54話 春の気配と、レインの訪問
フィオナが帰ってから、一週間が経った。
ルシェムに、少しずつ春の気配が来ていた。
朝の空気が、冬の頃より少しだけ柔らかくなった。市場に並ぶ野菜の種類が変わり始めた。井戸の水を汲む人たちが、厚手のコートを脱ぎ始めた。
ルナが、採取できる薬草の種類が増えてきた、と言った。
「春の薬草は、冬のものより柔らかい」
ルナが棚を整理しながら言った。
「効き方も少し違う」
「どう違いますか?」
「冬の薬草は、重い効き方をする。春のは、軽い効き方をする」
「どちらが良いですか?」
「症状による。重い症状には重い薬草。軽い症状には軽い薬草。合わせることが大事」
「ルナは、どうしてそれを知っているのですか?」
「見ていたから。植物が、季節によって変わるのを、ずっと見ていた。廃屋の前で、一人でいた頃から」
「そう」
エリナは少しだけ、ルナの横顔を見た。
あの日から、一緒にいる。
あの頃のルナは、もっと無口だった気がした。
今も無口だが、以前よりは少し言葉が出てくる。
その週、レインから手紙が届いた。
エリナへ
『あなたの手紙を読む時に、少し充電される感じがします』という言葉を受け取った。
俺も、同じだと思う。
お前の手紙が来るのを、楽しみにしている。それが、最近の学院での一番の楽しみかもしれない。
うまく言葉にできないが、あることは確かだ。
それから、一つ。
来週、ルシェムに行けるかもしれない。学院の衛生教育の件で、現場を見たいと師匠が言っている。師匠と 一緒に来ることになりそうだ。
都合が悪ければ、言ってくれ。
――レイン――
エリナは手紙を読んで、少しだけ止まった。
来週、来るかもしれない。
師匠と一緒に。
都合が悪ければ言ってくれ、と書いてある。
都合が悪いはずがなかった。
でも、少しだけ、落ち着いて考えた。
師匠が現場を見に来る。衛生教育の件で。
それは、商会として準備が必要だ。
作業場を見てもらう。石鹸と薬草薬の製造工程を説明する。ルナに薬草の知識を話してもらう。ゴードンに数字を整理してもらう。
考えながら、返事を書いた。
レインへ
来週、来てください。都合は問題ありません。
師匠が現場を見たいということ、ゴードンさんと準備します。作業場の見学、製造工程の説明、薬草の説明はルナに担当してもらいます。
楽しみにしています。
一つだけ。『最近の学院での一番の楽しみかもしれない』という言葉を受け取った。
私も、同じです。
――エリナ――
書いて、封をした。
「私も、同じです」という言葉を、最近よく書いている気がした。
でも、毎回本当のことだから書いている。
ゴードンに伝えると、すぐに動いた。
「師匠が来られるなら、学院への供給の話も直接できるかもしれません」
「そうですね。資料を準備しておきましょう」
「量と価格と、供給の仕組みを一枚にまとめます。明日中に」
「お願いします」
マリオにも伝えた。
「レインが来るのか」
マリオが少し嬉しそうな顔をした。
「師匠と一緒に」
「師匠って、どんな人だ?」
「手紙から想像すると、無口で、でも大事なことだけを言う人だと思います」
「レインと似てるのか」
「師弟だから、似ているかもしれません」
「そうか。じゃあ、歓迎の準備をしておく。何か食べてもらいたいものを作ってもらえるか、セレーナさんに聞いておく」
「マリオが動くと、そういう方向になりますね」
「食事は大事だろ。腹が減っていたら、どんなに大事な話も頭に入らない」
「それは正しいです」
ルナに伝えると、少しだけ目が動いた。
「師匠が来る」
「そうです。薬草の話を、直接してもらえますか?」
「わかった。何を話せばいい」
「採取の方法、季節による違い、効能の見分け方。師匠が衛生教育に取り入れることを検討しているので、どういう知識が必要かを話してほしい」
「学院の人に話すの?」
「そうです。緊張しますか?」
ルナが少し考えた。
「緊張はしない。薬草の話なら、できる」
「ルナが一番詳しいから、大丈夫です」
「うん。でも、一つ聞いていい?」
「どうぞ」
「レインも来る?」
「来ます」
「そう」
ルナが少しだけ間を置いた。
「エリナが、少し違う顔をすると思って」
「違う顔というのは?」
「楽しみにしている顔。悪い顔じゃない」
「……そうですか」
「そう」
ルナが棚に向き直った。
「楽しみにしていい。それだけ」
一週間が、あっという間に過ぎた。
準備が、少しずつ整っていた。
作業場の整理をした。薬草の棚を、見やすいように並べ直した。ゴードンが供給の資料を一枚にまとめた。マリオがセレーナと相談して、食事の準備をした。
準備をしながら、エリナは少しだけ考えた。
師匠が来る。
師匠は、エリナのことを手紙とデータを通じて知っている。でも、直接会うのは初めてだ。
謁見の間では会った。でも、話したのは廊下での短い場面だけだった。
今回は、ルシェムで。
師匠がどういう人なのか、直接見ることができる。
レインと師匠が来たのは、木曜日の昼前だった。
馬車ではなく、馬で来た。
師匠の馬は落ち着いた色の茶色で、レインの馬は少し小さかった。
長屋の前に着くと、マリオが飛び出してきた。
「いらっしゃいませ!」
師匠が馬から降りて、マリオを見た。
「あなたが、マリオ殿か」
「はい。マリオ・ヴェントです。よろしくお願いします」
「レインから聞いている。大工の息子で、現場責任者で、エリナ殿の最初の仲間だと」
「最初の仲間かどうかはわかりませんが、一番最初に来たのは俺です」
マリオが少し照れた顔をした。
「それが最初の仲間だ」
マリオが少しだけ、嬉しそうな顔をした。
エリナが長屋の前に出た。
師匠が、エリナを見た。
鋭い目だった。でも、謁見の間で見た時と同じく、鋭さの中に穏やかな何かがあった。
「エリナ殿」
「先生、ようこそルシェムへ」
「初めて来た」
師匠が少し周囲を見た。
「王都より、ずっと小さい」
「そうです」
「でも、ここから広がったんだな」
「ここから始まりました」
師匠が頷いた。
レインがエリナの横に来た。
エリナはレインを見た。
レインがエリナを見た。
一秒、目が合った。
「来た」
「来てくれた」
マリオが横で、何かを言いたそうな顔をして、言わなかった。
まず、作業場を見てもらった。
師匠が、棚に並ぶ石鹸と薬草薬を順番に見た。
手に取って、確認した。匂いを嗅いだ。ラベルを読んだ。
レインが隣で、時々師匠に説明を加えた。
「これが、標準品の石鹸です。こちらが、香草入り。こちらが、肌の弱い方向け」
「三種類作っているのか」
「需要に応じて増やしました。最初は一種類でした」
「一種類から、三種類に。そういうことの積み重ねか」
「そうです」
師匠がルナを見た。ルナは棚の前に立って、師匠が来たことを知っていても、特に緊張した様子がなかった。
「薬草の担当が、あなたか?」
「そうです。ルナ・ファーンです」
「薬草の説明を聞かせてほしい」
「わかりました」
ルナが、棚の前で話し始めた。
いつもと変わらない、平坦な声だった。
季節による採取の違い。効能の見分け方。加工の手順。保存の方法。
師匠は黙って聞いていた。
話が終わると、一言だけ言った。
「よく知っている」
「見てきたから」
「どのくらい見てきた?」
「覚えていないくらい、昔から」
師匠が少しだけ目を細めた。
「学院には、こういう知識を持っている者がいない。薬草学の授業はあるが、現場の知識ではない。机の上の知識だ」
「机の上の知識と、現場の知識は、どちらも大事だと思います」
エリナが言った。
「そうだな……両方がないと、不完全だ。お前たちが持っているのは、現場の知識だ。学院が持っているのは、体系化された知識だ。合わせれば、より強くなる」
「それが、衛生教育に取り入れる意味ですか?」
「そうだ」
昼食は、セレーナとマリオが用意してくれた。
豆のスープ、パン、ラム肉の煮込み。
師匠が一口飲んで、少し間を置いてから言った。
「美味しい」
「ありがとうございます」
「誰が作ったのですか?」
「私と、マリオが」
「エリナ殿の母上か。レインから聞いている。お嬢さんを、一人で支えてこられた」
「支えられていたのは、私の方です。エリナが引っ張ってくれたから、ここまで来られた」
「そういうものかもしれない。支えているつもりが、支えられている。子どもというのは、そういうものだ」
レインが少しだけ、師匠を見た。
師匠は食事を続けていた。
食後、ゴードンが供給の話をした。
学院への石鹸と薬草薬の供給について、量と価格と仕組みを一枚の紙で説明した。
師匠が読んで、一か所だけ指摘した。
「この価格は、少し安すぎないか?」
「学院への供給だから、少し抑えました」
「それは必要ない。正当な価格でいい。学院は、正当な対価を払える。安くする必要はない」
「わかりました。では、通常価格で」
「その方が、長く続く。安くすることで続けられるより、正当な価格で続けることの方が、双方にとっていい」
「先生の言う通りです。私も、同じことを思っていましたが、言いにくかった」
「言いにくいことを、言う必要がある時がある。それができないと、後で困る」
午後、師匠がエリナと二人で少し話した。
事務室で、向かい合って座った。
「一つ、聞いていいか?」
「どうぞ」
「あなたは、これからどうするつもりだ?」
エリナは少し考えた。
「今は、規制案への対応を続けながら、各町への供給を広げていきます。学院の衛生教育の件は、先生たちにお任せする部分が多くなると思います」
「商会としての話は聞いた。個人としての話を聞きたい」
エリナは、もう少し考えた。
「個人として、ですか」
「あなたは今、八歳だ。十年後、二十年後に何をしているかを、考えているか?」
「考えたことが、あまりありませんでした」
「なぜ?」
「次のことを考えるので、精一杯だったから。十年後より、明日の方が急だから」
「そうだな」
師匠が少しだけ口の端を動かした。
「でも、一つだけ言っておく」
「はい」
「お前は、父上の続きをやっている。それは、父上のためではなく、お前自身がそうしたいからだ。その違いを、忘れないでほしい」
エリナは少しだけ止まった。
「違いを、忘れない」
「父上の夢を引き継いでいる、という重さに、押しつぶされそうになることがあるかもしれない。でも、お前がやっていることは、お前自身がやりたいからやっていることだ。それが、力の源になる」
「以前、母に似たことを言われました」
「母上は、賢い方だ」
「そうです」
「賢い人間の周りには、賢い人間が集まる。レインがお前に引き込まれたのも、そういうことだと思っている」
エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。
謁見の間での師匠の言葉を思い出した。
『お前のことが、大事だ』とレインが言った夜。
師匠は、それを知っている。
「先生」
「何だ?」
「レインは、どういう人ですか。先生から見て」
師匠が少しだけ間を置いた。
「才能がある。それは、お前も知っている」
「それだけではない部分を聞きたいです」
「そうだな」
師匠が静かに言った。
「誠実だ。誠実すぎるくらい、誠実だ。だから、嘘をつくことができない。言葉が少ないのは、嘘をつきたくないからだと、俺は思っている」
「言葉が少ないのは、嘘をつきたくないから」
「お前も、似たところがあると思うが」
「そうかもしれません」
「似た人間が引き合うのは、自然なことだ。これ以上は言わない。余計なことになる」
「余計なことを、一つだけ言ってくれましたね」
「一つだけなら、余計ではない」
師匠が少し笑った。
夕方、レインとエリナが作業場の前に立った。
師匠は事務室でゴードンと話していた。
マリオは市場の方に行っていた。
二人だけだった。
「師匠と、話したのか?」
「話しました」
「何を話した?」
「いくつか。一つだけ教えます」
「どれだ?」
「先生が言いました。『言葉が少ないのは、嘘をつきたくないからだ』と」
レインが少しだけ止まった。
「師匠がそう言ったのか?」
「そう言いました。レインのことを」
「……そうかもしれない。自分では、考えたことがなかった」
「私は、そうだと思いました。聞いた瞬間に」
「なぜ?」
「あなたの言葉は、少ないが、嘘がない。毎回、本当のことしか書いていない。だから、少ない言葉が重くなる」
レインが少しだけ、エリナを見た。
「お前も、同じだ」
「そうですか?」
「お前の言葉も、少ないが嘘がない」
「それは、褒めていますか?」
「褒めている」
作業場の前に、春の夕方の光が差し込んでいた。
少し暖かかった。
二人で、しばらく黙っていた。
それが、不快ではなかった。
夜、レインと師匠は宿をとっていた。
宿の手配は、マリオがしてくれていた。
出発前に、師匠がエリナに言った。
「また来る」
「お待ちしています」
「次は、もう少し長くいられるかもしれない」
「長くいてください」
「レインも、来るだろう。一人では来ないかもしれないが」
「先生」
「余計なことだった。失礼」
その夜、エリナは机に向かった。
レインへの手紙を書こうとして、止まった。
今日、直接会った。
今日、話した。
それで十分かもしれない。
でも、届けたいことがあった。
レインへ
今日、来てくれてありがとうございました。
先生が「また来る」と言ってくれました。あなたも、また来てくれると思っています。
今日、作業場の前で話した時間が、良かったと思っています。うまく言葉にできないが、あることは確かだ。
春が来ています。ルシェムが、少し明るくなっています。
――エリナ――
書いて、封をした。
「今日、作業場の前で話した時間が、良かった」という一行を、書く前に少し考えた。
でも、届けたかった。
今日のことを、知っていてほしかった。
ランプを吹き消した。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
今日、レインが来た。
春が、来ている。
それが今夜、一番大事なことだった。
読んでいただきありがとうございます。
評価や感想を貰えると執筆のモチベーションがアップするので
どんどん評価や感想をください!
ブクマもお願いします!
お待ちしております(*^-^*)




