61話 夏が来た
六月になった。
ルシェムに、本格的な夏が来た。
朝の空気が、五月とはまた違った。湿度が上がって、日差しが強くなった。市場の人たちが、夏の薄い服を着るようになった。
エリナは台所の窓を開けて、今日の空気を確認した。
暑い。でも、今日は少し風がある。
それが、少しだけ嬉しかった。
このくらいの気温なら、石鹸の製造に支障はない。でも、薬草の保存に注意が必要になる。熱で品質が変わるものがある。
作業場に行って、ルナに確認した。
「夏の保存、大丈夫ですか」
「対応済み」
ルナが棚を見ながら言った。
「先週から涼しい側の棚に移している」
「先週から、ですか」
「夏になる前に動くのが大事」
「ありがとうございます。気づきませんでした」
「エリナは、他のことを考えているから。私が作業場を見る」
「そういう役割分担が、できているんですね」
「できている。それでいい」
六月になってから、学院の衛生教育の準備が本格化してきた。
レインから手紙が頻繁に来た。
エリナへ
前期の授業が来月から始まる。石鹸の最初の供給は、七月の第一週に届ければいい。
一点確認がある。授業で実際に石鹸を使って手洗いをするデモンストレーションを行う。その時、製法の簡単な説明も入れたいのだが、製法の内容をどこまで公開していいか。
企業秘密の部分があれば、伏せることもできる。
――レイン――
エリナはゴードンと相談した。
「製法の公開、どうしましょうか?」
「私の意見を言っていいですか?」
「どうぞ」
「全部公開した方がいいと思います」
「なぜですか?」
「知識は、広まれば広まるほど強くなります。製法が広まれば、より多くの人が石鹸を作れるようになる。それは、アッシュフォード商会の利益とは相反するかもしれません。でも、目的を考えると、正しい選択だと思います」
「商会の利益より、広まることを選ぶ、ということですか?」
「エリナさんがこれまでやってきたことを見ていると、そういう判断をされてきた気がします」
エリナは少しだけ考えた。
ゴードンの言う通りだった。
最初から、石鹸の効果を広めることが目的だった。商会の利益は、そのための手段だった。
「全部公開します。レインに伝えてください」
「書きますか、それともエリナさんが直接」
「私が書きます」
レインへ
製法は、全部公開して構いません。
理由を一つだけ書きます。知識は、広まれば広まるほど強くなるから。
これは、ゴードンさんが言った言葉です。でも、私もそう思います。
製法を教えることで、学院の生徒たちが卒業後に自分で作れるようになる。それが、王国全体に広まる一番の方法です。
――エリナ――
レインから返事が来た。
了解した。製法は全部開示する。
一つ、師匠が言っていた。「この商会は、知識を囲い込まない」と。それが、長く続く理由だと言っていた。
七月第一週の供給、準備しておいてくれ。
それとは別に。
今週、少し忙しかった。授業の準備が重なって、夜遅くまで作業していた。
疲れた時に、お前の手紙を読んだ。少し楽になった。
なぜそうなるのかは、わからない。でも、そうなる。
――レイン――
エリナはレインの手紙を読んで、最後の三行を少しだけ見た。
疲れた時に、手紙を読んで楽になった。
なぜそうなるかはわからない。でも、そうなる。
それが、嬉しかった。
レインへ
七月第一週の供給、準備します。
師匠の言葉、受け取りました。囲い込まない、という言葉が、正確だと思います。
疲れた時に読んで楽になった、という言葉を受け取りました。私の手紙が、そういう役割を果たせていたとしたら、嬉しいです。
私も、あなたの手紙を読むと、何かが補充される感じがします。フィオナが「充電される」と言っていた言葉が、正確かもしれません。
夏になりました。ルシェムが暑い。でも、ルナが作業場の保存を完璧に管理してくれているので、品質は問題ありません。
――エリナ――
七月の第一週が来た。
学院への最初の供給が出発した。
マリオが荷物を馬車に積むのを手伝った。
「これが、学院に行くのか」
マリオが箱を抱えながら言った。
「そうです」
「なんか、感慨深いな」
「どういう意味ですか」
「最初に、台所で石鹸を型に流し込んでいた頃、学院に届くなんて思っていなかった」マリオが言った。「今、それが現実になっている」
「そうですね」
「お前は、感慨深くないのか」
「感慨深い、という言葉が正確かどうかわかりませんが、同じようなことを感じています」
「どんなことを?」
「最初の一手が、ここまで繋がったな、と思っています。豆のペーストから始まって、石鹸になって、薬草薬になって、学院の授業になった」
「一本の線が繋がったんだな」マリオが言った。
「そうです」
「お前が言う、一手ずつ積み上げる、というやつだ」
「マリオが覚えていたんですか?」
「忘れるわけがない。ずっと聞いてきたから」
荷物が出発した後、エリナはグレンに会いに行った。
特に用事があったわけではない。
でも、会いたかった。
「グレンさん」
「何だ?」
「学院への供給が、今日出発しました」
「そうか」
「報告したかったんです」
グレンが少しだけ、エリナを見た。
「なぜ俺に?」
「最初から見てくれていたから。石鹸が出回り始めた頃から、グレンさんがいた。だから、報告したかった」
グレンがしばらく黙った。
「……傷が膿まなくなった」
「はい」
「それだけで、十分だ」
「ありがとうございます」
「礼はいらない。でも、よくやった」
グレンが言う「よくやった」は、短かった。
でも、短いから重かった。
その夜、エリナはフィオナへの手紙を書いた。
フィオナへ
今日、学院への最初の供給が出発しました。
グレンさんに報告しました。「よくやった」と言ってくれました。
豆のペーストから始まって、ここまで来た。それが今日、実感として届きました。
フィオナ、一つ聞かせてください。王都は、夏はどうですか。
――エリナ――
フィオナからの返事は三日後に来た。
エリナへ
学院への供給、おめでとう。
グレンさんが「よくやった」と言った話、少し笑った。あの人らしいと思って。
王都の夏を教える。
暑い。石畳が熱を持って、昼間は歩くのがつらい。でも、夕方になると少し涼しくなって、人が外に出てくる。その時間が好きだ。
ダリウスの動きを少し書く。先月から、クロヴェル家として、いくつかの商人ギルドとの関係を見直しているようだ。前の父親のやり方とは、少し違う方向に動いている気がする。まだ確信はないけど、見ている。
アルバ殿下は先週、地方への視察に出た。視察先に、あなたの商会が供給している地域が含まれている。殿下が直接確認しに行った形になる。
ルシェムの夏はどう?
――フィオナ――
エリナはフィオナの手紙を読んで、アルバ殿下の視察の話を、ゴードンに共有した。
「殿下が、直接確認しに行かれたということですね」
「そうです。どの地域かはわかりませんが、ベルナかヴァロウかもしれません」
「報告書の準備をしておきましょう。殿下が確認された後、何か連絡が来るかもしれません」
「そうします」
七月の中頃、アルバ殿下から直接手紙が来た。
エリナ殿へ
先日、ベルナとヴァロウを視察した。両方の町で、商会の石鹸と薬草薬が使われているのを直接確認した。
ベルナのベルダン会頭にも会ってきた。会頭は「一年後の結果を報告してくれた」と嬉しそうに話してくれた。商会への信頼が、本物だとわかった。
ヴァロウでは、マグダ殿に案内してもらった。町の人たちが、石鹸の使い方を当たり前のように知っていた。誰かに教えてもらった様子ではなく、習慣になっていた。それが、一番印象に残った。
これを父上に報告した。父上は、「続けてほしい」と言った。
エリナ殿、夏も元気でいてほしい。
――アルバ・ヴァルデリア――
エリナはアルバ殿下の手紙を読んで、少しだけ目を閉じた。
習慣になっていた。誰かに教えてもらった様子ではなく。
それが、一番印象に残った、と殿下が書いた。
マグダが言っていた言葉を思い出した。
『変わらないから、いい』
変わらない習慣になった。
それが、一番強い形だ。
ルナに、殿下の手紙の話をした。
「殿下が、ヴァロウで習慣になっていたと書いてくれました」
「そう」
ルナが棚を見ながら言った。
「嬉しくないですか」
「嬉しい。でも、当たり前だと思っていた」
「当たり前?」
「続けていれば、習慣になる。それが当たり前だから、驚くことではない。でも、嬉しいことではある」
「その両方が、ルナらしいです」
「そう」
ルナが少し間を置いた。
「猫も、習慣がある」
「どんな習慣ですか?」
「毎日、同じ時間に、同じ場所に来る。それが変わらない」
「猫も、続けているんですね」
「続けている。だから、信頼できる」
その夜、エリナはレインへの手紙を書いた。
レインへ
今日、アルバ殿下から手紙が来た。ベルナとヴァロウを視察してくれた。ヴァロウでは、石鹸の使い方が習慣になっていたと書いてくれた。誰かに教えてもらった様子ではなく、と。
それを読んで、少しだけ目を閉じた。
最初に石鹸を作った時、習慣になるとは考えていなかった。でも、なった。
ルナが言っていた。続けていれば、習慣になる。それが当たり前だと。
あなたが言っていた言葉も、思い出した。見えていないものが積み重なっている、と。
見えていないところで、積み重なっていた。それが習慣になった。
夏が来ています。ルシェムは暑いです。でも、悪くない夏です。
冬の約束、覚えています。
――エリナ――
書いて、封をした。
「悪くない夏です」という一行を、書いてから少しだけ見た。
悪くない。
以前は使わなかった言葉だ。
でも、今はよく使う。
感覚の言葉だ、とマリオが言っていた。
夏が来た。
悪くない夏だ。
ランプを吹き消した。
夏の夜が、窓の外にあった。
虫の声が、遠くで聞こえた。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
今日、学院への供給の話と、殿下の視察の話と、ルナの猫の習慣の話を聞いた。
全部が、繋がっている気がした。
続けることが、習慣になる。
習慣になったものは、なくならない。
それが今夜、一番確かなことだった。
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