53話 フィオナとルシェムの日々
フィオナがルシェムに来て、三日が経った。
一日目は休んだ。
本当に休んだ。午前中は部屋で眠っていて、午後にようやく起きてきて、台所でルナの薬草茶を飲んで、また少し眠った。
エリナが様子を見に行くと、フィオナが布団の中から言った。
「王都では、こんなに眠れなかった」
「眠れていなかったんですか?」
「三、四時間寝ればいい方だった。考えることが多くて、目が覚めてしまう」
「それは、体に良くない」
「わかってる。でも、止められなかった。ここに来てから、初めてちゃんと眠れた」
「ルシェムの空気のおかげですか?」
「あなたたちがいるからだと思う」
フィオナが目を閉じたまま言った。
「知っている人たちがいる場所では、緊張が解ける」
二日目から、フィオナは少しずつ動き始めた。
まず、マルタの店に行った。
石鹸の販売状況を直接確認したい、と言っていた。
マルタはフィオナを見て、すぐに椅子を出してきた。
「あんた、少し痩せたんじゃないか?」
「王都では、忙しかったから」
「ちゃんと食べなきゃだめだよ。うちで豆のペーストを食べていきな。エリナちゃんのやつ、今日も入ってるから」
「食べる」
マルタがペーストを乗せたパンを出してきた。
フィオナが一口食べて、少しだけ目を細めた。
「美味しい」
「でしょう? 変わらないから、いいんだよ」
変わらないから、いい。
フィオナは、その言葉を少しだけ受け取った。
後でエリナに話してくれた。
「マルタさんが、変わらないからいい、と言った。その言葉が、妙に残った」
「そうですか」
「王都では、変わらないことが弱さに見える時がある。常に次の手を考えていないといけないから。でも、マルタさんの言葉を聞いて、変わらないことが強さになる場所もあるんだと思った」
「どちらが正しいということではないですか」
「そう。場所によって、どちらが必要かが違う」
三日目、フィオナはゴードンと一緒に作業した。
模造品対策として、品質基準の周知を進める作業だ。
各町の薬屋に配る説明書を、ゴードンが整理していた。フィオナが王都での経験から、言葉の選び方についていくつか提案した。
「この表現だと、専門的すぎて薬屋の人には伝わりにくい。もう少し日常の言葉で書いた方がいい」
「例えばどう変えますか?」
「『品質の均一性を確保するための工程管理』ではなく、『毎回同じ品質になるよう、作る手順を決めている』という言い方の方がわかりやすい」
「確かに。私は数字と記録が専門なので、こういう言葉の選び方は苦手です」
「私は、言葉で人を動かすのが仕事だったから。宮廷では、言葉の選び方が全てだから」
「フィオナさんのその経験が、ここでも役立つ」
「そう思ってくれると、嬉しい」
午後、説明書が一枚仕上がった。
エリナが読むと、わかりやすかった。
「これなら、薬屋の人にも伝わります」
「マリオにも読んでもらった。わかるって言ってたから、大丈夫だと思う」
「マリオが基準ですか」
「マリオが読めれば、市場の人も読める。あなたが言っていた言葉よ」
「そうでしたね」
「あなたの言葉を、ちゃんと覚えてる」
四日目、マリオがフィオナを作業場に案内した。
フィオナは石鹸の製造工程を、初めて直接見た。
手紙では何度も読んでいたが、実際に見るのは初めてだった。
灰と獣脂を合わせて、煮詰めて、型に流して、固める。
フィオナがその工程を見ながら、静かに言った。
「想像より、地味だ」
「地味です」
「でも、確実」
「そうです」
「地味で確実なことが、広がっていく。それが、あなたのやり方だ」フィオナが言った。「派手な一手ではなく、地道な積み重ね」
「フィオナは、そういうやり方が得意ではないですか?」
「得意ではない。私は、場の空気を読んで、瞬時に動くのが得意だ。長期の地道な作業は、苦手な方」
「だから、二人で補い合える」
「そうね。あなたが地道に積み上げて、私が場の空気を動かす。両方がないと、うまくいかない」
ルナが蒸留器の前で作業をしていた。
フィオナがルナを見た。
「ルナ、一つ聞いていい?」
「どうぞ」
「毎日、同じ作業を続けることが、苦痛ではない?」
ルナが少し考えた。
「苦痛ではない」
「なぜ?」
「同じことをしていると、少しずつ変わることに気づく。昨日と今日では、少しだけ違う。それが面白い」
「同じことの中に、違いを見つける」
「そう」
「それは、私にはなかなかできない。私はすぐに、新しいものを探してしまう」
「どちらも必要だと思う。同じことを続ける人と、新しいものを探す人が、両方いると強い」
「ルナ、またいいことを言う」
「事実を言っているだけ」
五日目の夜、フィオナとエリナが二人で台所に残った。
ルナが作ってくれた薬草茶を飲みながら、少しだけ話した。
「エリナ」
「何?」
「一つ、聞いていい?」
「どうぞ」
「ルシェムにいて、後悔したことはある?」
エリナは少しだけ考えた。
「後悔、というのは?」
「没落して、ここに来て、魔法もなくて、貴族の社会から切り離されて。そういう境遇を、後悔したことはある?」
「最初は、少し。でも、すぐになくなった」
「なぜ?」
「考えることが多すぎて、後悔している時間がなかった」
フィオナが少しだけ笑った。
「それもあなたらしい」
「フィオナは、後悔することがありますか?」
「ある。ベルナにいた頃、もっと早く動けばよかった、という後悔がある。父が事業に失敗した時、もっと何かできたかもしれない、という後悔も」
「でも、動けなかった」
「そう。動き方がわからなかった。あの頃の私には、あなたみたいに考える材料がなかった」
「材料というのは?」
「知識と、それを使う意志。あなたは、最初から両方持っていた。私には、意志はあったかもしれないが、知識がなかった」
「フィオナは、知識を自分で集めてきた。王都で一年かけて」
「そう。でも、あなたと出会ってから、かな。本当に動き始めたのは」
「それは、私も同じです。マリオが来てから、動き始めた」
「一人では動けないもんだね、結局」
「そうかもしれません」
「あなたでも?」
「私でも」
六日目、フィオナがグレンと話していた。
市場の外れで、グレンが荷物を運んでいるところに声をかけたらしい。
「グレンさん、面白い人」
「どういう意味ですか?」
「無口だけど、目が正直。嘘をつける目をしていない」
「グレンさんは、そういう人です」
「王都には、あまりいないタイプ。王都の人は、目で計算する。グレンさんは、目で見ているだけ」
「見ている、だけ、ですか?」
「そう。計算なしに、ただ見ている。それが、信頼できる目」
エリナは、グレンの腕を思い出した。
最初に、大きな手でぽんと頭を叩いてくれた日。
「グレンさんは、石鹸が広まってから、傷の手当てをする時に使うようになってくれた。それで、仕事の傷が膿まなくなったと言っていました」
「そういう話が、直接聞ける場所にいるんだね、あなたは。王都では、そういう話はなかなか聞けない。全部、報告書を通じてくる」
「直接聞けることが、大事だと思っています」
「そうだと思う。私が王都から動いていたのは、あなたが現場にいてくれるからだった。現場がなければ、報告する数字がない」
「フィオナが動いてくれなければ、数字を届ける場所がなかった」
「お互い様。また、その言葉」
「本当のことだから」
七日目の朝、フィオナが出発の準備をしていた。
一週間、いると言っていた。予告通りだった。
「もう少しいませんか」
マリオが言った。
「王都に戻らないといけない。クロヴェルが動く前に、先手を打っておきたい」
「仕事熱心だな」
「あなたも同じでしょう? ルシェムを離れたくないくせに、毎日市場に出る」
「それは仕事だからだ」
「私も同じよ」
マリオが少しだけ笑った。
「また来るか?」
「来る。次は、もっと早く来る」
「待ってる」
「マリオが言うと、素直に嬉しい。エリナと違って、感情が顔に出るから」
「エリナは、最近少し出るようになったぞ」
「知ってる。それが、一番の変化だと思っている」
出発前に、フィオナとエリナが少しだけ話した。
「一週間、ありがとうございました」
「こちらこそ。来てよかった。充電できた」
「充電?」
「エネルギーが、戻ってきた感じ。王都に戻っても、しばらくは動ける」
「ルシェムで充電できるなら、また来てください」
「来る。今度は、春になったら来る。花が咲く頃に」
「待っています」
フィオナが少しだけエリナを見た。
「一つだけ言っておく」
「何ですか?」
「この一週間、あなたを見ていて思ったことがある」
「何を?」
「幸せそう。以前のあなたには、なかった顔をしている」
「幸せそうですか?」
「そう。忙しいし、大変なことも多いのに、顔が穏やかだ。前は、どこかいつも戦っている顔をしていた。今は、それがない」
エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。
「幸せ、かどうかはまだわかりません」
「わからなくていい。でも、そういう顔をしてる。それで十分よ」
馬車がルシェムを出発した。
エリナ、マリオ、ルナ、ゴードンが見送った。
フィオナが窓から手を振った。
マリオが大きく手を振り返した。ルナが小さく手を上げた。ゴードンが静かに頭を下げた。
エリナは手を振りながら、フィオナの顔が見えなくなるまで見ていた。
馬車を眺めながらマリオが言った。
「また来てくれるかな」
「来ます」
「どうしてそんなに確信があるんだ?」
「フィオナは、来ると言ったら来る人だから」
「そうか。じゃあ、待っていよう」
その夜、エリナはレインへの手紙を書いた。
レインへ
フィオナが一週間いて、今日帰りました。
この一週間で、フィオナはマルタさんに会い、グレンさんに会い、ルナと話し、ゴードンさんと作業し、作業場を見て、市場を歩きました。
出発前に言われた言葉があります。「幸せそうだ、以前にはなかった顔をしている」と。
私には、まだ幸せかどうかわかりません。でも、そういう顔をしているなら、そうなのかもしれません。
一つだけ、あなたに届けたいことがある。
フィオナが「充電できた」と言いました。ルシェムで、知っている人たちと一緒にいることで、エネルギーが戻ったと。
私も、同じことを感じることがあります。あなたの手紙を読む時に、少し充電される感じがします。
うまく言葉にできないが、あることは確かだ。
また来ると言ってくれた。待っています。
――エリナ――
書いて、封をした。
「あなたの手紙を読む時に、少し充電される感じがします」という一行。
書く前に、少し迷った。
でも、本当のことだから書いた。
届けたかったから、書いた。
ランプを吹き消した。
隣の部屋が、また静かになった。
フィオナがいた一週間は、少し賑やかだった。
でも、静かになった今も、悪くなかった。
フィオナが来た。
フィオナが帰った。
また来ると言った。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
今日、フィオナを見送った。
また来ると知っている別れは、寂しくない。
それが今夜、一番確かなことだった。
読んでいただきありがとうございます。
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