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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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69話 朝の図書室と、持ってきたメモ

 翌朝、エリナは五時半に目が覚めた。

 六時に中庭に来てくれ、とレインが言っていた。

 それより早く目が覚めた。

 窓の外はまだ暗かった。

 でも、空の端が少しずつ白くなっていた。

 着替えて、顔を洗った。

 荷物の中から、ルナが持たせてくれた薬草茶の葉を取り出した。

 湯を沸かす道具はなかったが、廊下に出ると、宿泊施設の共用の台所があった。

 そこで湯を沸かして、薬草茶を作った。

 立ったまま、一口飲んだ。

 ルシェムと同じ味だった。

 当たり前のことだが、少しだけ嬉しかった。


 六時少し前に、中庭に出た。

 まだ薄暗かった。

 石畳が見えた。

 白かった。

 昨日より、もっと白かった。

 昨日は昼過ぎに見た。今日は、朝に見ている。

 レインが言っていた通りだった。朝の方が、白い。

 少し待つと、レインが来た。

 学院の服装ではなく、厚手の外套を着ていた。


「早かったな」

「五時半に目が覚めました」

「眠れなかったか?」

「眠れました。でも、早く目が覚めた」

「俺も、そうだった」

「なぜですか?」

「お前が来ているから、かもしれない」


 二人で、中庭の石畳を歩いた。

 足元の霜が、歩くたびにかすかな音を立てた。

 ざく、という音。

 霜を踏む音だった。

 エリナは、その音が思っていたより好きだった。


「音がするんですね」

「そうだ。朝だけの音だ」

「昼は?」

「昼になると、霜が溶けて、音がしなくなる」

「では、この音は朝だけ」

「そうだ。毎朝、同じ音がする。でも、毎朝少し違う。霜の厚さが変わるから」

「今日は、昨日より厚い?」

「そうだ。夜の温度が低かったから」


 エリナは、もう一度足元を見た。


 白い石畳。


 光が差し込む前の、静かな白さだった。

 中庭を一周した後、レインが言った。


「図書室を見るか?」

「見たいです」

「朝の図書室は、また違う」

「どう違いますか?」

「来れば、わかる」


 図書室は、学院の建物の北側にあった。

 重い扉を開けると、中は静かだった。

 木の棚が、天井まで並んでいた。

 窓は、東向きだった。

 朝の光が、今ちょうど差し込み始めていた。


「光が、棚の間を通る」


 見ると、確かに、朝の光が棚と棚の間を通って、床に細い光の線を作っていた。


「これが、朝の図書室ですか」

「そうだ」

「昼間は、こうはならないですか?」

「ならない。朝の時間だけ、この角度で光が入る」

「毎朝見ているのですか?」

「見ている。毎朝、同じだが、少し違う」

「霜と同じですね、毎朝少し違う」


 レインが少しだけ、エリナを見た。


「そうだな。同じことに気づいた」


 図書室の入り口近くに、木の椅子が二つあった。

 二人で座った。

 まだ他の生徒は来ていなかった。

 静かな時間だった。


「ここで、毎朝勉強しているんですか」

「勉強することもある。でも、ただ座っていることもある」

「ただ座っている?」

「そうだ。光が動くのを見ていることがある」

「何も考えずに?」

「何かを考えながら、でも、考えていることに気づかずにいることがある。うまく言葉にできないが、そういう時間がある」

「わかります。夕方、作業場の前に立っている時間が、そういう時間です」

「そうか」

「何もしているわけではないのに、そこにいる。それが、悪くない時間だと思っていました」

「悪くない、というのは」

「以前は、何もしていない時間が、もったいないと思っていました。でも、最近は、そうでもない」

「いつから変わったか、わかるか?」


 エリナは少し考えた。


「わかりません。気づいたら、変わっていた」

「気づいたら、というのは?」

「合理的な理由がある時だけ窓を開けていたのが、いつの間にか、春の空気を感じたいから開けるようになっていた。あの変化と、同じ種類の変わり方です」

「手紙に書いていたな。窓を開けることが楽しみになった、と」

「覚えていましたか」

「覚えている」


 しばらく、二人で図書室にいた。

 光が少しずつ動いた。

 棚と棚の間の光の線が、少しずつ角度を変えた。

 エリナは、その変化を見ていた。

 時間が動いているのが、見えた。


「レイン」

「何だ?」

「荷物に、一枚のメモを入れてきました」

「何のメモだ」

「母が言った言葉を書いたものです」エリナが言った。「あなたに見せようと思って持ってきました。でも、昨日は見せなかった」

「今日、見せるか」

「見せます」


 エリナは外套のポケットから、折りたたんだメモを取り出した。

 渡した。

 レインが開いて、読んだ。

 気づいたらそうなっていた場所が、本当の始まりの場所だ。

 レインが少しだけ、メモを見た。


「セレーナ殿が、こう言ったのか」

「はい」

「いつ言ったのですか?」

「秋に、作業場で考えていた時に、母と話した夜です。なぜルシェムでの製造を続けるかを考えていて、始まりの場所に戻り続けることが大事だと思っていました。それを母に話したら、この言葉が返ってきました」

「気づいたらそうなっていた場所が、本当の始まりの場所だ」レインが繰り返した。

「そうです」

「選んだわけではない場所が、本当の場所になる、ということか」

「そうだと思います。ルシェムも、最初は仮の場所だと思っていました。でも、気づいたら、帰ってくる場所になっていた」

「手紙に書いていたな。帰ってくる場所がある、と」

「何度か書きました」

「俺にとっての学院も、そうかもしれない。孤児院を出て、学院に来た。最初は、魔法を学ぶための場所だった。でも、気づいたら、ここが自分の場所になっていた」

「いつ気づきましたか?」

「わからない。気づいたら、そうなっていた」


 エリナは、その答えを受け取った。

 お互いに、気づいたらそうなっていた場所がある。


「メモを、持っていてください」

「いいのか?」

「はい。あなたにも、合う言葉だと思ったから、持ってきました」


 レインが少しだけ、メモを見た。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 七時を過ぎると、他の生徒が図書室に来始めた。

 一人、また一人と来て、椅子に座って本を広げた。

 静かな中に、人の気配が増えた。


「毎朝、こんな感じですか」

「そうだ。みんな、ここが暖かいから来る」

「図書室が一番暖かい場所だと、手紙に書いていましたね」

「そうだ。石造りの建物は、一度暖まると、温度が長く保たれる。図書室は南側で、夜の間も温度が高い」

「合理的な理由があったんですね」

「そうだ。でも、合理的な理由だけでは、毎朝来ない人もいる」

「合理的ではない理由もある、ということですか」

「そうかもしれない。光が綺麗だから来る人もいるし、静かだから来る人もいる」

「あなたは、どちらですか?」

「最初は、暖かいから来ていた。でも、今は、光を見たいから来ることが多い」

「変わったんですね」

「そうだな」


 朝食の時間が来た。

 食堂に行った。

 ゴードンが先に来ていた。


「お早いですね」

「中庭と図書室を案内してもらいました」

「霜は見られましたか?」

「見られました。音がしました」

「音が?」

「霜を踏む音です。朝だけの音だと言っていました」

「そうですか、来てよかったですね」

「そうです」


 午前中は、師匠との打ち合わせがあった。

 新しい薬草の確認の経過と、来年度の衛生教育の拡張について話した。

 師匠は、エリナの話を聞きながら、ときどき短い言葉で答えた。


「ルナ殿は、よく見ている」

「そうです」

「シェナ殿も、慎重だった」

「二人とも、急がなかった」

「急がないことが、正しいことを確かめる唯一の方法だ。早く知ることより、確かに知ることの方が、価値がある」

「そう思います」

「あなたも、そういうやり方をしてきた」

「最初から、というわけではありません。でも、少しずつ」

「少しずつ変わることが、変わることだ。一気に変わることは、一気に戻ることもある。少しずつが、残る」


 午後、エリナとゴードンで学院の書類の確認をした。

 供給の書類、来年度のカリキュラムへの対応表、価格の確認。

 一時間ほどで終わった。

 ゴードンが書類をまとめながら言った。


「エリナさん、今日はどうでしたか?」

「良かったです」

「仕事の面では?」

「仕事の面でも、良かったです。でも、仕事以外も良かった」

「どういう部分が?」

「霜の石畳の音が、思っていたより好きでした。図書室の光が、思っていたより綺麗でした。全部、手紙で想像していたより、良かった」

「ルナさんが言っていた通りでしたね」

「そうです。手紙で知っているより、もっとよかった」

「来てよかったですね」

「来てよかったです」


 夕方、レインと廊下で少し話した。


「明日、帰るか?」

「はい。明日の朝、出発します」

「もう少し、いてもいいが」

「ルシェムに、帰る時間があります。帰ってくる場所に、帰る」

「そうか」

「でも、また来ます」

「来年の冬に」

「来年の冬に。約束しました」

「覚えている」


 少しだけ間があった。


「一つ、聞いていいですか?」

「どうぞ」

「ここに来てみて、何か変わりましたか。私の中で」

「変わったか。手紙で知っていたお前と、実際に会っているお前が、同じ人間だとわかった」

「それは、変わったことではないですよね」

「でも、確かめられた。知っていることと、確かめることは、違う」

「手紙で知っていた。でも、実際に会って、確かめた」

「そうだ。今日、お前が霜の音を気に入った。図書室の光を綺麗だと言った。メモを見せてくれた。それが、手紙に書いていたお前と、同じだとわかった」

「同じだとわかって、どうでしたか?」

「嬉しかった」


 その夜、エリナは部屋で短いメモを書いた。

 

 今日、霜の石畳の音を聞いた。

 図書室の光を見た。

 メモを渡した。

 レインが「嬉しかった」と言ってくれた。

 私も、嬉しかった。

 来年の冬も、来る。


 書いて、荷物の中に入れた。

 このメモは、フィオナに見せようと思った。

 フィオナが「霜の石畳を見た時、どんな気持ちになるか教えてほしい」と言っていた。

 このメモが、その答えだ。

 ランプを吹き消した。

 学院の夜は、静かだった。

 窓の外から、風の音だけが聞こえた。

 明日、帰る。

 ルシェムに帰る。

 でも、また来る。

 来年の冬に、また来る。


 エリナ・アッシュフォード、八歳。


 今日、霜の石畳の音を聞いた。

 朝だけの音だった。

 それが今夜、一番大事なことだった。

読んでいただきありがとうございます。

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