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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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60/120

60話 レインが、三度目に来た日

 五月の終わりに、レインが来た。

 今回も、馬で来た。

 午前中に着いた。

 エリナが長屋の前で待っていると、馬の蹄の音が聞こえてきた。

 春の終わりの光の中で、レインが来た。

 前回より、少し速く来た気がした。

 馬から降りて、エリナを見た。

 

「来た」

「来てくれた」

 

 同じやり取りだった。

 でも、今回は間がなかった。

 前回は少し間があった。

 今回は、すぐに言えた。


 まず、衛生教育の確認をした。

 学院の前期カリキュラムに合わせた供給スケジュールを、レインとゴードンが確認した。

 一時間ほどで終わった。

 

「問題ありません」

「こちらも問題ない」

 

 レインが頷いた。

 

「では、今週中に最終書類を送ります」

「頼む」

 

 ゴードンが席を外した。

 事務室に、エリナとレインが残った。

 

「仕事の話は終わりました?」

「そうだな」

「今日は、他に何かありますか?」

「ある。前回、言えたことがあった」

「はい」

「今日は、もう少し先を話せるかもしれない」


 エリナは少しだけ、レインを見た。

 

「聞かせてください」

「急ぎではない。でも、言いたかった」


 レインが少し間を置いた。


「一年半前、ルシェムに来た時のことを覚えているか?」

「覚えています。初めて来た時ですね。雨が降っていた」

「雨だったな」

「靴底の紐が切れかけていた」

「直した」

「次に来た時は、ちゃんと直っていました」

 

 レインが少しだけ、口の端を動かした。

 

「あの時、お前が靴底を直してくれようとした」

「紐で応急処置をしただけです」

「でも、見てくれた。初めて会った日に、俺の靴底を見た。それが、最初のことだった」

「そうでしたね」

「その後、手紙を何度もやり取りして、ルシェムに何度も来て。前回、言えた言葉がある」

「はい」

「あなたといる時間が、好きだ、と」

「覚えています」

「今日は、その続きを言いたい」


 エリナは少しだけ、息を整えた。

 整理しようとした。

 でも、やめた。

 ただ、聞いた。

 

「俺は」


 レインが静かに言った。


「お前と、これからも手紙を書き続けたいと思っている」

「それは、今もしています」

「知っている。でも、これからも、ずっと、という意味だ」

「ずっと?」

「そうだ。来年も、再来年も、十年後も」

 

 エリナは少しだけ、目を細めた。

 

「それは」

「それは、何だ」

「それは、手紙だけの話ですか?」

 

 レインが少しだけ止まった。

 

「手紙だけではない」

「では?」

「ルシェムにも、これからも来たい。お前がいる場所に、来たい。手紙でなくても、直接会って話したい」

「それは……それは、どういう意味ですか?」

 

 レインが少し間を置いた。

 

「まだうまく言葉にできない部分がある。でも、一つだけ言える」

「どうぞ」

「お前のことが、大事だ。それは、一年後の約束の夜にも言った。今日も、同じことを言う。でも、今日は少し違う意味で言う」

「どう違いますか?」

「あの夜は、今感じていることを言った。今日は、これからのことを言っている」


 エリナは、その言葉を受け取った。

 これからのことを言っている。

 整理しなかった。

 分析しなかった。

 ただ、受け取った。

 それから、少しだけ考えた。

 自分が言いたいことを、考えた。

 

「レイン」

「何だ?」

「私も、これからのことを言っていいですか?」

「どうぞ」

「私も、あなたと手紙を書き続けたいと思っています。ずっと」

「そうか」

「それと、ルシェムに来てほしいと思っています。来年も、再来年も。来るたびに、待っています、と言います」

「毎回言っているな」

「本当のことだから、毎回言います。でも、今日はもう少し言います」

「何を?」

「待っているだけでなく、私もあなたのいる場所に行きたい、と思っています」

 

 レインが少しだけ、エリナを見た。

 

「王都か?」

「王都でも、学院でも。あなたがいる場所なら」

「図書室でもいいか?」

「図書室でも。霜で白くなった石畳を、一度見たいと思っていました」

「手紙に書いたものか」

「あなたが手紙に書いてくれたから、想像していました」

 

 レインが少しだけ、目を細めた。

 

「来るなら、来てほしい。歓迎する」

「いつか、行きます」

「約束」

「約束です」


 しばらく、二人で黙っていた。

 事務室の窓から、五月の光が差し込んでいた。

 ルシェムの初夏の光だった。

 

「一つだけ聞いていいか?」

「どうぞ」

「お前は、今、どういう気持ちだ?」

「今どういう気持ちか、ですか」

「そうだ。前に俺が聞いたことがある。今日は、お前から聞いてほしい」

 

 エリナは少しだけ考えた。

 

「整理できていません」

「それでいい」

「でも、言葉にできることがあります」

「言ってみてくれ」

「嬉しいと思っています。それが一番正直な言葉です」

「嬉しい?」

「はい。うまく言葉にできない部分がまだあります。でも、嬉しい、というのは確かです」

 

 レインが少しだけ、また口の端を動かした。

 

「俺も、嬉しい」

「言葉にできましたか?」

「今日は、できた」


 昼食は、全員で食べた。

 セレーナ、マリオ、ルナ、ゴードン、レイン、エリナ。

 マリオがレインに、市場の最近の話をした。

 石鹸を贈る習慣の話もした。

 

「赤ちゃんが生まれた家に、石鹸を贈るのか」


 レインが言った。

 

「自然にそうなったらしい。マグダさんが手紙に書いてきた」


 マリオが笑った。


「なんか、いいよな」

「そうだな」

「誰が始めたかわからないのに、広まった。そういうのが、一番強い気がする」

「どういう意味だ?」

「誰かが押しつけたんじゃなくて、自然に広まったってことは、本当に必要だったってことだろ。押しつけられたものは、なくなるかもしれない。でも、自然に広まったものは、なくならないと思う」

 

 レインが少しだけ、マリオを見た。

 

「それは、正しいと思う」

「だろ? 俺、たまにいいことを言う」

「たまにだな」

「たまにでいいんだよ」

 

 ルナが静かに言った。

 

「たまにいいことを言う人が、いつもいいことを言う人より、信頼される場合がある」

「なんで?」

「外れる時があるから、当たった時に重い」

「それは、俺のことを言ってるのか?」

「そう」

「ルナ、素直だな」


 午後、レインとエリナで作業場を見た。

 今回は、シェナから送られてきた新しい薬草のサンプルも見てもらった。

 

「ルナが確認中です。治癒魔法でも完全には治らない長引く咳に効く可能性があります」

「魔法で治らないものか」


 レインが薬草を手に取って見た。


「師匠に話してみる。学院で並行して確認できるかもしれない」

「お願いできますか?」

「ただし、安全性の確認が先だ。効くからといって、危険なものを使うわけにはいかない」

「ルナも同じことを言っていました」

「ルナの判断は、信頼できる」

「そうです」

 

 レインが薬草を棚に戻した。

 

「お前たちがここで積み上げているものは、まだ見えていない部分がある」

「見えていない部分?」

「王宮や学院には届いていない、日々の積み重ねがある。それが、本当の力になっていると思う」

「見えていないものが、力になる、ということですか」

「そうだ。記録書に残るものだけが価値があるわけではない。おばあさんが孫の話を続けていること、赤ちゃんが生まれた家に石鹸を贈る習慣が広まっていること、ルナが毎日薬草を見続けていること。そういうものが、積み重なっている」


 夕方になった。

 レインが帰る時間が近づいた。

 今回も一泊だった。

 出発前に、エリナが見送りに出た。

 春の終わりの光が、西の方に傾いていた。

 

「また来る」

「待っています」

「今日、言えたことがある」

「私も、言えた。これからのことを」

「そうだな。これからのことを、言えた」

 

 少しだけ間があった。

 

「一つ、確認していいか?」

「どうぞ」

「学院に来る約束、覚えているか?」

「覚えています。霜で白くなった石畳を見に行く」

「冬になったら、来てほしい」

「冬、ですか」

「霜は、冬の朝にしかない。夏には見られない」

「では、冬に行きます。約束します」

「約束だ」

 

 レインが馬に乗った。

 エリナは手を振った。

 レインが少しだけ手を上げた。

 前を向いて、進んでいった。


 見えなくなってから、エリナはしばらくそこに立っていた。

 マリオが後ろから来た。

 

「帰ったか」

「帰りました」

「今日は、どうだったんだ?」

「今日は……」


 エリナが少し考えた。


「これからのことを話しました」

「これからのこと?」

「お互いに、これからも続けたいと言いました」

「何を続けたい?」

「手紙を。会うことを。話すことを」

 

 マリオがしばらくエリナを見た。

 

「……それは、すごく大事なことを言ったんじゃないか?」

「そうかもしれません」

「お前らしいな。大事なことを、静かに言う」

「大きな声で言う必要がないことだから」

「そうか。でも、俺は嬉しいぞ。聞いていなかったけど、なんとなく伝わってくるから」

「聞いていたんですか?」

「聞いていない。でも、お前の顔を見ればわかる」

「また顔の話ですか」

「顔が一番正直だからな」


 夜、エリナは机に向かった。

 レインへの手紙を書いた。

 

 レインへ

 

 今日、来てくれてありがとうございました。

 これからのことを話せた。それが、今日一番大事なことでした。

 冬に、霜の石畳を見に行きます。約束します。

 それから、一つ。

 今日、レインが言いました。見えていないものが積み重なっている、と。

 その言葉を、今夜ずっと考えています。

 見えていない積み重ねが、力になる。

 それは、人と人の間でも同じかもしれないと思いました。手紙に書いていないことでも、積み重なっている。会っていない時間でも、積み重なっている。

 うまく言葉にできないが、あることは確かだ。

 冬を楽しみにしています。

 

                                        ――エリナ――

 

 書いて、封をした。

 「冬を楽しみにしています」という一行を、書いてから少しだけ見た。

 冬が楽しみ。

 以前は、冬は寒くて作業がしにくくなる季節だった。

 今は、冬に霜の石畳を見に行く約束がある。

 同じ冬が、違う季節になった。


 ランプを吹き消した。

 五月の夜が、窓の外にあった。

 

 エリナ・アッシュフォード、八歳。

 

 今日、これからのことを話した。

 冬に行く約束をした。

 それが今夜、一番大事なことだった。

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