63話 秋になる前に
八月の終わりが近づいた。
虫の声が変わった。
日の暮れる時間が、少しずつ早くなってきた。
エリナは夕方、作業場の前に立って、日が沈む方向を見た。
七月の終わり頃より、明らかに早く暗くなっている。
季節が動いている。
その変化を、体で感じることが、最近できるようになっていた。
以前は、日照時間の変化は仕事の段取りに影響する情報だった。
今は、それ以上の何かとして感じる。
うまく言葉にできないが、感じる。
八月の最後の週に、いくつかのことが動いた。
まず、ダリウスが提案した倉庫の件だ。
ゴードンが場所と規模を確認するために、一日かけて見に行った。
帰ってきたゴードンが、机の上に地図を広げた。
「ルシェムから馬車で半日ほどの場所にあります。ヴァロウとベルナの中間に位置する。流通の拠点としては、地理的に良い場所です」
「規模は?」
「今の作業場の、三倍ほどの広さがあります。状態は良い。修理が必要な部分は少ない」
「いくら修理がかかりますか?」
「ハンスさんに見てもらえれば、正確な見積もりが出ます。私の目測では、それほど大きな費用にはならないと思います」
「ハンスさんに確認をお願いします」
「わかりました。それと、一点だけ」
「何ですか?」
「今のルシェムの作業場と、新しい倉庫を、どういう役割分担にするかを決める必要があります。全部を倉庫に移すのか、ルシェムは製造拠点として残すのか」
エリナは少しだけ考えた。
「ルシェムは残します」
「なぜですか?」
「ここが、出発点だから。ここで石鹸を作り始めた。ここに帰ってくる。それは変えない」
「では、倉庫は保管と流通の拠点として使う」
「そうします」
「わかりました」
ゴードンが地図をたたんだ。
「良い判断だと思います」
マリオにも伝えた。
「倉庫、使うことにしたのか」
「ハンスさんの確認が取れたら、正式に決めます」
「場所はどこだ」
「ヴァロウとベルナの中間」
「それは確かにいい場所だな」マリオが地図を見ながら言った。「マグダさんへの配送も、ベルダンさんへの配送も、どちらも効率が上がる」
「そうです」
「ダリウスが、それを考えて提案してきたんだな」
「そうだと思います」
「あの人、頭いいな。前に会った時に、ちょっと見直した」
「見直した、というのは?」
「手紙の話だけ聞いていた時は、敵か味方かわからない人間というイメージだった。でも、直接会ってみたら、ちゃんと考えている人間だとわかった」
「ルナが言っていました。実際に会ってみれば、わかることがある、と」
「ルナが?」
マリオが少し目を丸くした。
「そんなことを言うのか」
「正確には、猫のことを話しながら言っていましたが」
「それがルナらしいな」
ハンスが倉庫を見に行ったのは、三日後だった。
帰ってきたハンスが、長屋の前でエリナを待っていた。
「確認してきた」
「ありがとうございます。状態はどうでしたか?」
「悪くない。東側の壁の一部と、屋根の二カ所を補修すれば、十分使える」
「費用は?」
「うちで引き受ける。一週間あれば終わる」
「費用の見積もりを出してください。商会として払います」
「わかった」
ハンスが少し間を置いた。
「一つだけ言っていいか?」
「どうぞ」
「最初に木の容器を作った時のことを、覚えているか?」
「覚えています」
「あの時、後払いで引き受けた。信用はなかったが、引き受けた」
「はい」
「今、倉庫の修理を引き受ける。今度は信用があるから引き受ける。最初と今では、意味が違う」
エリナは、その言葉を受け取った。
「最初は、信用なしで引き受けてくれた」
「そうだ。それが、一番大事な引き受け方だった」
「なぜですか?」
「信用がある時に引き受けるのは、誰でもできる」ハンスが言った。「信用がない時に引き受けることが、信用を作る」
エリナは少しだけ、ハンスを見た。
この人は、普段はあまり言葉を使わない。
でも、言葉を使う時は、本当のことしか言わない。
「ありがとうございます」
「礼はいらない。見積もりは明日出す」
ハンスが帰っていった。
フィオナから、この週に二通手紙が来た。
一通目は、状況報告だった。
エリナへ
ダリウスの動きを引き続き見ている。
先週、クロヴェル家が商人ギルドの幹部の一人に会った。でも、今回は今までと違う内容だったらしい。「これまでの協力関係を見直したい」という話をしたと聞いた。
これは、ダリウスが動いている証拠だと思う。家の方針を、実際に変えようとしている。
アルバ殿下も、その動きを把握している。殿下は「良い方向だ」と言っていた。
それから、秋になる前に一度ルシェムに行きたい。いつがいいか教えてほしい。
――フィオナ――
二通目は、個人的な手紙だった。
追加で書く。
先日、父に会いに行った。ベルナに帰った。
父は、私が王都でやってきたことを、少しずつ聞いてきた。以前は、あまり細かく聞かなかった。今回は、聞いてきた。
話しながら、気づいたことがある。父は、私がいつかベルナに戻ってくると思っていた。私が王都に出ていったのを、一時的なことだと思っていた。
でも、私は、ベルナに戻るとは思っていなかった。
それが、今まで言えていなかった。
今回、初めて言った。「ベルナには戻らないかもしれない」と。
父は少し黙ってから、「そうか」と言った。それだけだった。
「そうか」の意味が、まだよくわからない。でも、言えてよかったと思っている。
――フィオナ――
エリナはフィオナの二通目の手紙を読んで、少しだけ止まった。
言えてよかったと思っている。
その言葉が、どこか自分と重なった。
ダリウスに「怒っています」と言えた時と、似た感覚だった。
言いにくいことを言えた時に、そう思う。
フィオナへ
状況報告、ありがとうございます。ダリウスが実際に動いていることが、確認できました。
倉庫の件が進んでいます。来週には修理が終わりそうです。正式に決まったら、報告します。
ルシェムには、いつでも来てください。マリオが『部屋を準備する』と言っています。
二通目を読みました。お父様に言えたこと、受け取りました。
『ベルナには戻らないかもしれない』と言えた。それは、大事なことを言えたと思います。
『そうか』の意味は、時間が経てばわかるかもしれません。でも、言えたことの方が、今は大事だと思います。
――エリナ――
レインへの手紙も、この週に書いた。
レインへ
倉庫の件が進んでいます。ハンスさんが修理を引き受けてくれた。来週には終わりそうです。
ハンスさんが言いました。「信用がない時に引き受けることが、信用を作る」と。
その言葉を、今日ずっと考えています。
最初に木の容器を作ってもらった時、私には何もなかった。信用も、実績も、お金も、全部が最小限だった。でも、ハンスさんは引き受けてくれた。その時に、信用が始まった。
今、倉庫の修理を引き受けてくれる。今度は信用がある。でも、あの最初の引き受け方の方が、重かったと言ってくれた。
信用は、最初に作られる。そう思いました。
それから、秋が近づいています。日の暮れるのが早くなってきました。夏と秋の間にいます。
冬の約束を、覚えています。
――エリナ――
その夜、エリナは作業場に一人で入った。
棚を見た。石鹸の型を見た。蒸留器を見た。
この場所から、すべてが始まった。
倉庫が使えるようになれば、保管と流通はそちらで行う。でも、製造はここで続ける。
ルシェムが、製造の場所であり続ける。
それを決めた時、迷わなかった。
なぜ迷わなかったかを、今夜、少し考えた。
帰ってくる場所だから、変えなかった。
でも、それだけではない気がした。
最初に石鹸を作った場所だから、続けたかった。
始まりの場所に、戻り続けることが、大事だと思っていた。
前世でも、そういう感覚があった気がした。
原点に戻ること。
原点がある人間は、遠くに行っても戻れる。
作業場を出ると、ルナが外にいた。
「遅くまでいるね」
「考えていました」
「何を?」
「なぜ、ルシェムでの製造を続けるかを」
「わかった?」
「少し。始まりの場所に戻り続けることが、大事だと思いました」
「そう猫も、同じ」
「猫も、始まりの場所に戻りますか?」
「戻る。最初に安心した場所を、覚えている。そこに戻る」
「それが、帰ってくる場所になるんですね」
「そう。最初に安心した場所が、ずっとその場所になる」
エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。
最初に安心した場所。
ルシェムが、そうなっていた。
没落して来た時は、仮の場所だと思っていた。
でも、いつの間にか、最初に安心した場所になっていた。
「ルナ」
「何?」
「ルナにとって、最初に安心した場所はどこですか?」
ルナが少し考えた。
「ここ」
ルナが静かに言った。
「エリナが来てから、ここが安心した場所になった」
「廃屋の前にいた頃より、安心できる場所が」
「うん。マリオが連れてきてくれて、エリナが仕事をくれた。それから、ここが安心した場所になった」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ルナが少しだけ、口の端を動かした。
「こちらこそ」
台所に戻ると、セレーナがまだ起きていた。
「遅かったわね」
「作業場とルナと、少し話していました」
「何の話を?」
「始まりの場所の話です」
「始まりの場所?」
「最初に安心した場所が、帰ってくる場所になる、という話です」エリナが言った。
「ルナが言ったの?」
「猫の話から来た話ですが」
セレーナが少し笑った。
「ルナちゃんらしい」
「そうです」
「エリナにとって、始まりの場所はここ?」
「ここです。ルシェムに来た時は、仮の場所だと思っていた。でも、いつの間にか、始まりの場所になっていた」
「始まりの場所は、選ぶものじゃないのかもしれないわね」
セレーナが穏やかに言った。
「気づいたらそうなっていた、という場所が、本当の始まりの場所だと思う」
「気づいたら、そうなっていた」
エリナが繰り返した。
「そうよ」
セレーナが薬草茶を二つ持ってきた。
「あなたも、私も、気づいたらここが帰る場所になっていた」
その夜、眠る前に、エリナは短いメモを書いた。
気づいたらそうなっていた場所が、本当の始まりの場所だ。
お母さんが言った言葉。
ルシェムが、そうだった。
選んだわけではない。でも、いつの間にかなっていた。
それで十分だ。
メモを引き出しに入れた。
今日のことを、レインに届けたくなった。
でも、今夜は自分のためだけにしておいた。
次に会った時に、話せるかもしれない。
ランプを吹き消した。
夏の終わりの夜が、窓の外にあった。
虫の声が、また少し変わっていた。
秋が、近づいている。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
今夜、始まりの場所について考えた。
気づいたらそうなっていた場所が、本当の始まりの場所だ。
それが今夜、一番大事なことだった。
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