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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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68/120

68話 霜の石畳

 出発の朝、空は晴れていた。

 エリナは夜明け前に目が覚めた。

 眠れなかったわけではない。でも、自然に目が開いた。

 台所に行って、湯を沸かした。

 薬草茶を作りながら、窓の外を見た。

 まだ暗かった。でも、空の端が少しずつ白くなっていた。


 今日、出発する。


 その実感が、静かに、でも確かにあった。

 朝食をセレーナと二人で食べた。

 マリオは後で来る。ゴードンは宿から直接、出発地点に来る予定だ。

 セレーナが豆のスープを出した。


「出発の朝に、豆のスープですか」

「最初にルシェムに来た時も、こういう朝があったから。始まりと終わりは、同じものがいいと思って」

「始まりと終わりが、同じ」

「始まりではないかもしれないけど、でも大事なことの前には、同じものを食べたい気がした」

「お母さんらしい理由ですね」

「そうかな」

「合理的ではないけど、大事な理由だと思います」


 セレーナが少しだけ目を細めた。


「あなたが、そういうことを言えるようになったんだね」

「言えるようになりました。合理的ではないけど大事なこと、というのが、最近少しわかってきた気がします」


 マリオが出発前に来た。


「行ってくるぞ、というか、行ってきなさい、か」

「どちらでも」

「じゃあ、行ってきな」

「行ってきます」

「ルシェムは大丈夫だ。任せてくれ」

「任せます」

「ルナも、ゴードンさんも、セレーナさんも、みんないる。帰ってくる場所は、ちゃんとある」

「わかっています」

「わかっていても、言いたかった」

「ありがとう」


 マリオが少しだけ頷いた。


「それと、一つだけ」

「何ですか?」

「楽しんでこい」


 エリナは少しだけ止まった。


「楽しむ?」

「そうだよ。仕事もあるかもしれないけど、楽しんでいい。楽しんでいい場所に行くんだから」

「楽しんでいい場所」

「そうだよ。霜の石畳を見に行って、レインに会いに行く。それは、楽しんでいい場所だと思う」


 エリナは少しだけ、マリオの言葉を受け取った。

 楽しんでいい。

 そういう許可を、誰かからもらったことが、あまりなかった気がした。


「楽しんできます」

「それでいい」


 馬車が動き出した。

 窓から外を見ると、長屋の前にマリオが立っていた。

 手を振った。

 エリナが手を振り返した。

 ゴードンも、静かに頭を下げた。

 マリオが見えなくなるまで、手を振り続けた。

 二日間の旅は、静かだった。

 ゴードンはあまり余計なことを言わなかった。

 エリナも、あまり話さなかった。

 でも、沈黙が不快ではなかった。

 ゴードンとの沈黙は、いつもそうだ。


 一日目の宿場町で泊まって、翌日の昼頃に王都が見えてきた。

 城壁が見えた。

 前回来た時は、もう慣れていた。

 でも、今回は少し違って見えた。

 前回は、報告のために来た。

 今回は、違う理由で来る。


「エリナさん」

「何ですか?」

「緊張していますか?」

「少し」

「どういう緊張ですか?」

「マリオが言っていた、軽い方の緊張です」

「軽い方の?」

「大事なことが来る前の緊張は、体が少し軽くなる、とマリオが言っていました。今が、その緊張です」

「マリオさんは、そういうことを言うんですね。感覚を言葉にするのが、うまい人だ」

「そうですね」


 王都の門を通った。

 前回と同じように、書類を見せて通してもらった。

 でも、今回は学院が目的地だった。

 

 王宮ではなく、学院に向かった。

 王都の石畳を、馬車が進んだ。

 学院は、王都の東側にあった。

 高い石の塀に囲まれた、大きな建物だった。

 前回来た時は、遠くから見ただけだった。


 今日は、中に入る。


 学院の門の前で、馬車を降りた。

 門番に名前を告げた。


「アッシュフォード商会のエリナ・アッシュフォードです。レイン・ソレイユ殿に来訪を伝えていただけますか」


 門番が奥に使いを送った。

 少し待った。

 エリナは門の前に立って、学院の建物を見た。

 石造りの建物が、冬の光の中に立っていた。

 塀の上から、木の枝が見えた。

 葉が落ちていた。

 冬の木だった。

 しばらくして、足音が聞こえた。

 門が開いた。

 レインが来た。

 学院の服装だった。前回、謁見の間に来た時と同じ服だった。

 エリナを見た。

 一秒、目が合った。


「来た」

「来ました」


 それだけだった。

 でも、今回は少し違った。

 前回までは「来た」「来てくれた」だった。

 今回は「来た」「来ました」だった。

 どちらが来ることを、どちらも最初から知っていた。

 だから、確認ではなかった。

 ただ、そこにいることを、お互いに言った。

 ゴードンが挨拶をした。


「お世話になります。ゴードン・ハースと申します」

「レイン・ソレイユだ。来てくれてありがとう」

「いえ。エリナさんのお供をしてきただけです」

「師匠が、会いたいと言っている。後で案内する」

「よろしくお願いします」


 レインがエリナを見た。


「まず、案内する。荷物を置いてから、外を少し歩こう」

「外を?」

「霜の石畳を、見せたいから」


 学院の中の宿泊施設に荷物を置いた。

 簡素な部屋だったが、清潔で、静かだった。

 窓から外を見ると、学院の中庭が見えた。

 中庭の石畳が、白くなっていた。

 霜だった。


「見えるか?」

「見えます。窓から、見えます」

「外で見る方が、違う」

「外に出ましょう」


 中庭に出た。

 空気が、ルシェムより少し鋭かった。

 息が白くなった。

 石畳が、足の下で少しだけ滑った。


 霜だった。


 エリナは足元を見た。

 白い。

 石畳が、薄く白く覆われていた。

 太陽の光が当たって、少しだけ光っていた。


「これが」

「そうだ」

「手紙に書いていた通りだ」

「そうか」

「でも、手紙で想像していたより、綺麗です」


 レインが少しだけ、エリナを見た。


「そうか」

「もっとただ白い、というイメージでした。でも、光が当たると、少し違う色になる」

「朝の方が、もっと白い。今は昼を過ぎているから、少し溶け始めている」

「明日の朝、また見たいです」

「案内する」


 しばらく、二人で中庭に立っていた。

 ゴードンは宿泊施設の部屋で休んでいた。

 静かだった。

 学院の建物が、周囲を囲んでいた。

 高い窓から、生徒たちの影が見えることがあった。


「ここが」

「何だ?」

「あなたが毎日いる場所」

「そうだ」

「廊下を歩きながら、手紙のことを考えていた場所」

「そうだ。今も、考えることがある」

「何を考えますか、廊下を歩きながら」

「お前が、今日どういう一日を過ごしているかを、考えることがある」


 エリナは少しだけ止まった。


「私のことを?」

「そうだ。手紙に書いてあることだけでなく、手紙に書いていない部分を考えることがある」

「書いていない部分?」

「朝、何を食べたか。窓を開けた時、どんな空気だったか。ルナと何を話したか。マリオが何か笑えることを言ったか。そういうことを、考える」


 エリナは、その言葉を受け取った。

 手紙に書いていないことを、考えている。


「私も、同じです」

「同じか」

「あなたが、朝の図書室でどんな本を読んでいるか。廊下を歩く時、どんな顔をしているか。師匠と話している時、何を言っているか。手紙に書いていないことを、考えることがあります」

「そうか」


 レインが少しだけ、目を細めた。


「同じことを、別々の場所で考えていた」

「そうだな」


 中庭を歩きながら、少しだけ話した。


「ルナが言っていました。手紙で知っている人と、実際に会うのは、少し違う。でも、違うことがいいことだと」

「どう違うか、感じているか?」


 エリナは少し考えた。


「手紙では、あなたの声が聞こえません。読む時に、自分の頭の中で声を作っています。でも、今日、実際の声を聞いて、少し違いました」

「どう違った」

「想像していたより、低かった」

「そうか」


 レインが少しだけ笑った。


「それは、意外な答えだ」

「手紙の言葉から想像した声と、実際の声が違う。でも、どちらもレインだとわかる」

「どちらもレインだとわかる」

「そうです。だから、ルナが言ったことが正しかった。違うことで、もっとよく知れた」


 夕方になった。

 師匠と会う約束があった。

 学院の一室に通された。

 師匠が待っていた。


「また来た」

「またお会いできました」

「今回は、仕事ではなく来たか」

「仕事もあります。でも、それだけではありません」

「そうか、正直でいい。新しい薬草の件、確認を始めた。有望だ」

「ルナとシェナが慎重に確認してくれました」

「その慎重さが、正しい。急いだものは、後で崩れる。急がなかったものは、残る」

「急がなかったから、確かめられた、とルナが言っていました」

「ルナ殿は、正しいことを言う。レインが教わることがある」


 レインが少しだけ、師匠を見た。


「師匠、余計なことを言っている」

「余計ではない、事実だ」


 夜、ゴードンと師匠が供給の話を始めた。

 エリナはその場にいたが、二人に任せた。

 話が一段落した頃、師匠が帰った。

 ゴードンも部屋に戻った。

 廊下に、エリナとレインが残った。


「今日、来てよかったと思っています」

「俺も、来てくれてよかった」

「明日の朝、霜の石畳を案内してもらえますか?」

「案内する。朝は早い方がいい。六時に中庭に来てくれ」

「六時に来ます」

「霜が一番白い時間だ」

「楽しみにしています」


 少しだけ間があった。


「一つだけ」

「何ですか?」

「今日、来てくれた。霜の石畳を、一緒に見た」

「はい」

「約束が、果たされた」

「果たされました」

「次の約束を、したい」

「どんな約束ですか?」

「来年の冬も、来てほしい」


 レインが静かに言った。


「来年の霜の石畳も、一緒に見たい」


 エリナは少しだけ止まった。

 来年の冬も。

 フィオナが言っていた。

 毎年の約束になる可能性がある、と。


「来ます。来年の冬も、来ます」

「約束か」

「約束です」


 部屋に戻って、エリナは荷物の中から、セレーナのメモを取り出した。

 気づいたらそうなっていた場所が、本当の始まりの場所だ。

 持ってきたメモだった。

 今日、レインに見せようと思っていた。

 でも、見せなかった。

 見せなかったのは、見せたくなかったからではない。

 今日は、言葉がなくても伝わっている部分が多かったから、あえて言葉にしなくてよかった。

 明日の朝、霜の石畳を歩く時に、見せるかもしれない。

 それまで、荷物の中に入れておいた。


 ランプを吹き消した。

 学院の夜は、ルシェムより静かだった。

 窓の外から、風の音だけが聞こえた。

 明日の朝、霜の石畳を歩く。

 レインと一緒に。

 それが今夜、一番楽しみなことだった。


 エリナ・アッシュフォード、八歳。


 今日、霜の石畳を見た。

 手紙で想像していたより、綺麗だった。

 それが今夜、一番大事なことだった。

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