57話 翌朝と、見送りの後
翌朝、レインは学院に帰った。
朝食を一緒に食べてから、馬に乗って出発した。
見送りには、マリオとルナも来た。
マリオが大きく手を振った。ルナが小さく手を上げた。
エリナは手を振りながら、レインの馬が街道に出て、小さくなっていくのを見ていた。
最後に、レインが一度だけ振り返った。
手を少しだけ上げた。
それから、前を向いて進んでいった。
見えなくなった。
マリオが言った。
「いい朝だったな」
「そうですね」
「レインさん、また来るかな?」
「来ると言っていました」
「そうか」
マリオが少し笑った。
「じゃあ、次も準備しておく」
ルナが静かに言った。
「猫が、見送りに来ていた」
エリナは振り返った。
作業場の前に、猫が一匹座っていた。
見送っていたのか、たまたまそこにいたのかはわからない。
でも、いた。
「ルナの猫は、ちゃんと見ているんですね」
「猫は、大事なことを知っている」
「どうして知っているんですか?」
「見ているから」
三人が長屋に戻ると、セレーナが台所で湯を沸かしていた。
「帰った?」
「帰りました」
「いい時間だったね」
セレーナが穏やかに言った。
「そうです」
「顔を見ればわかる」
「また顔の話ですか」
「だって、顔に出てるから。隠せていないわよ」
「隠すつもりはありません」
「そう、それがいいと思う」
ゴードンが来て、今日の作業を確認した。
「供給計画の書類を、学院に送る準備ができています」
「お願いします」
「一点、レインさんと話して変わった点があります」
「何ですか?」
「薬草薬の供給について、最初の学期は試験的に少量にする、という提案を受けました。いきなり大量に供給するより、学院の授業の進み方に合わせて調整した方がいい、という判断です」
「合理的ですね」
「はい。最初の三ヶ月は、各品目を通常量の六割で。その後、授業の状況を見て増やす」
「その方が、品質の管理もしやすい」
「そうです。ルナさんの採取量の調整も、段階的にできる」
「ルナに伝えておきます」
昼前に、フィオナから手紙が届いた。
タイミングが良かった。
エリナへ
レインが来ていたね。フィオナはなぜ知っているのかって?レインから連絡が来たから。
「ルシェムに行く」と書いてきた。珍しいことだから、何かあったのかと思って、返事を送ったら、「春のルシェムを見に行く」と言っていた。
それで全部わかった。
どうだったか、聞かないでおこうと思っていたけど、やっぱり聞く。
どうだった。
――フィオナ――
エリナは手紙を読んで、少しだけ笑った。
『聞かないでおこうと思っていたけど、やっぱり聞く』というフィオナらしい一文。
フィオナへ
やっぱり聞くんですね。
どうだったか、一言で言います。
言えました。
それだけ言います。詳細は、ルシェムに来た時に話します。
――エリナ――
フィオナからの返事は、翌日来た。
『言えました』ね。
わかった。詳細は会った時に聞く。
でも一つだけ言わせてほしい。
よかった。本当に。
――フィオナ――
エリナはその手紙を、引き出しに入れた。
レインからの手紙と、フィオナからの手紙が、同じ引き出しにある。
それが、少し自然なことになっていた。
その日の午後、エリナは一人で少し歩いた。
市場ではなく、ルシェムの外れの方へ。
町の端に、小さな丘があった。
以前は行ったことがなかった。
でも今日は、行ってみたくなった。
合理的な理由はなかった。
でも、行った。
丘の上から、ルシェムの町が見えた。
石造りの家が並んでいる。市場の屋根が見える。長屋の位置もわかる。遠くに、街道が続いているのが見えた。
小さい町だった。
でも、自分の場所だった。
ここから、石鹸が広まっていった。
ここから、薬草薬が広まっていった。
ここから、数字が積み上がって、王宮に届いた。
ここが、出発点だった。
そして、帰ってくる場所だった。
エリナはしばらく、丘の上に立っていた。
風が少しあって、春の匂いがした。
どんな匂いかを、言葉にしようとした。
できなかった。
でも、いい匂いだった。
丘から帰ると、ルナが作業場の前にいた。
「どこに行ってた?」
「ルシェムの外れの丘です」
「そんな場所があったの?」
「知りませんでしたか?」
「知らなかった」
ルナが少し考えた。
「次、一緒に行っていい?」
「いつでも」
「薬草がありそうだから」
「そういう理由ですか」
「それが一番の理由。でも、景色も見たい」
「景色も、良かったです」
「そう、次は、一緒に行く」
夕方、マリオが事務室に来た。
「エリナ、少し聞いていいか?」
「どうぞ」
「昨日、レインさんとどんな話をした。差し支えなければ」
「差し支えありません。作業場の前で話しました」
「何を?」
「レインが、学院に場所ができたけど、それは魔法師としての場所だった、という話をしてくれました。レインという人間の場所は、誰かに見てもらわないとできない、と」
「難しい話だな」
「難しくないです。私も、同じことを感じていたから」
「エリナも?」
「ここが場所になったのは、マリオが来てくれてからです。マリオが見てくれていたから、ここが自分の場所になった」
マリオが少しだけ、動かなかった。
「……そういうこと、言うようになったな」
「本当のことだから、言います」
「知ってる。でも、言われると、なんか照れるんだよな」
「照れてください」
「ひどいな。で、レインとは、それだけ話したのか?」
「他にも話しました」
「例えば?」
「例えば……」
エリナが少し考えた。
「お互いに、一つずつ言えました」
「一つずつ、何を?」
「それは、マリオが想像していることと同じことだと思います」
マリオがしばらくエリナを見た。
「……そうか、よかった」
「ありがとうございます」
「礼を言うことじゃないけど。でも、よかった。本当に」
夜、エリナは机に向かった。
レインへの手紙を書こうとして、少し考えた。
昨日は、手紙を書かなかった。
今日は、書きたかった。
何を書くか。
昨日のことを、改めて届けたかった。
レインへ
昨日、見送った後、一人で丘に行きました。ルシェムの外れに、小さな丘があることを知りませんでした。
上から、ルシェムの町が見えました。市場の屋根も、長屋の位置も、街道も。小さい町だと思いました。でも、自分の場所だと思いました。
それから、春の匂いがしました。言葉にできませんでしたが、いい匂いでした。
昨日、あなたが言ってくれた言葉を、今日も覚えています。
私が言えた言葉も、覚えています。
言えてよかったです。
マリオが「よかった」と言ってくれました。フィオナも「よかった」と書いてくれました。
みんなが、よかった、と言ってくれます。
私も、よかったと思っています。
――エリナ――
書いて、封をした。
「言えてよかったです」という言葉を、書いてから少しだけ読み返した。
以前のエリナは、「よかった」という言葉をあまり使わなかった。
「問題なかった」とか「目標を達成した」という言葉を使っていた。
でも今日は、「よかった」と書いた。
マリオが言っていた通り、「よかった」は感覚の言葉だ。
感覚を言葉にできるようになった。
机の引き出しを開けた。
レインからの手紙が、全部入っている。
その一番上に、昨夜書いたメモが入っていた。
今日、言えた。
それだけ書いたメモ。
今日のレインへの手紙も、同じことを書いた。
でも、レインへの手紙には「よかった」が加わった。
言えた、よかった。
その二つが、今日の自分だった。
引き出しを閉めた。
ランプを吹き消した。
春の夜が、窓の外にあった。
昨日と同じ夜だった。
でも、今夜の方が少し違って感じた。
昨夜は、言えた直後の夜だった。
今夜は、言えたことを確かめた夜だった。
確かめた。
確かに、言えた。
確かに、よかった。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
今日、丘から町を見た。
春の匂いがした。
言葉にできなかったが、いい匂いだった。
それが今夜、一番大事なことだった。
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