77話 フィオナが、決めた日
四月の半ばになった。
フィオナは、まだルシェムにいた。
春に来ると言って来た。でも、来てからどのくらいいるかは、決めていなかった。
気づくと、二週間が経っていた。
「そろそろ帰りますか」
「うん。でも、もう少しだけいる」
「もう少し、とはどのくらいですか?」
「わからない。わかったら、言う」
その週、フィオナはいつもより静かだった。
話しかければ話すが、自分から話すことが少なかった。
何かを考えている顔をしていた。
でも、エリナは急かさなかった。
フィオナが言いたい時に言う。それが、フィオナという人間だから。
四日後の夜、フィオナがエリナの部屋に来た。
「少し、話していい?」
「どうぞ」
フィオナが椅子に座った。
少し間があった。
「決めたことがある」
「何を決めましたか?」
「ルシェムに、拠点を作ろうと思う」
エリナは少しだけ止まった。
「拠点、というのは?」
「ここに、部屋を借りるか、小さな家を借りる。王都に行く時と、ルシェムにいる時を、半分半分くらいにする」
「それは大きな決断ですね」
「そう。でも、決めた」
「なぜ、今日決めましたか?」
「今日というわけではない。来るたびに、少しずつ決まっていた。今日、言葉になっただけだ」
エリナは、フィオナの顔を見た。
迷っている顔ではなかった。
決まった顔だった。
「フィオナが来てくれるなら、嬉しいです」
「嬉しいだけでいい? 困ることはない?」
「困ること?」
「私がいると、邪魔になることがあるかもしれない。商会の仕事の邪魔をすることがあるかもしれない」
「邪魔にはならない。フィオナがいると、見えないものが見える。それは、以前から何度も感じてきた」
「それだけではなくて、私がルシェムにいる理由を作りたいということもある」
「理由を作る、というのは」
「今は、理由がなくても来ている。行きたいから来ている。でも、それだけだと、来続けることが難しくなる時がくるかもしれない。拠点があれば、来る理由ができる」
「来る理由が必要ですか」
「必要というわけではない。でも、あった方が、長く続けられる気がする」
エリナは少しだけ、フィオナの言葉を考えた。
「フィオナ、一つ聞いていいですか?」
「どうぞ」
「拠点を作ることと、ルシェムを帰ってくる場所にすることは、同じことですか?」
フィオナが少し間を置いた。
「同じではないかもしれない。でも、繋がっている」
「どう繋がっていますか?」
「拠点があれば、来やすくなる。来やすくなれば、来る回数が増える。来る回数が増えれば、知っている場所が増える。知っている場所が増えれば、帰ってきた、という感覚が増える。だから、繋がっている」
「段階がある、ということですね」
「そう。一気に帰ってくる場所にはならない。でも、少しずつなっていく」
「急がなかったから確かめられる、というルナの言葉に似ていますね」
「そうかもしれない。ルナの言葉は、いろんなことに当てはまる」
翌日、フィオナがゴードンと話した。
「ルシェムで、部屋か小さな家を借りたい。どこかいい場所を知っている?」
「少し調べます。長屋の近くの方がいいですか?」
「近い方がいい。でも、エリナの邪魔にならない距離で」
「わかりました。今日中に、いくつか確認します」
「よろしく」
ゴードンが動き始めた。
その夜、候補が三つ出た。
ゴードンがエリナに説明した。
「一つ目は、長屋から歩いて五分の場所にある小さな家です。一部屋と台所があります。前の住人が出て行ったばかりで、状態が良い」
「二つ目は?」
「長屋から歩いて十分の場所にある、少し広い部屋です。共用の台所があります。家賃は一つ目より安い」
「三つ目は?」
「長屋のすぐ隣の部屋です。以前、荷物置き場として使っていた場所を、部屋として使えるように改修できます。改修費用がかかりますが、立地は一番近い」
フィオナが三つを聞いて、少し考えた。
「一つ目にする」
「理由を聞いていいですか?」
エリナが聞いた。
「独立した家がいい。近すぎると、互いに気を使う。少し離れていた方が、お互いに自然でいられる」
「なるほど」
「あなたの商会の仕事を、私が邪魔したくない。でも、必要な時に来られる距離がいい」
「五分は、ちょうどいい距離だと思う」
「そうですね」
ゴードンが頷いた。
「明日、家主に連絡します」
翌日、ゴードンが家主と交渉した。
フィオナが家主に会いに行った。
エリナは一緒に行かなかった。
フィオナが自分で決めることだから、口を出さなかった。
午後、フィオナが戻ってきた。
「決まった。来月から借りられる」
「早かったですね」
「家主が良い人だった。すぐに決まった。ゴードンさんの交渉が、上手かった」
「ゴードンさんは、数字の話が得意ですから」
「家賃の話が、きちんとしていた。数字が明確だと、交渉が早い」
マリオに伝えると、少し目を丸くした。
「フィオナさんが、ルシェムに部屋を借りるのか?」
「そうです。来月から」
「ってことは、もっと頻繁に来るんだな」
「そうなると思います」
「そうか。じゃあ、部屋の準備は、毎回しなくていいんだな」
「自分の部屋ができるから」
「そうか」
マリオが少し笑った。
「でも、寂しいな、少し」
「寂しい?」
「毎回フィオナさんのために部屋を準備するのが、俺の役割だったから。それがなくなる」
「フィオナが来た時に、別の歓迎をすればいいのでは?」
「どんな歓迎だ?」
「それは、マリオが考えてください」
「そうだな、考える」
ルナに伝えた。
「フィオナが、ルシェムに部屋を借りました」
「そう」
ルナが棚を見ながら言った。
「どう思いますか?」
「良かった」
「なぜですか?」
「来るたびに、帰ってきた、という感覚が増えていた。部屋ができれば、もっと増える」
「ルナも、気づいていたんですか」
「見ていたから」
「フィオナが、そういう変化をしているのを?」
「そう。猫も、同じだ。最初は遠くにいた。来るたびに近づいてきた。今は、横に来る。フィオナも、そうなっていた」
「猫と同じですか」
「同じ。安心した場所に、自然に来るようになる」
夜、フィオナとエリナが台所で話した。
「決まった。ルシェムに、拠点ができた」
「おめでとうございます」
「おめでとう、か。そういう言葉をもらうとは思っていなかった」
「おめでとう、は正確ですか?」
「正確だと思う。自分で決めたことが、形になった。それは、おめでとう、と言われるべきことかもしれない」
「フィオナが決めたから、形になりましたね」
「決めるまでに、時間がかかった。一年以上、来るたびに少しずつ近づいていた。でも、決めるには、最後の何かが必要だった」
「その何かは、何でしたか?」
「今回来た時に、レインと師匠も来た。全員が揃ったあの三日間に、何かがわかった気がした」
「何がわかりましたか?」
「ここが、いろんなことが起きる場所だ、ということ。あなたが言っていた言葉だけど、私も同じことを感じた。起きる場所にいたい、と思った。それが、最後の何かだった」
エリナは、フィオナの言葉を受け取った。
「フィオナ」
「何?」
「ここが、フィオナの場所になっていくといいと思っています」
「なっていくといい、という言い方ね。なっている、ではなく、なっていくといい」
「まだ、途中だと思うから」
「そうね。途中。でも、途中でもいい。途中が、続くことだから」
「途中が、続くこと」
「あなたが言っていた、続けることが繋がること、という言葉に似ているかな。途中でいい。途中のまま続ける。それで、繋がっていく」
翌日の朝、フィオナが帰ることになった。
「また来ます。来月、部屋が使えるようになったら、引越しをする」
「引越しですか」
「大した荷物はないけど、部屋に必要なものを持ってくる。そうすれば、ここが、本当に自分の場所になる気がする」
「来てください、手伝います」
「ありがとう。あなたに手伝ってもらうのは、初めてかもしれない。いつも、私があなたを手伝っていたから」
「お互いに手伝えるといい」
「そうね。それが、続けることの形だと思う」
見送りに、マリオとルナとゴードンも出た。
「また来てください」
「来月、引越しで来る。その時もよろしく」
「任せてください。今度は、引越しの歓迎にする。部屋の準備ではなく、引越しの手伝い」
「それが新しい役割なの?」
「それが俺の仕事だから」
ルナが静かに言った。
「猫も、待っている」
「猫が待っているのか」
「来るたびに、近づいてきている。次に来たら、膝に乗るかもしれない」
「楽しみにしてくる」
馬が動き出した。
フィオナが手を振った。
全員が手を振り返した。
見えなくなった。
マリオが言った。
「来月、また来るんだな」
「来ます。引越しで」
「引越しか。それは、また別の話だな。今まで来るたびに帰っていったのが、帰る場所ができるってことか」
「そうです」
「それは、すごいことだな。ルシェムに帰る場所ができる人が、増えた」
「そうですね」
「エリナの横に、いる人が増えた」
「そう表現することもできますね」
「いい表現だろ」
「いい表現です」
その夜、エリナはレインへの手紙を書いた。
レインへ
フィオナが、ルシェムに部屋を借りました。来月から、ルシェムに拠点ができます。
『途中でいい。途中のまま続ける。それで、繋がっていく』とフィオナが言いました。
続けることが繋がること、という言葉を、フィオナが別の形で言ってくれた気がしました。
マリオが言いました。『エリナの横に、いる人が増えた』と。
正確な言葉だと思います。
夏に来てください。その頃には、フィオナの部屋もできています。夏のルシェムが、また少し違うものになっているかもしれません。
待っています。
――エリナ――
書いて、封をした。
「待っています」という言葉が、今夜もまた少し重かった。
でも、重いことは悪いことではなかった。
それだけのものが、そこにあるということだから。
ランプを吹き消した。
春の夜が、窓の外にあった。
来月、フィオナが引越してくる。
横にいる人が、また一人増える。
エリナ・アッシュフォード、九歳。
今日、フィオナが決めた。
ルシェムに、帰ってくる場所ができる。
それが今夜、一番大事なことだった。
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