64話 フィオナ、また来る
九月になった。
秋が来た。
朝の空気が、夏とははっきり違う種類の冷たさを持ち始めた。
市場に、秋の野菜が並んだ。ルナが採取してくる薬草が、また変わった。日の暮れる時間が、確実に早くなった。
エリナは毎朝、台所の窓を開けて、今日の空気を確認した。
今日は秋だ、とわかる朝だった。
それが、少し嬉しかった。
九月の最初の週に、フィオナが来た。
今回は予告があった。
手紙に「今週の木曜日に行く」と書いてあった。
マリオが張り切って部屋を準備した。
「ちゃんと掃除したぞ」
「マリオが掃除するのは、珍しい」
「フィオナさんのためだから」
マリオが少し照れた顔をした。
「前回来た時に、ゆっくりしてほしいと思ったから、今回はちゃんとしておこうと思って」
「気が利いています」
「そういうことは、たまに気づく」
「たまに、ですね」
「そうだよ」
マリオが笑った。
木曜日の昼前、フィオナが馬車で来た。
今回の荷物は、前回より少なかった。
でも、少し表情が違った。
前回は、疲れた顔をしていた。今回は、疲れているが、何か決まった顔をしていた。
「来ました」
「来てくれた」
フィオナが周囲を見た。
「秋になったね」
「なりました」
「ルシェムの秋は、初めて見る。春と夏は来たけど、秋は来たことがなかった」
「そうでしたね」
「空気が違う。王都の秋とも違う」
フィオナが少しだけ深呼吸した。
「いい匂いがする」
「どんな匂いですか?」
「土と、草と、少し涼しさが混じった匂い。言葉にすると、そうなるけど、もっと複雑だ」
「私も、うまく言葉にできません」
「言葉にできないものが、いい匂いなのかもしれない」
昼食を食べてから、フィオナとエリナが事務室で話した。
今回は、報告書の話ではなく、個人的な話から始まった。
「一つだけ、先に言いたいことがある」
「どうぞ」
「王都での仕事が、一段落した」
「一段落、ですか」
「クロヴェルの動きが落ち着いている。ダリウスが方針を変えようとしている。陛下との関係も安定している。アルバ殿下が動いてくれている。今すぐ私が王都にいなければならない、という状況ではなくなってきた」
「それは、良いことですね」
「良いこと。でも、それで考えた。私は、これからどこにいるべきかを」
エリナは少しだけ、フィオナを見た。
「どういう結論になりましたか?」
「まだ結論は出ていない。でも、一つだけ、今日ルシェムに来た理由と関係することがある」
「聞かせてください」
「ルシェムに来るたびに、少し軽くなる。王都にいる時は、常に何かを計算している。誰が何を考えているか、どう動くべきか。それが、こちらに来ると、少し止まる」
「止まる、というのは?」
「計算が止まる。マルタさんと話す時も、グレンさんと話す時も、ルナと話す時も、計算なしに話せる。それが、久しぶりに感じる感覚」
「王都では、計算なしには話せないんですか?」
「完全には難しい。誰もが何かを持っている場所だから。言葉の裏を読まないと、危険なことがある」
「それは、疲れますね」
「疲れる。だから、来た」
その日の夕方、フィオナとマリオが市場に行った。
エリナは事務室でゴードンと倉庫の件の書類を確認していた。
一時間ほどして、二人が戻ってきた。
マリオが少し楽しそうな顔をしていた。フィオナも、来た時より少し顔が明るかった。
「どうでしたか?」
「マルタさんが、また大声で笑ってた。相変わらずだった」
「変わらないから、いい」
「そうね。マルタさんが言っていた言葉だ。あの人は、いつもいいことを言う」
「マリオは?」
「グレンさんにも会った」とマリオが言った。
「グレンさんが、フィオナさんのことを覚えていてくれて、『また来たか』って言ってた」
「グレンさんが、また来たか、と言ったんですか?」
「そう。それだけだったけど、嬉しかった。覚えていてくれていたから」
「グレンさんは、大事なことは覚えている人です」
「そうみたいね」
夕食は、また全員で食べた。
セレーナ、マリオ、ルナ、ゴードン、フィオナ、エリナ。
テーブルに、秋の料理が並んだ。セレーナが作った根菜のスープ。マリオが市場で買ってきたパン。ルナが摘んできた秋の薬草を使った副菜。
「秋の食事だ」
「秋になると、食べ物が変わります」
「王都も変わるけど、こっちの方が素直な気がする。季節がそのまま、食卓に来ている」
「手の込んでいない料理だから」セレーナが言った。
「手が込んでいないから、いいんです。王都の料理は、手が込みすぎていて、何を食べているかわからなくなる時がある」
「何を食べているかわからないのは、困りますね」
ルナが平坦な声で言った。
「そうなの。でも、誰も困ったと言わない。みんな、食べているふりをしながら、別のことを考えている」
「そういう食事は、おいしくない」
「おいしくない。でも、必要な時がある。今日の食事は、おいしい。必要だから食べているのではなく、食べたいから食べている」
「その違いが、大事だと思います」エリナが言った。
「そうね、その違いを、ルシェムに来ると思い出す」
食事の後、フィオナとエリナが台所に残った。
セレーナは先に寝室に入った。マリオは帰った。ルナは猫と一緒に部屋に戻った。ゴードンは宿に帰った。
二人だけになった。
「一つ、聞いていい?」
「どうぞ」
「レインとの関係が、どうなっているか、話してほしい」
「どういう意味ですか?」
「前回来た時に、詳細は会った時に聞くと言った。あの約束を、今日果たしてほしい」
エリナは少しだけ考えた。
「どこから話しますか?」
「一年後の約束の夜から」
「あの夜、お互いに一つずつ言いました」
「何を言ったか、聞いてもいい?」
「レインが言いました。『お前のことが、大事だ』と」
「それだけ?」
「私も言いました。『私も、同じです』と」
「それだけ?」
「それだけです」
「でも、それで十分だったわけ?」
「十分でした。あの夜は」
「あの夜は、というのは」
「その後、言葉が増えました。春に来た時に、『お前といる時間が、好きだ』と言ってくれました」
「レインがそれを言ったのか」
フィオナが少しだけ目を細めた。
「言いました。私も、『あなたといる時間が、好きです』と言いました」
「言えたんだね」
「言えました。マリオが言っていた。感覚を言葉にする練習を、手紙でしてきたから、と」
「マリオは正しいと思う。それから?」
「六月に来た時に、これからのことを話しました」
「これからのこと?」
「お互いに、これからも手紙を書き続けたい、会い続けたい、と言いました。私は、学院に行くと約束しました。冬に」
「冬に、学院に行くの?」
「霜で白くなった石畳を見に行く約束をしました」
フィオナがしばらく、エリナを見た。
「それは……かなり大事な約束だと思う」
「そうですか?」
「そうよ。霜の石畳を見に行く、というのは、特定の季節に特定の場所にいる約束だ。それは、一回限りの話ではない」
「どういう意味ですか?」
「来年の冬も、再来年の冬も、見られる。つまり、毎年の約束になる可能性がある」
エリナは少しだけ、その解釈を考えた。
「そういう意味で言ったかどうかは、まだわかりません」
「でも、そういう意味になりうる」
「なりうる、かもしれません」
「それで十分だと思う。今すぐ全部決まる必要はない。でも、そういう方向に向かっていることは確かだ」
少し間があった。
フィオナが薬草茶を一口飲んでから言った。
「一つだけ、私の話をしていい?」
「どうぞ」
「私は、ずっと次の場所を探してきた。ベルナを出て、王都に来て、次はどこかと考えてきた」
「前にも話してくれましたね」
「今日、また考えた。ルシェムに来るたびに、軽くなる。計算なしに話せる。おいしいものが食べられる。マルタさんの笑い声が聞こえる」
「それが、ルシェムでの時間です」
「そういう時間が、続く場所があれば、と思った」
「続く場所?」
「次の場所を探すのをやめて、ここにいたい、と思う時がある。でも、まだ王都でやることがある。だから、今すぐそうはできない。でも、いつか」
「いつか」
エリナが繰り返した。
「いつか、ルシェムに来た時に、帰ってきた、と思いたい。今は、来た、という感覚だ。でも、いつか、帰ってきた、になりたい」
エリナは少しだけ、フィオナを見た。
帰ってきた、という感覚。
「それは、いつかなりますよ」
「なると思う?」
「なります。気づいたらそうなっていた、という形で」
「誰かに聞いた言葉?」
「お母さんが言った言葉です」
「セレーナさんが」
フィオナが少しだけ目を細めた。
「賢い方だ、本当に」
「そう思います」
翌日の午前中、フィオナはルナと一緒に薬草を見に行った。
ルシェムの外れの丘の方向に、薬草が育っている場所があった。
エリナは事務室でゴードンと作業していた。
昼前に二人が戻ってきた。
ルナが、珍しく少し楽しそうな顔をしていた。
「どうでしたか」
「フィオナは、薬草に詳しくない。でも、見ようとする」
「見ようとする?」
「知らないことを、知りたがる。それが、いい人の条件だと思う」
「猫が人を選ぶのと同じ条件ですか?」
「似ている」
ルナが頷いた。
フィオナが少し笑った。
「ルナに認めてもらえた気がする」
「認めた。薬草は知らなかったけど、見ようとしていた。だから、猫も近づいてきた」
「今日は、猫が来たの?」
「一匹来た。フィオナが、全部を見てる感じがするけど、怖くない、と判断した」
「前回は、全部を見てる感じがして怖い、と言っていたじゃないですか」
エリナが言った。
「前回は、そうだった。でも、今回は違った。何度か来て、慣れたから」
「猫も、慣れるんですね」
「慣れる。それが信頼になる」
フィオナが帰ったのは、二泊した翌日の午前だった。
前回より、少し長くいた。
見送りに、エリナ、マリオ、ルナが出た。
馬車が来た時に、フィオナが荷物を積みながら言った。
「秋のルシェム、良かった。春と夏と秋を見た。次は、冬を見に来る」
「来てください」
「冬に来たら、エリナは学院に行っているかもしれない」
「そうかもしれません」
「その時は、ゴードンさんとマリオとルナが歓迎してくれる」
「そうします」
マリオが言った。
「フィオナさんのためなら、また掃除する」
「またするの?」
フィオナが笑った。
「それは嬉しい」
「フィオナさんのためなら」
マリオが少し照れた顔をした。
「マリオ」
フィオナが少し声を落とした。
「何ですか?」
「ルシェムのことを、よろしくね。エリナが学院に行っている間も」
「任せてください! 俺の仕事ですから」
馬車が動き出した。
フィオナが窓から手を振った。
三人が手を振り返した。
ルナが小さく手を上げた。
馬車が街道に出て、小さくなっていった。
見えなくなった。
「また来てくれるな」
「来ます。冬に来ると言っていました」
「冬には、エリナが学院にいる」
「そうなります」
「フィオナさんが来た時に、俺とルナとゴードンさんでルシェムを守る」
マリオが真剣な顔で言った。
「守る、というほどではないですが」
「守るって言いたかった」
マリオが少し笑った。
「たまに、かっこいいことを言いたくなる」
「たまにでいいですね」
「そうだよ」
その夜、エリナはレインへの手紙を書いた。
レインへ
フィオナが来て、帰りました。二泊していきました。秋のルシェムが良かったと言っていました。
フィオナが言っていた言葉を、届けたい。
『いつか、ルシェムに来た時に、帰ってきた、と思いたい。今は、来た、という感覚だ。でも、いつか、帰ってきた、になりたい』と。
聞きながら、少し思いました。私にとってルシェムは、すでに帰ってくる場所になっている。でも、それは、ある日突然そうなったのではなく、気づいたらそうなっていた。
フィオナも、いつかそうなる日が来ると思っています。
冬に、学院に行きます。約束を覚えています。霜の石畳を、楽しみにしています。
――エリナ――
書いて、封をした。
「帰ってきた、になりたい」というフィオナの言葉を、レインに届けたかった。
なぜ届けたかったのかは、うまく言葉にできない。
でも、届けたかった。
ランプを吹き消した。
秋の夜が、窓の外にあった。
虫の声が、夏と違う種類になっていた。
フィオナが帰った。
また来ると言った。
冬に来ると言った。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
今日、フィオナを見送った。
また来ると知っている別れは、寂しくない。
それが今夜、一番確かなことだった。
読んでいただきありがとうございます。
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