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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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82/120

82話 フィオナが帰ってきた日

 八月になった。

 夏の盛りが続いていた。

 ルシェムの朝は、起きた瞬間から暑かった。

 エリナは台所の窓を開けて、空気を確認した。

 今日も暑い。

 でも、昨日より少し風がある。

 それが、少し嬉しかった。


 フィオナがルシェムに帰ってきたのは、八月の第一週だった。

 王都に行ってから、三週間ほど経っていた。

 馬で来た。

 長屋の前に着いた時、エリナが外にいた。


「帰ってきた」


 フィオナが馬から降りた。

 エリナは少しだけ止まった。

 フィオナが「帰ってきた」と言った。

 以前は「来た」と言っていた。

 今日は「帰ってきた」だった。


「帰ってきましたね」

「そう。帰ってきた、という感覚が、今日は強かった」

「なぜですか?」

「王都から戻る道で、ルシェムが見えてきた時に、思った。帰ってきた、と。来た、ではなく」

「気づいたら、そうなっていた」

「そうかもしれない。あなたのお母さんの言葉が、また当てはまった」


 フィオナが自分の家に荷物を置いてから、長屋に来た。

 台所で、薬草茶を飲んだ。


「手紙に書けなかったことを、直接話したい」

「どうぞ」

「ダリウスのこと」

「王都で、何かありましたか?」

「会った」

「ダリウスに?」

「そう。向こうから来た。王都でのクロヴェル家の動きについて、直接話したいと言って」

「どんな話をしましたか?」

「権力の空白の話をした。アルバ殿下が手紙に書いていたことだ。クロヴェルが退いた後、誰かがその空白を埋めようとしている」

「ダリウスは、それを把握していましたか?」

「把握していた。それだけでなく、誰がどう動こうとしているかも、ある程度わかっていた」

「教えてくれましたか?」

「教えてくれた。だから、今日あなたに直接話しに来た。手紙では、書けないことだったから」


 フィオナが話し始めた。


「クロヴェルの空白を埋めようとしているのは、魔法省の中堅どころの官僚が中心になっている。クロヴェルとは直接の関係はなかったが、クロヴェルが作ってきた仕組みから利益を得ていた人間たちだ」

「その人たちが、次の動きを考えている」

「そう。具体的には、衛生教育への新たな規制を魔法省として設けようとしている。クロヴェルが試みた品質基準の話と、同じ方向だ。でも、今回は出所が違う」

「クロヴェルではなく、別の人間が動いている、ということですか?」

「そう。クロヴェルが降りたことで、反エリナの動きがなくなったわけではない。形を変えて続いている」


 エリナは少しだけ考えた。


「フィオナは、その動きをどう評価していますか?」

「深刻だと思う。クロヴェルの時は、誰が動いているかがわかっていた。でも今回は、複数の人間が散発的に動いている。ダリウスも、全員を把握できているわけではない、と言っていた」

「把握しにくい動きが、散発的に起きている」

「そう。一つを止めても、別の場所から来る可能性がある」


 ゴードンを呼んだ。

 フィオナの話を共有した。

 ゴードンが静かに聞いて、言った。


「以前のクロヴェルの動きと、構造が変わっています」

「どう変わっていますか?」

「以前は、中心がいた。クロヴェル侯爵という、明確な中心が。その中心を相手にすれば良かった。今は、中心がない。散発的に複数の場所から来る動きは、対処が難しい」

「どう対処しますか?」

「一つ一つに反応するのではなく、根本を変えることが必要かもしれません。品質基準がある、学院が採用している、魔法省が支援している。この三つが揃っていれば、一つの規制案が来ても、突破しにくい」

「今は、その三つが揃っていますか?」

「魔法省の正式な支援の文書が、まだできていません。学院の採用はある。品質基準もある。でも、魔法省の文書がまだない」

「それが、次にやるべきことですね」

「そうです。急いだ方がいいと思います」


 その日の夕方、フィオナとエリナとゴードンの三人で、対策を考えた。


「魔法省の文書を早期に得るには、アルバ殿下を通じるのが一番早い」

「殿下には、すでに動いていただいています」

「今回は、さらに具体的なお願いが必要だ。文書を、いつまでに出してもらえるか、確認する。私が直接動いてもいいか」

「お願いできますか?」

「できる。明日、殿下に連絡を入れる。それと、ダリウスにも動いてもらえることがある」

「何ですか?」

「宮廷内の動きを、私に定期的に教えてもらう約束をした。王都で話した時に」

「ダリウスが、そこまで動いてくれると言ったのですか?」

「言った。一緒に動く、という言葉を、あなたがダリウスに伝えた。それが、ダリウスに届いていた」


 エリナは少しだけ止まった。

 一緒に動く、という言葉が、届いていた。


「ダリウスが、自分から動いてくれるようになった」

「そう。一票を入れてくれた時から、ずっと変わってきた。でも、今回が一番大きな変化だと思う」

「なぜですか?」

「以前は、できることとできないことの範囲内で動いていた。でも今回は、自分から情報を共有して、一緒に対策を考えようとしている。それは、動く側に変わった、ということだ」

「動く側に変わった」

「そう。あなたが提案した一緒に動く、という言葉が、そういう形になった」


 マリオが事務室に顔を出した。


「フィオナさん、帰ってきたんだな」

「帰ってきた」

「王都はどうだった?」

「忙しかった。でも、大事な話ができた」

「大事な話か」


 マリオが少し顔を引き締めた。


「また何かあったのか?」

「新しい動きが出ている」


 エリナが言った。


「でも、対策も見えている」

「そうか。で、俺にできることはあるか?」

「今日は、ありません。でも、いつでも動ける状態でいてほしい」

「それは、いつも通りだな。任せてくれ」


 夜、全員で夕食を食べた。


 セレーナ、マリオ、ルナ、ゴードン、フィオナ、エリナ。


 フィオナが帰ってきた夜の、食事だった。

 ルナが言った。


「フィオナの庭の薬草、ちゃんと育っている」

「見てくれていたの?」

「毎日、水をやっていた」

「ルナが水をやってくれていたのね、ありがとう」

「植物は、ちゃんと世話をすれば、ちゃんと育つ。フィオナが帰ってくるのを、待っていた」

「待っていてくれた薬草か」

「そうだ。明日、見てきなさい。育っているから」

「明日の朝、見る」

「見た後に、少し摘むといい。今が、一番使いごろだから」

「使いごろ、というのは?」

「効能が一番強い時期だ。フィオナに必要なものが、今、一番必要な形になっている」


 食事が終わった後、フィオナとエリナが台所に残った。


「一つだけ、聞いていい?」

「どうぞ」

「今日、帰ってきた時に、帰ってきた、と感じた、という話をした」

「はい」

「あなたは、最初から、ルシェムが帰ってくる場所だった?」


 エリナは少し考えた。


「最初は、仮の場所だと思っていました。でも、気づいたら、帰ってくる場所になっていた」

「気づいた瞬間を、覚えている?」

「覚えていません。気づいたら、そうなっていた。お母さんが言っていた通りでした」

「私は、今日初めて、帰ってきた、と感じた。だから、あなたが気づいた瞬間を覚えていない、という意味が、今日初めてわかった気がする」

「どういう意味ですか?」

「気づいた瞬間がないのは、少しずつそうなっていったから、かもしれない。私も、今日突然そうなったわけではない。来るたびに、少しずつそうなっていた。でも、気づくのは、今日だった」

「そうかもしれません」

「あなたも、そうだったんだろう。少しずつ、気づかないうちに、ここが帰ってくる場所になっていった」

「そうでした」

「それが、自然なことの形だと思う。無理に作ろうとしたものではなく、自然になっていったもの。だから、本物だ」


 その夜、エリナはレインへの手紙を書いた。


 レインへ


 今日、フィオナが王都から帰ってきました。

「帰ってきた」と言いました。以前は「来た」と言っていたのに。その一言が、今日一番大事なことだった気がします。

 フィオナが王都でダリウスと話してきた。ダリウスが、宮廷内の動きを定期的に教えてくれると言ってくれた。一緒に動く、という言葉が、そういう形になった。

 新しい動きも出ています。魔法省の文書を早めに得ることが、次にやることです。フィオナが動いてくれます。

 ルナが、フィオナの庭の薬草に、毎日水をやってくれていました。フィオナが帰ってくるのを、植物が待っていたという話を、夕食の時にしてくれました。

 あなたに、届けたかった。


                                     ――エリナ――


 書いて、封をした。

 「あなたに、届けたかった」という最後の一行を、書いてから少しだけ見た。

 報告でも情報でもなかった。

 でも、届けたかった。

 それだけの理由で、書いた。

 ランプを吹き消した。


 夏の夜が、窓の外にあった。

 フィオナが帰ってきた夜だった。

 庭の薬草が、一番使いごろになっている夜だった。


 エリナ・アッシュフォード、九歳。


 今日、フィオナが「帰ってきた」と言った。

 それが今夜、一番大事なことだった。

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