62話 夏の終わりと、ダリウスの訪問
八月になった。
夏の終わりが、少しずつ近づいていた。
朝の空気が、七月よりも少しだけ柔らかくなった。日差しはまだ強いが、夕方になると風が変わる。
エリナは毎朝、窓を開けながら、今日の変化を感じた。
昨日と今日の違いを、空気で確認する。
それが、習慣になっていた。
八月の初めに、ダリウスから手紙が来た。
エリナ・アッシュフォード殿へ
少し、言葉が増えてきた。
前の手紙に、父の方針をそのまま続けるつもりはない、と書いた。その続きを書く。
具体的に、どういう方針を取るかを、少しずつ決めてきた。
一つ目。クロヴェル家として、魔法省への影響力を以前のような形では使わない。
二つ目。商人ギルドとの関係を、特定の商会を利益誘導する形では持たない。
三つ目。これが、あなたに直接関係する。アッシュフォード商会の活動を、今後支援する方向で動きたいと考えている。
支援、という言葉が大きすぎるかもしれない。でも、少なくとも、邪魔をしない。それ以上のことができるかどうかは、まだわからない。
一度、直接話したいと思っている。ルシェムに行っていいか。
――ダリウス・クロヴェル――
エリナは手紙を三度読んだ。
ダリウスが、ルシェムに来たいと言っている。
直接話したい、と。
エリナはフィオナに速達を送った。
フィオナへ
ダリウスから手紙が来た。転送します。
ルシェムに来たいと言っている。どう思いますか。
――エリナ――
フィオナからの返事は翌日来た。
読んだ。
来させていい、と私は思う。
理由は三つ。一つ目、彼が自分から動こうとしている。二つ目、手紙の内容が具体的になってきた。曖昧な言葉ではなく、一つ目、二つ目、三つ目と書いた。これは、本気で整理してきた人間の書き方だ。三つ目、ルシェムという場所が大事だと思う。あなたの場所で話すことに、意味がある。
ただし、一つだけ条件を言う。
マリオを、話の場に同席させてほしい。あなた一人で対応する必要はない。信頼できる人間が横にいる方がいい。
――フィオナ――
エリナはフィオナの意見を受け取って、ダリウスへの返事を書いた。
ダリウス様へ
手紙を受け取りました。
来てください。ルシェムでお話しします。
日程を教えてください。準備します。
――エリナ・アッシュフォード――
マリオに話すと、少し顔を引き締めた。
「ダリウスが来るのか?」
「来週か再来週になると思います」
「どんな話をするんだ?」
「支援したいと言っています。ただし、どういう形かはまだわからない。直接聞きます」
「俺も同席していいか?」
「フィオナもそう言っていました。一緒にいてほしい」
「わかった。ダリウスという人間を、俺は直接見たことがない。手紙の話しか聞いていない」
「そうでしたね」
「実際に会ってみれば、わかることがある。お前が言っていた言葉だ」
「私が言いましたか?」
「言った。ゴードンさんを採用する前に」
「覚えていたんですか」
「大事なことは覚える」
一週間後、ダリウスが来た。
馬車で来た。供が一人だけだった。
前回ルシェムに来た時は、供が複数いた。今回は一人だ。
エリナが長屋の前で迎えた。
ダリウスが馬車から降りた。
整った顔は変わっていなかった。でも、以前と少し違って見えた。
疲れているわけではない。
軽くなった、という感じだった。
「来てくれましたね」
エリナが言った。
「来た」
ダリウスが言った。
「前回来た時とは、違う気分だ」
「どう違いますか?」
「前回は、探りに来ていた」
ダリウスが静かに言った。
「今回は、話しに来た」
事務室に通した。
マリオが同席した。
ゴードンは事務室の外で待つことにした。
「マリオ・ヴェントです」
マリオが自己紹介した。
「エリナの幼馴染で、商会の現場責任者です」
「ダリウス・クロヴェルだ。名前は知っているか?」
「知っています。でも、会うのは初めてです」
「そうだな。俺も、君のことは話で知っている」
「エリナから聞いたんですか?」
「手紙に何度か出てきた。マリオが、という形で」
「そうか」
マリオが少しだけ笑った。
「俺のことを、ダリウス様に話していたのか」
「個人情報ではありません。商会の話をする時に、マリオが、という形で出てきただけです」
エリナが言った。
「それで十分だ。商会の話の中に、名前が出てくる人間が信頼できる仲間だと、わかる」
話が始まった。
「まず、父のことを話させてほしい」
ダリウスが言った。
「どうぞ」
「父がアッシュフォード侯爵を陥れた。それは事実だ。俺は、それを止められなかった。幼かったから、という言い訳はできる。でも、成人してからも、長い間、気づかないふりをしてきた」
エリナは黙って聞いた。
「気づかないふりをしていた、というのが正確かどうかわからない。父の論理の中にいると、それが当たり前に見えた。でも、お前の商会の話を聞いて、数字を見て、魔法なしで人が助かっていることを知って、初めて父の論理の外を見た」
「外を見た、というのは?」
「魔法が届かなくても、人は生きていける。魔法がなければ劣る、という論理が、間違っていると気づいた。お前が、それを証明してくれた」
「証明、という言葉は少し大きいと思います。私は、ただやっていただけです」
「やっていることが、証明になる。言葉より、行動の方が、証拠になる」
マリオが、静かに聞いていた。
話の途中で、一度だけ口を開いた。
「ダリウス様」
「何だ?」
「一つだけ聞いていいですか?」
「どうぞ」
「なぜ今、動こうとしているんですか。前からわかっていたなら、もっと早く動けたんじゃないかと思って」
エリナが少しだけ、マリオを見た。
直接的な質問だった。でも、マリオらしかった。
ダリウスが少し間を置いた。
「正直に言う」
「お願いします」
「父が退く前は、動く場所がなかった。動けば、家の中での立場がなくなる。立場がなくなれば、将来的に動けることが減る。だから、最小限のことしかできなかった」
「一票を入れてくれた時とか?」
マリオが言った。
「そうだ」
「でも、今は動ける?」
「父が退いた。家の方針を立て直す必要がある。その時に、自分の方針を入れられる。空白の時に、動ける」
「空白の時、か」
マリオが少し考えた。
「なるほど」
「納得できるか?」
「完全にではないです。でも、わかります。自分がどう動けるかは、周りの状況に影響される。エリナも、没落してから動き始めた。ある意味、空白の時があったから動けた、という点では似てるかもしれません」
エリナは少し驚いた。
マリオが、エリナとダリウスを重ねた。
エリナ自身は、そう考えたことがなかった。
ダリウスも、少しだけ驚いた顔をした。
「……そういう見方は、していなかった」
「でも、違いますか?」
「違わないかもしれない」
話が一段落した後、ダリウスが具体的な話を始めた。
「支援、という言葉を手紙に書いた。具体的に何ができるかを話したい」
「聞かせてください」
「クロヴェル家は、地方の農地と商業施設を複数持っている。その中に、ルシェムから馬車で半日ほどの場所に、使われていない倉庫がある」
「倉庫、ですか」
「石鹸と薬草薬の保管に使える。今の商会の作業場より、広い。流通の拠点になるかもしれない」
エリナは少しだけ、考えた。
「なぜ、そういう形の支援を考えたのですか?」
「お前の商会が何を必要としているかを、手紙を読みながら考えた。資金ではなく、場所だと思った。供給量を増やすには、保管場所が必要だ。それなら、提供できる」
「賃料は」
「象徴的な額でいい。無償にすると、関係が歪む」
エリナはゴードンを呼んだ。
状況を説明すると、ゴードンが考えてから言った。
「倉庫の場所と規模を確認してから、判断しましょう。今日すぐに決めることではありません」
「そうですね」
エリナがダリウスを見た。
「今日は、提案を受け取りました。確認してから、返事をします」
「それでいい。急がない」
夕方、ダリウスが帰る前に、少しだけ二人で話した。
マリオとゴードンは外に出ていた。
「一つだけ、聞いていいか?」
「どうぞ」
「お前は、父のことを、今どう思っている」
エリナは少しだけ考えた。
「怒っています」
「そうか」
「でも、その怒りで動くつもりはありません。怒りで動くと、怒りが消えた時に動けなくなる。だから、別の理由で動く」
「別の理由とは」
「やりたいことがあるから、動く。父が夢見たものを、自分でも見たいから、動く。それが理由です」
「父への怒りは、どうする」
「持っています。でも、後ろに置いておく。前に向かって動く時に、怒りを前に置くと、重くなる」
ダリウスが少しだけ、エリナを見た。
「……それは、難しいことだ」
「難しいです。でも、そうしないと、消耗する」
「お前は、八歳とは思えない」
「よく言われます」
「誰に?」
「ほぼ、全員に」
ダリウスが、珍しく声を出して笑った。
ダリウスが帰った後、マリオが戻ってきた。
「どうだった?」
「話せました。倉庫の提案は、確認してから判断します」
「あの人、悪い人じゃないな」
「そう思いますか?」
「直接会ってみて、わかった。手紙の話だけでは判断できなかった部分が、少し見えた」
「どういう部分ですか?」
「目が、正直だった。フィオナさんが言っていた通り、嘘をつく目じゃなかった」
「フィオナが、そういうことを言っていましたか」
「言ってた。手紙で読んだ。俺も、それを確認できた」
その夜、エリナはフィオナへの手紙を書いた。
フィオナへ
ダリウスが来た。話せた。
倉庫の提案があった。ルシェムから馬車で半日の場所にある、使われていない倉庫を、流通の拠点として使わせてくれるという提案だ。賃料は象徴的な額でいいと言っていた。
まだ確認が必要だが、本気だと思った。
マリオが、「ダリウスとエリナは、空白の時に動き始めた、という点で似ている」と言った。私は、そう考えたことがなかった。でも、否定もできなかった。
フィオナの条件通り、マリオを同席させた。良かったと思います。マリオが、見えていなかったものを見てくれた。
――エリナ――
レインへも手紙を書いた。
レインへ
ダリウスが来た。直接話した。
倉庫の提案があった。それとは別に、一つ気づいたことを届けたい。
ダリウスに『父のことをどう思っているか』と聞かれた。正直に答えた。怒っています、と。でも、怒りで動くつもりはない、と。
答えながら、自分で驚いた。以前は、怒りを認めることが難しかった気がする。でも今日は、怒っています、と言えた。
あなたが言っていた。重い時は重いと言っていい、と。
あの言葉が、今日も生きていた気がします。
――エリナ――
書いて、封をした。
「怒っています、と言えた」という部分を、書いてから少しだけ見た。
言えた。
怒りを認めることが、弱さではないと、今日はわかった気がした。
怒りを持ちながら、別の理由で動く。
それが、今の自分だった。
ランプを吹き消した。
夏の終わりの夜が、窓の外にあった。
虫の声が、少し変わっていた。
夏の虫から、秋の虫に変わり始めていた。
季節が、また動いていた。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
今日、ダリウスと直接話した。
怒っています、と言えた。
怒りを前に置かずに、別の理由で動く、と言えた。
それが今夜、一番大事なことだった。
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