83話 魔法省の文書と、積み上がるもの
八月の半ばになった。
夏の暑さが、少し和らぎ始めていた。
朝の空気に、秋の予感が混じり始めた。
エリナは毎朝、窓を開けて空気を確認した。
今日は、昨日より少し違う。
季節が、また動き始めていた。
フィオナが帰ってきてから一週間で、動きが進んだ。
まず、フィオナがアルバ殿下に連絡を入れた。
魔法省の正式な支援文書を、いつまでに出してもらえるか確認してほしい、という内容だった。
三日後、殿下から返事が来た。
エリナ殿、フィオナ殿へ
魔法省副長官と話した。今月中に、正式な文書を出すことが確認できた。
内容は、「王立魔法学院における衛生教育、および民間衛生用品の普及活動を、魔法省として支持し、その継続を推奨する」というものになる予定だ。
これが出れば、新たな規制案が提出されても、魔法省自身の文書と矛盾することになる。矛盾する規制案を通すのは、難しくなる。
今月末を目処に動く。
――アルバ・ヴァルデリア――
フィオナが手紙を持ってエリナの部屋に来た。
「読んだ?」
「読みました」
「今月末。思っていたより早い」
「殿下が動いてくれたから」
「それだけではない、副長官が動いた。副長官が、自分から積極的に動こうとしている、ということが大きい」
「前の副長官とは、違いますね」
「全然違う。前の副長官は、クロヴェルの意向に沿って動いていた。今の副長官は、学院の成果を見て、本当に意味があると思って動いている」
「数字が届いたから、ですね」
「そうだと思う。ゴードンさんが積み上げてきた数字が、副長官の判断を動かした」
ゴードンに伝えた。
「今月末に、魔法省の正式な文書が出ます」
「そうですか」
ゴードンが少しだけ、帳簿から目を上げた。
「それは、大事なことですね」
「文書が出たら、すぐに学院とベルダンとダリウスに共有したい。それと、各町の現場責任者にも」
「わかりました。文書が届いた時点で、すぐに写しを作ります」
「よろしくお願いします」
「一点だけ」
「何ですか?」
「この文書が出たことを、王宮の定期報告に記録しておくことが大事です。何がいつ起きたかの記録として」
「そうですね。記録は、消えない」
「そうです。今、いくつもの記録が積み上がっています。クロヴェル家の方針転換。魔法省の支援文書。学院の採用記録。薬屋の第三者データ。これらが全部、事実として残る。残ったものは、覆しにくい」
「ゴードンさんが、一年以上かけて積み上げてくれた数字が、全部そこにある」
「エリナさんが動いたから、積み上げられた数字です。でも、今日は少しだけ、自分の仕事が形になってきたと感じています」
マリオに伝えると、短く言った。
「よし!」
「よし、だけですか?」
「よし、で十分だろ。難しいことはわからないけど、大事なことが進んでいる、ということはわかる」
「そうです」
「俺は、市場で顔を作り続ける。それが俺の仕事だから大きなことが動いている時も、小さいことを続ける」
「それが、一番大事なことの一つです」
「知ってる。でも、言ってくれると、確かめられる」
ルナに伝えた。
「魔法省の文書が出ます。今月末に」
「そう」
ルナが薬草の棚を見ながら言った。
「どう思いますか?」
「いいこと。でも、それより今日の薬草の状態の方が気になっている」
「今日の薬草の状態が、ですか」
「そう。大きなことが動いていても、植物は毎日変わる。今日の変化を見ておかないと、明日に影響する」
「ルナは、変わらないですね」
「変わらない。それが私の仕事だから」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。エリナは、大きなことを動かす。私は、小さいことを続ける。両方が必要だ」
八月の末、魔法省の正式な文書が届いた。
アルバ殿下が約束した通りだった。
羊皮紙に、魔法省の印が押されていた。
副長官の署名があった。
内容は、殿下が伝えてくれた通りだった。
「王立魔法学院における衛生教育、および民間衛生用品の普及活動を、魔法省として支持し、その継続を推奨する」
エリナはその文書を、机の上に置いて、少しだけ見た。
ゴードンが横に来た。
「届きましたね」
「届きました」
「写しを、いくつか作ります。学院、ベルダン、ダリウス、各町の現場責任者、それと王宮の定期報告に添付する用」
「お願いします」
「それと、原本は、どこに保管しますか?」
「ここに。ルシェムの、この事務室に置きます」
「わかりました」
ゴードンが写しを作り始めた。
エリナは原本をもう一度見た。
紙に書かれた言葉は、変わらない。
記録は、消えない。
フィオナが来た。
「届いた?」
「届きました」
エリナが文書を見せた。
フィオナが受け取って、読んだ。
少しだけ黙った。
「これで、三つが揃った」
「三つ、というのは?」
「品質基準がある。学院の採用記録がある。魔法省の支援文書がある。ゴードンさんが言っていた、根本を変えるための三つだ」
「そうですね」
「一つの規制案が来ても、この三つがある限り、突破するのは難しい。完全ではない。でも、以前より格段に強くなった」
「フィオナが動いてくれたから、今月中に届きました」
「私だけではない。アルバ殿下が動いてくれた。副長官が動いてくれた。レインの師匠が学院での実績を作ってくれた。ゴードンさんが数字を積み上げてくれた。それが全部あって、この文書が出た」
「そうですね、一人では届かなかった」
「一人では届かないものが、届いた。それが、今日の話だと思う」
その夜、全員で夕食を食べた。
セレーナ、マリオ、ルナ、ゴードン、フィオナ、エリナ。
今日は、特別に手の込んだ料理ではなかった。
でも、いつもと少し違う夕食だった。
マリオが言った。
「今日、大事なことが届いたんだろ?」
「そうです」
「わかった! じゃあ、乾杯しよう」
「乾杯?」
「たまには、いいだろ? みんなが揃っているんだから」
セレーナが湯呑みに薬草茶を注いだ。
全員が、湯呑みを持った。
「何に乾杯する?」
マリオが言った。
少しだけ間があった。
「続けてきたことに」
エリナが言った。
「続けてきたことに」
マリオが繰り返した。
「それがいい」
「続けてきたことに」
フィオナが言った。
「続けてきたことに」
ゴードンが静かに言った。
「続けてきたことに」
セレーナが穏やかに言った。
ルナが少しだけ間を置いて言った。
「続けてきたことに」
全員が、湯呑みを合わせた。
食事が終わった後、エリナはレインへの手紙を書いた。
レインへ
今日、魔法省の正式な文書が届きました。写しを、学院にも送ります。ゴードンさんが準備しています。
今夜、全員で乾杯をしました。何に、と聞かれたので、続けてきたことに、と言いました。全員が、同じ言葉を繰り返してくれました。
ゴードンさんが、マリオが、ルナが、フィオナが、お母さんが、同じ言葉を言ってくれました。
あなたもその言葉の中にいると思っています。ここにはいなかったけれど、続けてきた人間の一人だから。
続けてきたことに、ありがとうございます。
――エリナ――
フィオナへの手紙も書いた。いや、フィオナは今日、同じ食卓にいた。
でも、今日感じたことを、言葉にしておきたかった。
フィオナに、直接言った。
「一つだけ、言っていいですか?」
「どうぞ」
フィオナが食器を片付けながら言った。
「フィオナがルシェムに拠点を作ってくれたことが、今日、大事だったと思っています」
「どういう意味で?」
「今日の乾杯に、フィオナがいた。それは、あなたがここにいるから起きたことです」
フィオナが少しだけ手を止めた。
「そう」
フィオナが静かに言った。
「ここにいてくれて、ありがとうございます」
「どういたしまして。私こそ、ここに居場所を作ってくれて、ありがとう」
「作ったのは、フィオナ自身です」
「でも、作れる場所があったのは、あなたたちがここにいたから。どちらも本当のことだ。だから、お互いにありがとうが言える」
ランプを吹き消した。
夏の終わりの夜が、窓の外にあった。
今日、魔法省の文書が届いた。
全員で、続けてきたことに、と乾杯した。
エリナ・アッシュフォード、九歳。
今日、三つが揃った。
続けてきたことが、形になった。
それが今夜、一番大事なことだった。
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