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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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59話 五月の手紙たち

 五月になった。

 ルシェムに、初夏の気配が来始めた。

 朝の空気が、春より少し濃くなった。市場に並ぶ野菜が変わった。ルナが採取してくる薬草の種類が、また変わり始めた。

 エリナは毎朝、台所の窓を開けた。

 今日の空気はどうか、と思いながら開ける。

 それが習慣になっていた。


 五月になってから、手紙のやり取りが少し増えた。

 レインから。フィオナから。ダリウスから。マグダから。シェナから。ジルカから。

 それぞれが、それぞれの場所から来た。

 一日に複数届くこともあった。

 ゴードンが、封筒を分類して机の上に並べてくれるようになった。

「今日は四通です」

「ありがとうございます」

「嬉しいことですね」ゴードンが静かに言った。

「何がですか」

「これだけの方々が、エリナさんに届けたいことを持っている、ということが」

 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。


 レインからの手紙は、週に一、二回来た。

 内容は、衛生教育の準備状況と、個人的なことが混じっていた。


エリナへ

衛生教育の初年度のカリキュラムが固まった。前期は石鹸の使い方と手洗いの習慣。後期は薬草薬の基礎と傷の手当て。それぞれ月に二回の授業を予定している。

供給については、ゴードンさんと話した通りの量で進める。

それから、個人的なこと。

今日、図書室で勉強していたら、隣に座った学生に「何を読んでいるんですか」と聞かれた。答えたら、「難しそうですね」と言われた。

その後、なぜかお前のことを考えた。

お前なら、その学生に何と言ったか、と思った。

たぶん、「難しいけど面白い」と言うんじゃないかと思った。違うか。

レイン


 エリナは返事を書いた。

『レインへ

カリキュラムの件、ありがとうございます。ゴードンさんに伝えます。

図書室の話。「難しいけど面白い」は、私が言いそうな言葉ですか?

確かに、そう言うかもしれません。でも、正確には「難しいから面白い」の方が近いかもしれません。

あなたが私のことを考えた、ということを、受け取りました。

私も、ときどき、あなたが今何をしているかを考えます。図書室にいるか、廊下を歩いているか、師匠と話しているか。

エリナ』*


 フィオナからの手紙は、週に一回来た。

 王都の状況報告と、個人的な話が混じっていた。


エリナへ

クロヴェルの動き、今週は特になし。侯爵が退いてから、家全体が静かだ。ダリウスは、宮廷に顔を出しているが、以前より目立たない動きをしている。

アルバ殿下は元気だ。先日、商業関連の会議で少し話した。殿下は、あなたのことを「最近どうしているか」と聞いてきた。「元気です、ルシェムで動いています」と伝えたら、「そうか」と嬉しそうだった。

私のことを書く。

最近、ベルナに一度帰った。父に会ってきた。父は元気だった。少し痩せていたけど、仕事は続けていた。

父と話していて、気づいたことがある。父は、私が王都で何をしているかを、細かくは聞かなかった。でも、顔を見て「よくやっている」と言った。

どうして「よくやっている」とわかったのかと聞いたら、「顔が違うから」と言った。

みんな、顔を見るのが好きなのかしら。

*         フィオナ*


 エリナは返事を書いた。

『フィオナへ

状況報告、ありがとうございます。アルバ殿下が聞いてくださっていたこと、嬉しいです。

ベルナにお父様に会いに行ったのですね。「顔が違う」と言われたのは、変わった証拠だと思います。

私も、最近よく言われます。顔が違う、と。みんなが顔を見るのは、言葉より顔の方が正直だからかもしれません。

一つだけ。ルシェムに来る時期は、決まりましたか。待っています。

エリナ』*


 ダリウスからは、月に一度くらい手紙が来た。

 今月の手紙はこうだった。


エリナ・アッシュフォード殿へ

少しずつ、言葉が見つかってきた。

父が退いた後、家の内部での私の立場が変わった。今まで父の方針に従って動いていた部分が、自分で考えなければならなくなった。

それは、重いことでもあるが、少し自由でもある。

一つだけ、言える段階になったことがある。

アッシュフォード商会の活動を、これ以上妨害するつもりはない。クロヴェル家として、そういう方針を取ることを、今私は決めている。

それが実行できるかどうかは、まだわからない。家の中で、私だけが決められることではないから。でも、私の意志として、伝えておく。

ダリウス・クロヴェル


 エリナはダリウスの手紙を、フィオナに転送した。

 一言だけ添えた。

『フィオナへ

ダリウスから手紙が来た。転送します。あなたの判断を聞きたい。

エリナ』*


 フィオナからの返事は翌日来た。


読んだ。

「私の意志として」という言葉が、大事だと思う。家全体の方針ではなく、ダリウス個人の意志として言っている。それは、正直な言い方だ。

信じる、から、少し信頼する、に近づいた気がする。

ゆっくり見ていく。

フィオナ


 マグダからの手紙は、ヴァロウの状況報告だった。


エリナちゃん、元気かい。

こっちは元気だよ。春になって、石鹸がよく売れてる。新しい種類が欲しいって声が増えてきた。特に、子ども向けの、もう少し刺激の少ないやつ。前からあった肌の弱い人向けのやつとは、また違うものを考えてほしい。

あと、先月、赤ちゃんが生まれた家に石鹸を贈る習慣が、町の中でできてきた。誰が始めたのか知らないけど、自然にそうなった。

それを聞いた時、なんかいいなあって思った。あたしもいい歳して、少し涙が出たよ。

マグダ


 エリナはマグダの手紙を読んで、少しだけ目を細めた。

 赤ちゃんが生まれた家に石鹸を贈る習慣。

 誰が始めたのかわからない。

 でも、自然にそうなった。

 石鹸が、祝いの品になっていた。


 シェナからの手紙は、薬草の状況報告だった。


エリナ殿へ

五月になり、採取できる薬草の種類が増えています。特に、今月から採取できる一種類について、お知らせしたいことがあります。

先月見つけた新しい場所で、効能が今まで知っていたものより少し強い薬草が採れています。ルナさんに確認してもらった方がいいと思っています。

送り方と、安全性の確認をしてから供給したいと考えています。ご意見をください。

シェナ


 エリナはすぐにルナを呼んだ。

「シェナから手紙が来た。新しい薬草の話です。確認してもらえますか」

 ルナが手紙を読んだ。

「どの薬草か、わかる。去年から気になっていた」

「知っていたんですか」

「見たことがある。でも、安全かどうか確認できていなかった」

「シェナも同じことを言っています。どうしますか」

「サンプルを送ってもらう。ここで確認する」ルナが静かに言った。「二週間あれば、わかる」

「シェナに連絡します」

「一つ、注意することがある」ルナが言った。

「何ですか」

「この薬草、使い方を間違えると逆効果になる可能性がある。量の調整が難しい」

「難しい薬草ですか」

「強いから、難しい」ルナが静かに言った。「でも、正しく使えば、今まで対処できなかった症状に効く可能性がある」

「どんな症状ですか」

「長引く咳。冬に多い。治癒魔法でも、なかなか完全には治らないやつ」

 エリナは少しだけ、その言葉の意味を考えた。

 治癒魔法でも完全には治らない症状に、薬草が効く可能性がある。

「慎重に進めます。シェナとルナで、十分確認してから」

「それでいい」ルナが頷いた。「急がない。でも、可能性があるなら、確かめたい」


 ジルカからの手紙は、キーシュの状況と、一つの提案だった。


エリナ殿へ

キーシュは順調です。海沿いの別ルートも、引き続き整えています。

一つ、提案があります。

キーシュは漁港の町なので、漁師が多い。漁師は、傷を作りやすい仕事です。海での傷は、特に化膿しやすい。

消毒液の需要が、他の町より高いと思います。石鹸だけでなく、消毒液の供給を増やせないか、検討してほしいと思っています。

エリナ殿が何年か前に作られた最初のものより、今は品質が上がっていると聞きました。漁師たちに、実際に使ってみてもらうことはできますか。

ジルカ・ベッセル


 エリナはゴードンを呼んだ。

「キーシュへの消毒液の供給を増やす検討をしてほしい。ジルカの提案です」

「漁師向けですね。確かに、需要が見込めます」

「量と価格の試算をお願いします。それと、ジルカに試験的な供給を提案します。三ヶ月間、通常より多めに供給して、効果を記録してもらう」

「わかりました。記録の様式も一緒に送りましょう」

「そうしてください」


 夕方、エリナは机に向かって、今日来た手紙の返事を全部書いた。

 レインへ。フィオナへ。ダリウスへ。マグダへ。シェナへ。ジルカへ。

 六通の返事を書いた。

 書き終えて、机の上に六通の封筒が並んだ。

 ゴードンが来て、「今日は六通ですね」と言った。

「そうです」

「どれが一番大事でしたか」

 エリナは少しだけ考えた。

「全部、大事でした」

「そうですね」ゴードンが頷いた。「どれも、届けたいことがある人から来た手紙です」

「そうです」

「それだけで、十分な理由になります」


 その夜、エリナは短いメモを書いた。

 誰かに届けるためではなく、自分のために。

五月。手紙が多い。

マグダが書いていた。赤ちゃんが生まれた家に石鹸を贈る習慣が、自然にできた、と。

それを読んで、少し思った。

最初に石鹸を作った時、誰かの贈り物になるとは思っていなかった。

でも、なった。

狙っていなかったものが、届いていた。

おばあさんの孫の話の時と、同じことだ。

狙っていなかったものが届く時、それはいつも、少し驚く。そして、少し嬉しい。

 書いて、引き出しに入れた。

 今日は、レインへの手紙に書くことも考えた。

 でも、今日は自分のためだけに書いた。

 次にレインが来た時に、見せるかもしれない。

 見せないかもしれない。

 どちらでもいい。


 ランプを吹き消した。

 エリナ・アッシュフォード、八歳。

 今日、六通の手紙が届いた。

 六人が、それぞれの場所から届けてくれた。

 それが今夜、一番大事なことだった。

読んでいただきありがとうございます。

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