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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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56/120

56話 レインが、また来た

 四月になった。

 レインから手紙が来た。


 エリナへ

 

 来週、ルシェムに行く。今回は師匠ではなく、一人で。

 衛生教育の供給計画の最終確認が一つ目の理由。もう一つの理由は、春のルシェムを見たかったから。

 都合が悪ければ言ってくれ。

 

                                      ――レイン――


 エリナは手紙を読んで、少しだけ止まった。

 一人で来る。

 前回は師匠と一緒だった。

 今回は一人で。

 もう一つの理由は、春のルシェムを見たかったから。

 エリナは返事を書いた。

 

 レインへ

 

 来てください。都合は問題ありません。

 春のルシェムを、見てほしいと思っていました。

 

                                      ――エリナ――

 

 短い返事だった。

 でも、これで十分だと思った。


 マリオに伝えると、今度は驚かなかった。

 

「また来るのか」

「来週」

「一人で?」

「そうです」

「そうか。じゃあ、宿を手配しておく」

「お願いします」

「今回は、泊まりか?」

「わかりません。聞いていない」

「聞いておいた方がいいんじゃないか?」

「そうですね」

 エリナは追伸を書いた。

 

『追伸。泊まりますか。宿を手配しておきます。』

 

 レインから返事が来た。

 

『泊まる。一泊か二泊。』


 レインが来た日は、晴れていた。

 今回は雨ではなかった。

 馬で来た。昼過ぎに着いた。

 エリナが長屋の前で待っていると、馬がゆっくり近づいてきた。

 レインが馬から降りた。

 前回と同じ服装だったが、少し違って見えた。

 春の光の中で見るレインは、冬に見た時と少し違った。

 同じ人間なのに、光によって違って見える。

 

「来た」

「来てくれた」

 

 同じやり取りだった。

 でも、今回は少し間があった。

 その間に、何かがあった気がした。

 

「春のルシェムだ」


 レインが少し周囲を見た。

 

「そうです」

「明るいな」

「冬とは違います」

「お前の手紙に書いてあった通りだ」

「手紙を読んで、想像していましたか?」

「していた。花が市場に並んでいると書いてあった。空気が変わったと書いてあった。来て、確認した」

「確認できましたか?」

「できた」


 マリオが出てきた。

 

「いらっしゃいませ! またいらっしゃいましたね」

「また来た」

「一人で来るとは思っていなかった。師匠がいないのか?」

「今回は一人だ」

「何か理由が?」

「いくつか」

 

 マリオがレインとエリナを交互に見て、少し笑った。

 

「そうか。じゃあ、荷物を運ぶよ。宿はここから近い」

「助かる」


 まず、供給計画の最終確認をした。

 ゴードンが資料を広げて、レインと確認した。

 品目、数量、納期、価格。

 一時間ほどで、全部確認が終わった。

 

「問題ありません」

「こちらも問題ない」

「では、正式に進めます」

「頼む」

 

 ゴードンが書類をまとめて、少し席を外した。

 事務室に、エリナとレインが残った。

 

「仕事の話は、終わりました」

「そうだな」

「もう一つの理由の方は?」

「春のルシェムを見たかった。それは、さっき確認した」

「確認できましたか?」

「明るかった。空気が柔らかかった。市場に花があった。お前が手紙に書いていた通りだった」

「それで、十分ですか?」

「十分ではない」

 

 エリナは少しだけ止まった。

 

「十分ではない、というのは」

「他にも、見たいものがある」

「何ですか?」

「お前が、春のルシェムにいるところを見たかった」


 エリナは、その言葉を受け取った。

 整理しようとしなかった。

 ただ、受け取った。

 

「……見てもいいです」

「いいのか?」

「どうぞ」

 

 レインが少しだけ、口の端を動かした。


 午後、二人で市場を歩いた。

 エリナが案内した。

 マルタの店。石鹸が並んでいる棚。薬草薬の瓶。

 マルタがレインを見て、すぐに声をかけた。

 

「あんたが、レインさんかい」

「そうだ」

「エリナちゃんから聞いてる。学院の魔法使いさんだって」

「そうだ」

「若いね。でも、目がいい。ちゃんと見てる目をしてる」

「ありがとう」

「お礼を言うことじゃないけどね。エリナちゃんのことを、頼みますよ」

「頼まれた」

 

 エリナが少しだけ、マルタを見た。

 

「マルタさん、急に何を言っているんですか」

「事実を言ってるだけだよ」


 マルタがケラケラと笑った。


 グレンにも会った。

 グレンがレインを見て、無言でしばらく見た。

 それから言った。

 

「前にも来たな」

「来た。師匠と一緒に」

「今日は一人か?」

「そうだ」

「エリナの関係者か?」

「そうだ」

「そうか」


 グレンが頷いた。それだけだった。

 でも、歩きながらレインが言った。

 

「グレンという人は、少ない言葉で確認する人だ」

「そうです」

「俺と似ている」

「そうかもしれません。グレンさんは、目で確認して、言葉は最小限にする。でも、確認した後は信頼する」

「俺も、そうかもしれない」

「知っています」


 夕方、二人で作業場の前に立った。

 前回も、ここに立った。

 あの時と同じ場所だが、今日は春の光が差し込んでいた。

 冬の夕方の光より、少し暖かかった。

 

「前回来た時と、同じ場所だ」

「そうです」

「あの時は、師匠の話をした」

「言葉が少ないのは、嘘をつきたくないからだ、という話でしたね」

「そうだ」


 レインが少し間を置いた。


「今日は、別の話をしたい」

「どんな話ですか?」

「手紙では、うまく言えなかった話だ」

 

 エリナは少しだけ、レインを見た。

 

「聞かせてください」


 レインが少し間を置いてから、話し始めた。

 

「孤児院にいた頃、自分の場所がなかった」

「知っています」

「学院に来てから、場所ができた。でも、それは魔法師としての場所だった。レインという人間の場所ではなかった」

「違うんですか?」

「違う。魔法師としての場所は、才能があれば誰でも持てる。でも、レインという人間の場所は、誰かに見てもらわないと、できない」

「誰かに、見てもらう」

「そうだ。お前が手紙を書いてくれた。俺のことを聞いてくれた。重い時に重いと言っていいと言ったら、重い時を話してくれた。今日笑ったと届けてくれた。春の空気が変わったと書いてくれた」

「それが、どういうことでしたか?」

「見てもらっている、と思った。魔法師としてではなく、レインとして、見てもらっている、と」

 

 エリナは少しだけ、目を伏せた。

 

「私は、あなたに見てほしいと思ってきた」

「知っている」

「あなたが見てくれていると、思っていた」

「見ていた」

 

 少しだけ、間があった。

 作業場の前に、春の光があった。

 

「一つだけ、今日言いたいことがある」

「はい」

「一年後の約束の夜、『お前のことが、大事だ』と言った」

「覚えています」

「あの時より、もう少し言葉になったかもしれない」

「聞かせてください」

 

 レインが少しだけ間を置いた。

 

「お前といる時間が、好きだ」


 エリナは、その言葉を受け取った。

 整理しなかった。

 分析しなかった。

 ただ、受け取った。

 

「私も」


 エリナが静かに言った。


「あなたといる時間が、好きです」

 

 レインが少しだけ、エリナを見た。

 

「今、言えたんだな」

「言えました」

「以前は?」

「以前は、言えなかったと思います。言葉にできなかった。でも、今日は言えた」

「なぜ言えたと思う?」

「練習してきたから、かもしれません」

「練習?」

「手紙で、感覚を言葉にする練習をしてきた、とマリオが言っていました。それかもしれません」

 

 レインが少しだけ笑った。

 

「マリオが、そういうことを言うのか」

「言います。あの人は、案外鋭いところがある」

「そうだな」


 しばらく、二人で作業場の前にいた。

 何も言わない時間があった。

 でも、不快ではなかった。

 ルシェムの春の夕方。

 市場の方から、人の声がかすかに聞こえた。

 ルナが作業場の中で何か音を立てた。

 猫が一匹、どこかから出てきて、エリナの足元にすり寄った。

 

「猫が来た」

「ルナの猫です」

「ルナの猫は、人を選ぶと言っていたな」

「そうです。全部を見てる感じがする人には、近づかないと」

「今日は来た」

「今日は来ました。あなたに近づいてきた」

「なぜだろう」

「わかりません。でも、来た」

 

 猫がレインの足元にも近づいた。

 レインが少しだけ、猫を見た。

 

「猫の判断が、正しいといいんだが」

「きっと正しいです」


 夕食は、全員で食べた。

 セレーナが作った豆のスープと、マリオが持ってきたパン。

 テーブルに、エリナ、セレーナ、マリオ、ルナ、ゴードン、レインが座った。

 前回来た時と同じ顔触れだった。

 でも、今日の方が少し違った。

 前回は、師匠もいた。

 今日は、レインが一人で来た。

 その違いが、テーブルの空気をわずかに変えていた気がした。

 マリオが食べながら言った。

 

「レインさん、また来てくれた」

「また来た」

「よかった。ルシェムはどう?」

「明るかった。手紙に書いてあった通りだった」

「エリナが手紙に書いてるのか……どんなことを書いてるんだ?」

「春の空気が変わったことや、窓を開けるのが楽しみになったことや」

「へえ、そういうことを手紙に書いてるのか」

「書いています」

「なんか、普通っぽい」

「普通でいいんです」

「そうだな。普通のことが、大事なんだよな、結局」

 

 ルナが静かに言った。

 

「普通のことを、ちゃんとできる人が、強い」

「ルナもいいことを言う」


 夕食が終わって、レインが宿に向かう前に、エリナが見送りに出た。

 二人だけになった。

 春の夜の空気は、冷たすぎず、暑すぎず、ちょうどよかった。

 

「今日、来てくれてありがとうございました」


 エリナが言った。

 

「来てよかった」

「春のルシェム、見られましたか?」

「見られた」

「見たかったものは、全部見られましたか?」

「全部。確認できた」

「よかったです」

 

 少し間があった。

 

「また来る」

「待っています」

「今日と同じ言葉だな」

「毎回、本当のことだから、毎回言います」

「そうだな。俺も、毎回本当のことを言っている」

「知っています」


 レインが歩き出した。

 エリナは、その背中を見ていた。

 前回、一年後の約束の夜も見た。

 その前の時も見た。

 最初の時も見た。

 毎回、レインの背中が路地の角を曲がると、見えなくなった。

 今日も、角を曲がって、見えなくなった。

 エリナは少しだけ、そこに立っていた。

 今日、レインが言った言葉が、頭の中に残っていた。

 

 『お前といる時間が、好きだ』

 

 自分も言えた。

 

 『あなたといる時間が、好きです』

 

 言えた。

 それが、今夜一番大事なことだった気がした。


 部屋に戻って、机に向かった。

 今夜は、手紙を書かなかった。

 レインは、今日ここにいた。

 明日、学院に帰る前に、もう一度会える。

 だから、手紙は明日書けばいい。

 代わりに、エリナは小さなメモを書いた。

 

 今日、言えた。

 

 それだけ書いて、引き出しに入れた。

 ランプを吹き消した。

 春の夜が、窓の外にあった。

 

 エリナ・アッシュフォード、八歳。

 

 今日、言えた。

 それが今夜、一番大事なことだった。

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