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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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63/120

63話 秋になる前に

 八月の終わりが近づいた。

 虫の声が変わった。

 日の暮れる時間が、少しずつ早くなってきた。

 エリナは夕方、作業場の前に立って、日が沈む方向を見た。

 七月の終わり頃より、明らかに早く暗くなっている。

 季節が動いている。

 その変化を、体で感じることが、最近できるようになっていた。

 以前は、日照時間の変化は仕事の段取りに影響する情報だった。

 今は、それ以上の何かとして感じる。

 うまく言葉にできないが、感じる。


 八月の最後の週に、いくつかのことが動いた。

 まず、ダリウスが提案した倉庫の件だ。

 ゴードンが場所と規模を確認するために、一日かけて見に行った。

 帰ってきたゴードンが、机の上に地図を広げた。

 

「ルシェムから馬車で半日ほどの場所にあります。ヴァロウとベルナの中間に位置する。流通の拠点としては、地理的に良い場所です」

「規模は?」

「今の作業場の、三倍ほどの広さがあります。状態は良い。修理が必要な部分は少ない」

「いくら修理がかかりますか?」

「ハンスさんに見てもらえれば、正確な見積もりが出ます。私の目測では、それほど大きな費用にはならないと思います」

「ハンスさんに確認をお願いします」

「わかりました。それと、一点だけ」

「何ですか?」

「今のルシェムの作業場と、新しい倉庫を、どういう役割分担にするかを決める必要があります。全部を倉庫に移すのか、ルシェムは製造拠点として残すのか」

 

 エリナは少しだけ考えた。

 

「ルシェムは残します」

「なぜですか?」

「ここが、出発点だから。ここで石鹸を作り始めた。ここに帰ってくる。それは変えない」

「では、倉庫は保管と流通の拠点として使う」

「そうします」

「わかりました」


 ゴードンが地図をたたんだ。


「良い判断だと思います」


 マリオにも伝えた。

 

「倉庫、使うことにしたのか」

「ハンスさんの確認が取れたら、正式に決めます」

「場所はどこだ」

「ヴァロウとベルナの中間」

「それは確かにいい場所だな」マリオが地図を見ながら言った。「マグダさんへの配送も、ベルダンさんへの配送も、どちらも効率が上がる」

「そうです」

「ダリウスが、それを考えて提案してきたんだな」

「そうだと思います」

「あの人、頭いいな。前に会った時に、ちょっと見直した」

「見直した、というのは?」

「手紙の話だけ聞いていた時は、敵か味方かわからない人間というイメージだった。でも、直接会ってみたら、ちゃんと考えている人間だとわかった」

「ルナが言っていました。実際に会ってみれば、わかることがある、と」

「ルナが?」


 マリオが少し目を丸くした。


「そんなことを言うのか」

「正確には、猫のことを話しながら言っていましたが」

「それがルナらしいな」


 ハンスが倉庫を見に行ったのは、三日後だった。

 帰ってきたハンスが、長屋の前でエリナを待っていた。

 

「確認してきた」

「ありがとうございます。状態はどうでしたか?」

「悪くない。東側の壁の一部と、屋根の二カ所を補修すれば、十分使える」

「費用は?」

「うちで引き受ける。一週間あれば終わる」

「費用の見積もりを出してください。商会として払います」

「わかった」


 ハンスが少し間を置いた。


「一つだけ言っていいか?」

「どうぞ」

「最初に木の容器を作った時のことを、覚えているか?」

「覚えています」

「あの時、後払いで引き受けた。信用はなかったが、引き受けた」

「はい」

「今、倉庫の修理を引き受ける。今度は信用があるから引き受ける。最初と今では、意味が違う」

 

 エリナは、その言葉を受け取った。

 

「最初は、信用なしで引き受けてくれた」

「そうだ。それが、一番大事な引き受け方だった」

「なぜですか?」

「信用がある時に引き受けるのは、誰でもできる」ハンスが言った。「信用がない時に引き受けることが、信用を作る」

 

 エリナは少しだけ、ハンスを見た。

 この人は、普段はあまり言葉を使わない。

 でも、言葉を使う時は、本当のことしか言わない。

 

「ありがとうございます」

「礼はいらない。見積もりは明日出す」

 

 ハンスが帰っていった。


 フィオナから、この週に二通手紙が来た。

 一通目は、状況報告だった。


 エリナへ

 

 ダリウスの動きを引き続き見ている。

 先週、クロヴェル家が商人ギルドの幹部の一人に会った。でも、今回は今までと違う内容だったらしい。「これまでの協力関係を見直したい」という話をしたと聞いた。

 これは、ダリウスが動いている証拠だと思う。家の方針を、実際に変えようとしている。

 アルバ殿下も、その動きを把握している。殿下は「良い方向だ」と言っていた。

 それから、秋になる前に一度ルシェムに行きたい。いつがいいか教えてほしい。

 

                                    ――フィオナ――


 二通目は、個人的な手紙だった。


 追加で書く。

 先日、父に会いに行った。ベルナに帰った。

 父は、私が王都でやってきたことを、少しずつ聞いてきた。以前は、あまり細かく聞かなかった。今回は、聞いてきた。

 話しながら、気づいたことがある。父は、私がいつかベルナに戻ってくると思っていた。私が王都に出ていったのを、一時的なことだと思っていた。

 でも、私は、ベルナに戻るとは思っていなかった。

 それが、今まで言えていなかった。

 今回、初めて言った。「ベルナには戻らないかもしれない」と。

 父は少し黙ってから、「そうか」と言った。それだけだった。

 「そうか」の意味が、まだよくわからない。でも、言えてよかったと思っている。

 

                                    ――フィオナ――


 エリナはフィオナの二通目の手紙を読んで、少しだけ止まった。

 言えてよかったと思っている。

 その言葉が、どこか自分と重なった。

 ダリウスに「怒っています」と言えた時と、似た感覚だった。

 言いにくいことを言えた時に、そう思う。


 フィオナへ

 

 状況報告、ありがとうございます。ダリウスが実際に動いていることが、確認できました。

 倉庫の件が進んでいます。来週には修理が終わりそうです。正式に決まったら、報告します。

 ルシェムには、いつでも来てください。マリオが『部屋を準備する』と言っています。

 二通目を読みました。お父様に言えたこと、受け取りました。

『ベルナには戻らないかもしれない』と言えた。それは、大事なことを言えたと思います。

『そうか』の意味は、時間が経てばわかるかもしれません。でも、言えたことの方が、今は大事だと思います。

 

                                      ――エリナ――


 レインへの手紙も、この週に書いた。

 

 レインへ

 

 倉庫の件が進んでいます。ハンスさんが修理を引き受けてくれた。来週には終わりそうです。

 ハンスさんが言いました。「信用がない時に引き受けることが、信用を作る」と。

 その言葉を、今日ずっと考えています。

 最初に木の容器を作ってもらった時、私には何もなかった。信用も、実績も、お金も、全部が最小限だった。でも、ハンスさんは引き受けてくれた。その時に、信用が始まった。

 今、倉庫の修理を引き受けてくれる。今度は信用がある。でも、あの最初の引き受け方の方が、重かったと言ってくれた。

 信用は、最初に作られる。そう思いました。

 それから、秋が近づいています。日の暮れるのが早くなってきました。夏と秋の間にいます。

 冬の約束を、覚えています。

 

                                      ――エリナ――


 その夜、エリナは作業場に一人で入った。

 棚を見た。石鹸の型を見た。蒸留器を見た。

 この場所から、すべてが始まった。

 倉庫が使えるようになれば、保管と流通はそちらで行う。でも、製造はここで続ける。

 ルシェムが、製造の場所であり続ける。

 それを決めた時、迷わなかった。

 なぜ迷わなかったかを、今夜、少し考えた。

 帰ってくる場所だから、変えなかった。

 でも、それだけではない気がした。

 最初に石鹸を作った場所だから、続けたかった。

 始まりの場所に、戻り続けることが、大事だと思っていた。

 前世でも、そういう感覚があった気がした。

 原点に戻ること。

 原点がある人間は、遠くに行っても戻れる。


 作業場を出ると、ルナが外にいた。

 

「遅くまでいるね」

「考えていました」

「何を?」

「なぜ、ルシェムでの製造を続けるかを」

「わかった?」

「少し。始まりの場所に戻り続けることが、大事だと思いました」

「そう猫も、同じ」

「猫も、始まりの場所に戻りますか?」

「戻る。最初に安心した場所を、覚えている。そこに戻る」

「それが、帰ってくる場所になるんですね」

「そう。最初に安心した場所が、ずっとその場所になる」

 

 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。

 最初に安心した場所。

 ルシェムが、そうなっていた。

 没落して来た時は、仮の場所だと思っていた。

 でも、いつの間にか、最初に安心した場所になっていた。

 

「ルナ」

「何?」

「ルナにとって、最初に安心した場所はどこですか?」

 

 ルナが少し考えた。

 

「ここ」


 ルナが静かに言った。


「エリナが来てから、ここが安心した場所になった」

「廃屋の前にいた頃より、安心できる場所が」

「うん。マリオが連れてきてくれて、エリナが仕事をくれた。それから、ここが安心した場所になった」

「ありがとうございます」

「どういたしまして」


 ルナが少しだけ、口の端を動かした。


「こちらこそ」


 台所に戻ると、セレーナがまだ起きていた。

 

「遅かったわね」

「作業場とルナと、少し話していました」

「何の話を?」

「始まりの場所の話です」

「始まりの場所?」

「最初に安心した場所が、帰ってくる場所になる、という話です」エリナが言った。

「ルナが言ったの?」

「猫の話から来た話ですが」

 

 セレーナが少し笑った。

 

「ルナちゃんらしい」

「そうです」

「エリナにとって、始まりの場所はここ?」

「ここです。ルシェムに来た時は、仮の場所だと思っていた。でも、いつの間にか、始まりの場所になっていた」

「始まりの場所は、選ぶものじゃないのかもしれないわね」


 セレーナが穏やかに言った。


「気づいたらそうなっていた、という場所が、本当の始まりの場所だと思う」

「気づいたら、そうなっていた」


 エリナが繰り返した。

 

「そうよ」


 セレーナが薬草茶を二つ持ってきた。


「あなたも、私も、気づいたらここが帰る場所になっていた」


 その夜、眠る前に、エリナは短いメモを書いた。

 

気づいたらそうなっていた場所が、本当の始まりの場所だ。

お母さんが言った言葉。

ルシェムが、そうだった。

選んだわけではない。でも、いつの間にかなっていた。

それで十分だ。

 

 メモを引き出しに入れた。

 今日のことを、レインに届けたくなった。

 でも、今夜は自分のためだけにしておいた。

 次に会った時に、話せるかもしれない。


 ランプを吹き消した。

 夏の終わりの夜が、窓の外にあった。

 虫の声が、また少し変わっていた。

 秋が、近づいている。

 

 エリナ・アッシュフォード、八歳。

 

 今夜、始まりの場所について考えた。

 気づいたらそうなっていた場所が、本当の始まりの場所だ。

 それが今夜、一番大事なことだった。

読んでいただきありがとうございます。

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