58話 ダリウスからの手紙
四月の半ばになった。
ある朝、エリナが作業場で石鹸の型を確認していると、ゴードンが封筒を持ってきた。
「王都から来ています。クロヴェルの家紋がついています」
エリナは少しだけ止まった。
クロヴェルの家紋。
ダリウスからだ、と思った。
「ありがとうございます」
封を開けた。
エリナ・アッシュフォード殿へ
久しぶりに書く。
謁見から、少し時間が経った。その間、自分の中でいろいろと整理していた。整理が終わったから、書く。
まず、一つ報告する。
父が、魔法省副長官の職を辞した。
体調を理由にしているが、実際には、陛下との関係が修復できないと判断したからだと思う。謁見の結果と、その後の陛下の動きを見て、父は一歩引くことを選んだ。
クロヴェル家として、表立った動きはしばらくない。これは確かだ。
次に、個人的なことを書く。
私は、父の後を継ぐ立場にある。副長官が辞した今、家の方針を立て直す必要がある。それは、私の仕事になる。
どういう方針を取るか、まだ決めていない。でも、一つだけ決めたことがある。
父がやってきたことを、そのまま続けるつもりはない。
それ以上は、まだ言葉にできない。でも、あなたには知っておいてほしかった。
――ダリウス・クロヴェル――
エリナは手紙を、二度読んだ。
クロヴェル侯爵が、副長官を辞した。
父がやってきたことを、そのまま続けるつもりはない。
二つの事実を、頭の中で整理した。
まず、クロヴェルの動きが当面止まる。それは、フィオナが言っていたことと一致する。
次に、ダリウスが方針を変えようとしている。それは、可能性として考えていたが、こうして直接手紙で届いたのは初めてだ。
エリナはゴードンを呼んだ。
「ダリウスから手紙が来た。読んでもらえますか?」
ゴードンが手紙を読んだ。
「クロヴェル侯爵が副長官を辞した、ということですね」
「そうです」
「これは、大きな動きです。魔法省内での影響力が、直接的には弱まる」
「でも、クロヴェル家の影響力そのものが消えるわけではない」
「そうです。長年積み上げてきた人脈と利権は、役職がなくなっても残ります。ただ、公式な立場がなくなることで、動きにくくなるのは確かです」
「フィオナに連絡します。今日中に」
「そうしてください。フィオナさんは、王都にいる。直接状況を確認できる」
フィオナへの手紙を書いた。
フィオナへ
ダリウスから手紙が来た。クロヴェル侯爵が魔法省副長官を辞したとのこと。体調を理由にしているが、実際には陛下との関係が修復できないと判断したからだとダリウスは書いている。
フィオナの判断を聞きたい。これは、こちらにとってプラスか。それとも、別の何かを警戒すべきか。
ダリウス自身は、父の方針をそのまま続けるつもりはないと書いていた。まだ言葉にできないとも書いていた。
急ぎで連絡ください。
――エリナ――
マリオに状況を伝えると、少し顔を引き締めた。
「クロヴェルが退いたのか?」
「副長官を辞した、ということです。クロヴェル家がなくなったわけではない」
「でも、一段落したってこと?」
「当面は、大きな動きはないかもしれません。でも、油断はできない」
「そうか。エリナはどう思っている」
「様子を見ながら、準備は続ける。それしかない」
「それがエリナらしい。油断しないけど、怖がらない」
「怖くないわけではありません」
「でも、怖くても動く」
「そうです」
その日の夕方、レインへも手紙を書いた。
レインへ
今日、ダリウスから手紙が来た。クロヴェル侯爵が魔法省副長官を辞したとのこと。
これが学院側にどう影響するか、師匠に確認してほしい。衛生教育の件で、魔法省からの妨害があった場合の備えとして、知っておきたい。
それとは別に、ダリウス自身が『父の方針をそのまま続けるつもりはない』と書いていた。まだ言葉にできないとも。
ダリウスという人間を、あなたはどう見ていますか。一度、直接聞いたことがなかったので。
――エリナ――
翌日、フィオナから返事が来た。
エリナへ
ダリウスの件、私も把握した。王都ではすでに話題になっている。
クロヴェル侯爵が退いたことは、こちらにとってプラスだ。でも、ゴードンさんが言った通り、影響力が消えたわけではない。むしろ、役職がなくなることで、監視しにくくなる部分もある。
ただ、今すぐ何かが起きる可能性は低いと思っている。侯爵自身が引いたということは、当面は体勢を整える時間が必要だということだ。こちらも、その時間を使って準備を続ける。
ダリウスの『父の方針をそのまま続けるつもりはない』という言葉。私は、これを信じる。
なぜかというと、あの人は嘘をつく時に必ず目が動く。でも、あなたに何かを伝える時は、目が動かない。それを、何度か確認してきた。
ただし、信じることと、信頼することは違う。今はまだ、信じる段階だ。信頼するには、もう少し時間が必要かもしれない。
一つだけ聞く。ダリウスに返事を書くつもりはあるか。
――フィオナ――
エリナはフィオナの手紙を読んで、ダリウスへの返事について考えた。
書く、と思った。
ダリウスが、知っておいてほしかった、と書いた。
知った、と届けたかった。
ダリウス様へ
手紙を受け取りました。
クロヴェル侯爵が副長官を辞されたこと、知りました。
『父の方針をそのまま続けるつもりはない』という言葉も、受け取りました。まだ言葉にできないということも。
言葉になった時に、また教えてください。
あなたが、それでも動いてくれていることを、私は知っています。一票を入れてくれた時から、ずっと。
――エリナ・アッシュフォード――
レインからの返事は、二日後に来た。
エリナへ
師匠に確認した。魔法省の副長官が変わることで、衛生教育への影響は今のところないだろう、とのことだ。衛生教育は学院内の話であり、魔法省の直接の管轄ではないから。ただし、引き続き注意は必要だ。
ダリウスについて、俺の見方を書く。
俺は、ダリウスとは一度しか会ったことがない。謁見の場で、遠くから見ただけだ。だから、直接的な印象は持っていない。
でも、お前の話とフィオナの話から、想像できることがある。
正しいことを知っていても、動けない時がある。力が足りないからではなく、動く場所がないから。でも、そういう人間が一つだけ動く時、それは本物だと思う。
ダリウスが、お前への一票を入れた時、それが本物だったと俺は思っている。
それから、個人的なことを一つ。
今月、もう一度ルシェムに行きたい。衛生教育の件で確認したいことが一点ある。それが一つ目の理由。
二つ目の理由は、言わなくてもわかるかもしれない。
都合を教えてくれ。
――レイン――
エリナはレインの手紙を読んで、最後の二行を少しだけ見た。
二つ目の理由は、言わなくてもわかるかもしれない。
わかる。
わかるから、返事を書いた。
レインへ
いつでも来てください。都合は問題ありません。
二つ目の理由、わかります。
待っています。
――エリナ――
その夜、エリナは机に向かって、今日届いた三通の手紙のことを考えた。
ダリウスから。フィオナから。レインから。
三通とも、違う内容だった。
ダリウスは、父の方針を変えようとしている。
フィオナは、信じることと信頼することは違う、と言った。
レインは、動く場所がないから動けない人間が一つだけ動く時、それは本物だと言った。
三人が、別々の言葉で、ダリウスという人間を語った。
エリナは、三つの言葉を並べた。
父の方針をそのまま続けるつもりはない。
信じる段階、信頼するにはもう少し時間が必要。
一つだけ動く時、それは本物。
三つを合わせると、ダリウスという人間の輪郭が少し見えた気がした。
完全には見えない。
でも、少し見えた。
エリナはゴードンへの翌日の指示書を書いてから、もう一枚の紙を取り出した。
誰かに届けるためではなく、自分のために書いた。
ダリウスについて。
今日、三人からそれぞれの見方を聞いた。
ダリウスは、複雑なまま動いている。それは、一年以上前からわかっていた。
でも今日、「複雑なまま動き続けること」が、どういうことかが少しわかった気がした。
複雑さを解決してから動くのではなく、複雑なまま、動く。
それは、私にも似ているかもしれない。
書いて、引き出しに入れた。
誰かに見せるためではない。
でも、書いておきたかった。
ランプを吹き消した。
春の夜が、窓の外にあった。
ダリウスが、動こうとしている。
複雑なまま。
フィオナが、それを見ている。
レインが、また来ると言った。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
今日、三通の手紙が届いた。
それぞれが、それぞれの場所から来た。
それが今夜、一番大事なことだった。
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