ベルトさんを連れてきた」
振り返ると、マリオの後ろに、大柄な男が立っていた。
五十代くらいだった。
日に焼けた顔。大きな手。静かな目。
グレンに少し似た雰囲気があった。
「ベルトです」
男が短く言った。
「エリナ・アッシュフォードです。以前、迂回路で助けてもらいました」
「覚えている。石鹸を運んだ」
「そうです。あの時は、ありがとうございました」
「仕事だったから」
ベルトが短く言った。
作業場に通した。
ベルトが、ゆっくりと棚を見た。
石鹸の型を見た。薬草の瓶を見た。蒸留器を見た。
何も言わなかった。
でも、目がちゃんと見ていた。
「どう思いますか?」
「きれいに作っている」
「ありがとうございます」
「山の仕事と、似ているところがある」
「どういう意味ですか?」
「手を抜くと、すぐにわかる。石鹸も、薬草も、丁寧にやらないと、質が落ちる。山の獲物と同じだ。丁寧にやれば、ちゃんと結果が出る」
ルナが棚の整理をしていた。
ベルトが、ルナの方を見た。
「あなたが、薬草を担当しているのか?」
「そう」
「山の薬草を、採取するのか?」
「する」
「どの辺で採っている?」
ルナが、いくつかの場所を説明した。
ベルトが静かに聞いていた。
話が終わると、ベルトが言った。
「その場所は、知っている。でも、もう一カ所、知らないかもしれない場所がある」
「どこ?」
「北の沢の上の方。日当たりが少ないから、夏でも冷たい。冷たい場所にしか育たない薬草がある」
ルナが少しだけ、目を動かした。
「見たことがない場所」
「知っているなら、一度連れて行く」
「行く」
ルナが即答した。
エリナはその会話を聞いていた。
ルナが即答した。
ルナが即答することは、珍しかった。
マリオが後でエリナに言った。
「ベルトさんと、ルナ、合いそうだな」
「そうですね」
「あの二人、似ているところがある」
「どういうところが?」
「言葉が少ない。でも、大事なことしか言わない。それと、現場を知っている。机の上じゃなくて、実際に見てきた人間だ」
「それが、合う理由ですね」
「そう思う」
ベルトに、冬の間の作業場の手伝いについて話した。
「冬になると、猟の仕事が少なくなる。その間、作業場を手伝ってもらえないかと思っています」
「何をするんだ」
「石鹸の製造の補助と、薬草の仕分けです。細かい作業が多い」
「手先は器用だ。でも、やったことがない仕事だ」
「最初は、ルナに教えてもらいながらでいいです。ゆっくり覚えてもらえれば」
「ゆっくりでいいのか?」
「急がなくていいです。でも、一緒にやっていけるかどうかを、お互いに確認したい。まず一ヶ月、試してみませんか?」
「一ヶ月、試す。それで、合えば続ける。合わなければ、やめる」
「それでいいです」
「正直でいい」
「ベルトさんも、正直だと思います」
「そういうもんだ。嘘をついても、山では意味がない。山は正直だから、こちらも正直でないといけない」
翌日から、ベルトが作業場に来た。
最初の日は、ルナに作業場の説明を受けた。
ルナが、いつもより少し多く話した。
ベルトは、黙って聞いた。
時々、短い質問をした。
「これは、どのくらいの温度で作るのか」
「この薬草は、乾燥させるのに何日かかるのか」
「この石鹸は、何に使うものか」
ルナが答えた。
二人の会話は、短かった。
でも、中身があった。
エリナはその様子を、少し離れた場所から見ていた。
ルナが、ベルトに説明している。
以前、シェナが最初に来た時の様子を思い出した。
ルナは、自分が知っていることを、知りたい人には惜しみなく話す。
それが、ルナという人間だった。
三日目の夕方、ベルトが帰り際に言った。
「一つ、聞いていいか?」
「どうぞ」
「この仕事は、なぜやっているんだ?」
「どういう意味ですか?」
「石鹸を作って、薬草薬を作って、それを各地に届ける。それが、なぜ必要なのか」
エリナは少しだけ考えた。
「魔法が届かない場所があるから、です。怪我をした時、病気になった時、魔法師がいれば助けてもらえる。でも、魔法師がいない場所では、助けてもらえない。そういう場所に、別の方法を届けたい」
「別の方法」
「石鹸で手を洗えば、病気が減る。傷に消毒液を使えば、膿まない。薬草薬で、咳が和らぐ。魔法でなくても、できることがある。それを、届けたい」
ベルトが少しだけ黙った。
「山でも、同じことがある」
「どういう意味ですか?」
「山で怪我をした時、医者がいない。魔法師もいない。だから、自分で対処する。傷の手当ての仕方を、山に入る前に覚えておく。それが、山の仕事をする人間の常識だ」
「そうなんですね」
「でも、知らない人間は多い。だから、怪我が膿んで、大事になることがある。俺は、何人かそういう人間を見てきた」
「石鹸と消毒液が、そういう場所にも届くといい」
「そのために、この仕事をしているのか」
「それが、理由の一つです」
ベルトが少しだけ頷いた。
「わかった、続ける」
一週間が経った。
ベルトは、毎日来た。
遅れたことは、一度もなかった。
作業は、最初は遅かった。でも、三日目から少しずつ速くなった。
ルナが言っていた。
「手先が器用。植物の扱いも、丁寧」
「合いそうですか?」
「合う。山を知っている人間は、植物を大事にする。植物を大事にする人間は、薬草の仕事が合う」
「ベルトさんが続けてくれると、助かります」
「続けると思う。あの人は、やると決めたら、やる人間だ。見ていてわかった」
「どうしてわかりましたか?」
「作業の途中に、手を抜かない。誰も見ていなくても、手を抜かない人間は、続ける人間だ」
マリオに報告した。
「ベルトさん、うまくやっているみたいだな」
「そうです。ルナが合う、と言っていました」
「ルナがそう言うなら、間違いない。ルナの目は、正確だから」
「マリオが連れてきてくれたから、この出会いがありました」
「俺は、市場で顔を作っておいただけだよ。迂回路の時に、ベルトさんを知っていたのも、偶然だ」
「偶然から、必要な出会いが生まれた」
「そういうことが、よくある。美味しかったから来た、みたいな話だよ。最初は小さいことだけど、続けていると、大事なことに繋がる」
「マリオが、また大事なことを言いましたね」
「たまに言う。たまにだから、重いんだろ」
フィオナに、ベルトのことを話した。
「新しい人が入ったの?」
「一ヶ月、試している段階です」
「どんな人?」
「言葉が少ない。でも、大事なことしか言わない。手先が器用で、山を知っている」
「ルナと相性が良さそうだ」
「そうなっています」
「そういう出会いは、大事にした方がいい。商会が大きくなっていく時に、新しい人間が入ってくる。その人間がどういう人かで、これからが変わる」
「ベルトさんは、正直な人だと思っています」
「正直な人間を選べるのは、あなたが正直だからだと思う。正直な人間は、正直なところに集まる」
「それは、フィオナも同じですね」
「どういう意味?」
「フィオナが、ルシェムに来たのも、同じことかもしれない」
フィオナが少しだけ止まった。
「そうかもしれない。あなたが正直だから、来た。それが理由の一つかもしれない」
その夜、エリナはレインへの手紙を書いた。
レインへ
新しい仲間が増えました。ベルトという人です。以前、流通が止まった時に迂回路を手伝ってくれた猟師の方です。
言葉が少ない。でも、大事なことしか言わない。ルナと相性が良いです。
『山は正直だから、こちらも正直でないといけない』と言っていました。その言葉が、今日一番大事な言葉でした。
フィオナが言いました。正直な人間は、正直なところに集まる、と。
そうだとしたら、ルシェムは、正直な場所になってきているのかもしれません。
秋が深まっています。冬が、近づいています。
――エリナ――
書いて、封をした。
「正直な場所になってきているのかもしれません」という一行を、書いてから少しだけ見た。
最初に豆のペーストを作った時から、ずっと正直にやってきた。
それが、正直な人間を集めてきた。
そういうことかもしれない。
ランプを吹き消した。
秋の夜が、窓の外にあった。
新しい人間が、作業場に来ている。
少しずつ、ここが大きくなっている。
でも、大事なことは変わっていない。
エリナ・アッシュフォード、九歳。
今日、ベルトが一週間続けた。
山は正直だから、こちらも正直でないといけない。
その言葉が、今夜も頭に残っていた。
それが今夜、一番大事なことだった。
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