55話 春になった日
三月になった。
ルシェムに、本格的な春が来た。
市場に花が並び始めた。道端の草が緑になった。朝の空気が、冬とは違う温度を持ち始めた。
エリナは朝、台所の窓を開けると、外の空気を少しだけ吸った。
冷たくない。
冬の間、ずっと冷たかった朝の空気が、今日は冷たくなかった。
それだけのことだが、少しだけ嬉しかった。
この一週間で、いくつかのことが動いた。
まず、学院から正式な連絡が届いた。
来年度から「衛生基礎」という科目を、学院の一般課程に設けることが正式に決定した、という通知だった。
師匠の署名が入っていた。
魔法師団長の副署もあった。
ゴードンがその書類を読んで、静かに言った。
「正式に決まりました」
「そうですね」
「アッシュフォード商会の商品が、教材として使われることになります。来年度から」
「来年度、ということは、今年の秋から準備が始まります」
「供給の計画を、早めに立てる必要があります」
「レインと師匠と相談します。今週中に手紙を書く」
マリオに知らせると、少し目を丸くした。
「学院の授業に、うちの石鹸が使われるのか?」
「使われます」
「なんか、すごくない?」
「すごいことだと思います」
「俺が最初に豆のペーストを食べた頃、こんなことになるとは思っていなかった」マリオが笑った。「お前、本当になんでもやっちゃうな」
「マリオたちがいたから、できました」
「またそういうこと言う」
「本当のことだから」
「わかってる。でも、言われると嬉しいな」
「ならば、また言います。マリオがいたから、できました」
「一回でいい」
ルナに知らせると、少しだけ考えてから言った。
「学院で使われる薬草薬は、うちが作るの?」
「そうです。先生と相談して、どの種類をどのくらい供給するかを決めます」
「量が増える?」
「増えます」
「準備できる。シェナにも連絡して、採取量を増やしてもらう」
「お願いします。でも、無理のない範囲で」
「わかってる。無理をして品質が落ちると、意味がない」
「そうです」
「エリナが言っていたこと。品質が一番大事だと」
「覚えていてくれましたか」
「覚えてる。大事なことだから」
その週、フィオナからも手紙が届いた。
エリナへ
学院の衛生教育が正式決定したと聞いた。おめでとう。
王都での反応を少し確認した。クロヴェルは、まだ表立った動きをしていない。でも、学院が正式に動いたことで、商会の立場がさらに強くなったことは確かだ。次の手が来るとしたら、もう少し時間がかかると思う。
春になったね。ルシェムの春はどう?
王都の春は、少し騒がしい。花見の行事があって、貴族たちが集まる。情報収集には良い機会だけど、人が多くて疲れる。
一つだけ聞いていい? レインが来た時、どうだった。
――フィオナ――
エリナはフィオナの最後の一行を見て、少しだけ止まった。
どうだった、という問いに、何と答えるか。
フィオナへ
学院の件、ありがとうございます。クロヴェルの動きが落ち着いている間に、供給の準備を進めます。
ルシェムの春は、穏やかです。市場に花が出てきました。空気が変わりました。
最後の質問に答えます。
良かったです。
それだけ言います。
――エリナ――
書いて、封をした。
「良かったです。それだけ言います。」という一行を、フィオナは読んで何と思うだろう。
きっと、わかってくれる。
レインへの手紙も、この週に書いた。
学院の正式決定を受けて、供給の計画について相談したかった。
レインへ
学院の衛生教育が正式に決まったと、通知が届きました。師匠の署名と、魔法師団長の副署がありました。
供給の計画を、先生と一緒に立てたいと思っています。どの品目をどのくらい必要か、来年度の授業の内容を踏まえて教えてもらえますか。
それから、一つだけ個人的なことを書きます。
先週、来てくれてありがとうございました。作業場の前で話した時間のことを、今週もときどき思い出しています。
春になりました。ルシェムが明るくなっています。
――エリナ――
返事は四日後に来た。
エリナへ
供給の計画について、師匠と話した。必要な品目と数量を別紙にまとめた。確認してほしい。
それから、個人的なことを返す。
作業場の前で話した時間のことを、俺も思い出している。
あの夕方の光が、少し特別だった。うまく言葉にできないが、あることは確かだ。
春になると、ルシェムに行きたくなる。
――レイン――
エリナは最後の一行を読んで、少しだけ口の端が動いた。
春になると、ルシェムに行きたくなる。
来てほしい、と思った。
でも、今日はそれだけ思うことにした。
春になってから、エリナは少し変わったことに気づいた。
朝、窓を開けるのが楽しみになっていた。
今日の空気はどうか。今日の光はどうか。
以前は、窓を開けるのは換気のためだった。合理的な理由があった。
でも今は、それだけではない。
春の空気を感じたいから、開ける。
それが、少し変わったことだった。
マリオに言うと、「お前が窓を楽しみに開けるのか」と驚いた顔をした。
「変ですか?」
「変というか、らしくないというか。いや、悪くないけど」
「私もそう思います。悪くない」
「最近、『悪くない』って言葉をよく使うな」
「そうですか?」
「うん。前は、『問題ない』とか『合理的』とか言っていた。今は、『悪くない』が増えた」
「違いますか?」
「違う。『問題ない』は、判断だ。『悪くない』は、感覚だ」
「感覚を言葉にするようになった、ということですか?」
「そういうことかな。レインへの手紙のおかげじゃないか?」
「どういう意味ですか?」
「感覚を言葉にする練習を、手紙でしてきたんだろ。そうじゃないか」
エリナは少しだけ、その言葉を考えた。
感覚を言葉にする練習。
「そうかもしれません」
「俺は天才かもしれない」
「そういうことを言う人を、天才とは言いません」
「ひどいな」
ある日の午後、エリナは一人で市場を歩いた。
特に用事があったわけではない。
市場を歩きたかった。
マルタが声をかけてきた。
「エリナちゃん、今日は仕事じゃないのかい」
「散歩です」
「散歩? あんたが散歩するのかい」
「変ですか?」
「変じゃないけど、珍しいね。以前は、市場に来る時は必ず仕事があったから」
「今日は、仕事なしで来てみました」
「どうだい、仕事なしの市場は」
エリナは少し考えた。
「賑やかに聞こえます」
「賑やか?」
「いつもは、仕事のことを考えながら歩いていた。今日は考えていないから、音がよく聞こえます」
「へえ。それがいいんだよ。人間、たまには何も考えないでいないといけない」
「合理的ではないですが」
「合理的じゃないことも、大事だよ。合理的なことばかりしていると、疲れる。合理的じゃないことが、時々必要だ」
エリナは、その言葉を少しだけ受け取った。
合理的じゃないことが、時々必要。
今日の散歩がそれかもしれない。
レインへの手紙に書いた「春の空気が変わりました」という一文も、そうかもしれない。
夕方、エリナはセレーナと一緒に夕食を作った。
最近、一緒に台所に立つことが増えていた。
野菜を切りながら、セレーナが言った。
「エリナ、最近顔が違う」
「また言われました」
「みんなに言われているの?」
「マリオに、ルナに、フィオナに。先生にも」
「みんなが気づくということは、本当に変わったんでしょう」
セレーナが穏やかに言った。
「どう変わったと思いますか?」
「柔らかくなった。でも、それだけじゃない。なんか、根っこが深くなった感じ」
「根っこが深くなった」
「うん。昔のエリナは、速く動く人だった。今も速いけど、でも、しっかりした感じがする。急いでいるのに、慌てていない」
「どうしてそう感じますか?」
「帰ってくる場所があるからじゃないかな。ここに帰ってくることがわかっているから、安心して出かけられる」
「それは、お母さんのおかげです」
「私だけじゃない。マリオも、ルナも、ゴードンさんも。みんなが、ここにいるから」
その夜、エリナはレインへの手紙を書いた。
レインへ
今日、一人で市場を散歩しました。仕事なしで。マルタさんに驚かれました。
マルタさんが言いました。「合理的じゃないことが、時々必要だ」と。
私も、そう思い始めています。窓を開けることが楽しみになりました。春の空気を感じたいから。以前は、換気のために開けていました。
変わったことを、あなたに届けたくなりました。
それから、供給の計画の件、ゴードンさんと確認しました。別紙で返送します。
春が来ています。ルシェムに来たくなると書いてくれました。来てください。待っています。
――エリナ――
書いて、封をした。
「変わったことを、あなたに届けたくなりました」という一行。
以前は、変わったことを言語化しようとして、できないことが多かった。
でも今日は、自然に書けた。
感覚を言葉にする練習。
マリオが言っていた言葉が、少し正確だと思った。
ランプを吹き消す前に、エリナは窓の外を見た。
春の夜空に、星が出ていた。
冬の星より、少し柔らかく見えた。
気のせいかもしれない。
でも、柔らかく見えた。
明日も、窓を開けるのが楽しみだと思った。
合理的ではない理由で、楽しみにしている。
それが、今夜、少し嬉しかった。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
春になった。
窓を開けるのが、楽しみになった。
それが今夜、一番大事なことだった。
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