80話 ダリウスが、来た
七月になった。
夏の盛りだった。
朝から日差しが強く、市場の人たちが日陰を選んで歩いていた。
エリナは台所の窓を開けた。
熱い空気が入ってきた。
でも、開けないと、もっと暑い。
そういう朝だった。
その日の午前中、エリナは作業場でゴードンと在庫の確認をしていた。
マリオが外から走ってきた。
息を切らしていた。
「エリナ」
「何ですか?」
「王都から、馬車が来ている」
「誰ですか?」
「クロヴェルの家紋がついている」
エリナは少しだけ、手を止めた。
「ダリウスですか?」
「たぶん。でも、もう一台、別の馬車がある。紋章がない。随行の人間だと思う」
「わかりました。迎えに行きます」
長屋の前に、二台の馬車が止まっていた。
ダリウスが降りてきた。
エリナは、ダリウスの顔を見て、少しだけ止まった。
前回ルシェムに来た時と、違っていた。
疲れていた。
顔色が良くない。
でも、目が違っていた。
前回は、迷いが入っていた。
今日の目は、迷っていなかった。
何かを決めた人間の目だった。
「来てくれましたね」
「急に来て、申し訳ない。手紙より、直接の方が良いと判断した」
「どうぞ、中に入ってください」
事務室に通した。
ダリウスの随行は二人だった。
長屋の外で待ってもらうことにした。
ゴードンが同席した。
マリオは外で待機した。
ダリウスが席に着いた。
エリナが向かいに座った。
「今日、ここに来た理由を、直接話したい」
「聞かせてください」
「二つある。一つ目は、報告だ。二つ目は、相談だ」
「順番に話してください」
ダリウスが話し始めた。
「一つ目の報告。クロヴェル家の方針について、先月、家内で正式に決定した」
「どういう内容ですか?」
「魔法省への影響力の行使を、大幅に縮小する。商人ギルドとの非公式な利権関係を、解消する。アッシュフォード商会の活動への干渉を、完全に停止する。これが、クロヴェル家の正式な方針になった」
エリナは、少しだけ黙った。
ゴードンも、ペンを持ったまま動かなかった。
「正式に、ということは?」
「書類として残る。覆すには、家内で再度の決定が必要になる。俺が一人で決めたことではなく、クロヴェル家として決めたことだ」
「家の中の反発は?」
「あった。今もある。でも、父が完全に退いたことで、俺の立場が強くなった。押し切れた」
「押し切れた、という言い方は」
「難しかった、ということだ。でも、やれた」
エリナは少しだけ考えた。
クロヴェル家が、正式に方針を変えた。
一票を入れてくれた時から、ここまで来た。
どのくらいの時間がかかったか、数えようとして、やめた。
「受け取りました。ありがとうございます」
「礼はいらない。俺がやるべきことを、遅すぎたがやっただけだ」
「遅すぎた、とは思いません」
「なぜだ」
「あなたが動けた時に動いた。それが、正しいやり方だと思います。急がなかったから、本物だった」
ダリウスが少しだけ、エリナを見た。
「……お前は、そういうことを言う」
「本当のことだから」
少しだけ間があった。
「二つ目の相談を、話していいか?」
「どうぞ」
「これは、クロヴェル家としての話ではなく、俺個人の話だ」
「聞かせてください」
ダリウスが少しだけ間を置いた。
「俺は、父が陥れた人間の娘と、どう向き合うべきかを、ずっと考えてきた」
「父上が、私の父を陥れた、ということですね」
「そうだ。倉庫を提供した。クロヴェル家の方針を変えた。それは、できることをやった。でも、それだけでは足りない気がしている」
「何が足りないと思いますか?」
「わからない。だから、相談に来た」
エリナは少しだけ考えた。
ダリウスが「わからない」と言った。
この人が「わからない」と言うのは、珍しかった。
いつも、言葉が整っていた。
でも、今日は、整えきれないものを持ってきた。
「一つだけ、聞いていいですか?」
「どうぞ」
「ダリウス様は、何を求めていますか。許しですか。それとも、別の何かですか?」
ダリウスが少しだけ止まった。
「許し、とは考えていなかった。許してもらえるとは思っていない。それを求めるのは、おこがましい」
「では、何を求めているのですか?」
「……向き合うことを、続けたい。逃げずに、向き合い続けたい。でも、どういう形で向き合えばいいかが、わからない」
エリナは、その言葉を受け取った。
向き合うことを、続けたい。
「一つだけ、言っていいですか?」
「どうぞ」
「向き合うことが、すでに始まっています」
「いつから?」
「最初に、この場所に来た時から。あの時、探りに来た、と言っていましたね。でも、来た。それが始まりでした。一票を入れてくれた。父の動きを教えてくれた。倉庫を提供してくれた。クロヴェル家の方針を変えた。全部、向き合ってきた証拠です」
「でも、まだ足りない気がする」
「足りないと感じることが、続ける理由になる。ルナが、急がなかったから確かめられると言っていました。向き合うことも、同じかもしれない。急いで全部解決しようとしなくていい。続けることが、向き合うことだと思います」
ダリウスが少しだけ黙った。
長い沈黙だった。
でも、不快ではなかった。
「お前は……父上に似ている」
「よく言われます」
「でも、違う部分がある」
「どう違いますか?」
「父上は、正しいことを正しいまま言い続けた。だから、折れた。お前は、正しいことを、相手が受け取れる形で言う。だから、折れない」
エリナは少しだけ、その言葉を考えた。
「意識してきたことではありません。でも、そうかもしれません」
「それが、お前が強い理由だと思う」
少し間があった後、エリナが言った。
「一つ、提案があります」
「何だ?」
「向き合い方の形について、一つだけ言わせてください」
「聞く」
「クロヴェル家が方針を変えたことは、大事なことです。でも、それより大事なことがあります」
「何だ?」
「父の改革案が、今、現実になろうとしています。魔法に頼りきらない社会を作る、という案が。学院が衛生教育を始めた。各地で知識が広まっている。魔法が届かない場所に、別の方法が届くようになっている」
「そうだな」
「その動きに、クロヴェル家が正面から関わることが、一番の向き合い方ではないかと思います。邪魔をしないことも大事です。でも、もし可能なら、一緒に動くことが、一番の答えかもしれない」
ダリウスが少しだけ目を細めた。
「一緒に動く、とは」
「具体的な形は、これから考えられます。でも、方向としてどう思いますか?」
ダリウスが少しだけ黙った。
「考えたことがなかった。邪魔をしないことで、精一杯だった。一緒に動くことまでは、思いが至らなかった」
「急がなくていいです。今日、ここに来て、話してくれた。それが、一緒に動くことの最初の一歩かもしれません」
その日の夕方、ダリウスはルシェムに泊まることにした。
マリオが宿の手配をした。
夕食前、エリナとダリウスが長屋の前に立った。
夏の夕方の光が、長くルシェムに差し込んでいた。
「一つだけ、聞いていいか?」
「どうぞ」
「お前は、怒っているか? 俺に対して」
エリナは少しだけ考えた。
「怒っています」
エリナが正直に言った。
「父がされたことに対して、怒りがある。それは消えない」
「そうか」
「でも、その怒りは、あなたに向けるものではないと思っています。あなたは、できることをしてきた。その事実と、怒りは、別のものです」
「別のものか」
「そうです。怒りを持ちながら、一緒に動くことはできます。それが、今の私の答えです」
ダリウスが少しだけ、エリナを見た。
「……難しいことを、さらっと言う」
「難しいかどうかはわかりません。でも、本当のことだから言いました」
夕食は、全員で食べた。
セレーナ、マリオ、ルナ、ゴードン、ダリウス、エリナ。
ダリウスが、マリオと少し話した。
「あなたが、最初に来た人間だと聞いた」
「そうです」
マリオが言った。
「豆のペーストを食べに来た」
「豆のペーストが、最初だったのか」
「美味しかったから来た。それが全部の始まりです」
「正直な始まりだ」
「それが一番強い始まりだと思います」
ダリウスがルナを見た。
「ルナ殿、一つだけ聞いていいか?」
「どうぞ」
「商会の仕事で、一番大事なことは何だと思っている?」
ルナが少し考えた。
「見ること」
「見ること、とは?」
「植物を見る。人を見る。変化を見る。見ていると、何が必要かがわかる。見ていないと、大事なことを見逃す」
「見ることが、一番大事か」
「そう。見るためには、急がないことが必要だ。急いでいると、見えない」
ダリウスが少しだけ、ルナを見た。
「……急がないことが、大事か」
「そう」
「参考になる」
翌朝、ダリウスが帰った。
見送りに、全員が出た。
「また来ます」
「来てください」
「具体的な形を、考えてくる。一緒に動くことについて」
「待っています」
「待っていてもらえるか?」
「待ちます。でも、あなたが来る時を待つのではなく、こちらは動き続けています。来た時に、動いているものがある。それが、一番いい待ち方だと思っています」
ダリウスが少しだけ、エリナを見た。
「……それが、お前のやり方か」
「そうです」
「わかった。では、こちらも動き続ける。来た時に、動いているものを持ってくる」
「それが、一緒に動くことの形だと思います」
馬車が動き出した。
クロヴェルの家紋が、少しずつ遠ざかっていった。
見えなくなった。
マリオが言った。
「あの人、変わったな」
「そうですね」
「最初に来た時と、全然違う」
「最初に来た時は、探りに来ていた、と言っていました。今日は、話しに来た」
「その違いが、でかいよな」
「でかいですね」
「お前、ダリウスのことを信頼しているのか?」
エリナは少しだけ考えた。
「信頼しています。怒りも持っています。でも、信頼しています。その両方が、今の私の答えです」
その夜、エリナはフィオナへの速達を書いた。
フィオナへ
今日、ダリウスが来た。
クロヴェル家の方針が、正式に変わった。書類として残る形で。
そして、一緒に動くことを、提案した。ダリウスは、考えてくると言った。
あなたに、早く届けたかった。
それだけを、まず伝える。
詳細は、次に来た時に話す。
――エリナ――
レインへの手紙も書いた。
レインへ
今日、大きなことが動いた。
ダリウスが来て、クロヴェル家の方針が正式に変わったことを報告してくれた。そして、一緒に動くことを、提案した。
一票を入れてくれた日から、ここまで来た。
父の改革案が、今、形になろうとしている。父が夢見たものを、自分でも見たいから動く、と言っていた言葉を、今日また思い出した。
見えてきた気がします。
――エリナ――
書いて、二通の封筒を並べた。
フィオナへ。レインへ。
今日は、届けたいことが、言葉になった。
ランプを吹き消した。
夏の夜が、窓の外にあった。
虫の声が、にぎやかだった。
でも、エリナの頭の中は、静かだった。
ダリウスが来た。
一緒に動く、という言葉が出た。
父の改革案が、形になろうとしている。
一人では届かなかった場所に、今、届こうとしている。
エリナは眠る前に、短いメモを書いた。
今日、ダリウスが来た。
クロヴェル家が変わった。一緒に動くことを、話した。
これが、始まりかもしれない。
父が夢見た場所へ、もう少し近づいた気がする。
一人ではなかった。ずっと、一人ではなかった。
書いて、引き出しに入れた。
エリナ・アッシュフォード、九歳。
今日、ダリウスが来た。
クロヴェル家の方針が、変わった。
一緒に動く、という言葉が生まれた。
それが今夜、一番大事なことだった。
読んでいただきありがとうございます。
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