52話 フィオナが来た日
フィオナがルシェムに来たのは、謁見から二週間後のことだった。
予告なしだった。
朝、市場から戻ったマリオが、息を切らして事務室に飛び込んできた。
「フィオナさんが来た」
「どこに?」
「市場の入り口。馬車で来てる。荷物が多い」
「荷物が多い?」
「トランクが二つある」
エリナは少しだけ止まった。
「泊まりではなく、しばらくいるつもりですか」
「そういうことじゃないか? 迎えに行くか?」
「行きます」
市場の入り口に着くと、フィオナが馬車の横に立っていた。
久しぶりに、ルシェムで見るフィオナだった。
王都で会った時とは少し違って見えた。服装は変わらないが、顔が少し違う。
疲れている、と手紙に書いていた。
確かに、少し疲れた顔をしていた。
でも、エリナを見た瞬間、目が変わった。
「来た」
「来ましたね、予告なしで」
「予告したら、準備されすぎると思って。あなたのことだから、部屋を完璧に整えて、食事まで用意して待っていそうだから」
「そうしようとしていました」
「でしょう。だから、言わなかった」
「荷物が多いですね」
「しばらくいようと思って」
フィオナが少しだけ声を落とした。
「王都からの仕事は、手紙でできる部分も多い。しばらくルシェムで動きながら、こちらの空気も吸いたかった」
「どのくらい?」
「一週間か、二週間か。決めていない」
「決めなくていいです。いたいだけいてください」
マリオが荷物を運んでくれた。
フィオナが見ると、少し驚いた顔をした。
「マリオ、大きくなった?」
「なってないと思うけど、フィオナさんが久しぶりに会うから大きく見えるだけじゃないか?」
「そうかもしれない。でも、なんか違う。顔が違う」
「どう違う?」
「前より、落ち着いた顔をしてる」
「そうかな」
マリオが頭を掻いた。
「俺はいつも同じだと思うけど」
「変わった人間は、自分では気づかないもの。エリナもそうだし、私もそうだし」
「フィオナさんも変わったのか?」
「変わった。王都で一人でいると、いろんなことを考える」
「そうか」マリオが頷いた。「まあ、ゆっくりしていってくれ。ルシェムは、王都より静かだから」
「それが目的だから」フィオナが笑った。
ルナが、事務室から顔を出した。
フィオナを見て、少しだけ目が動いた。
「ルナ、久しぶり」
「久しぶり。来た」
「来た。王都から」
「遠かった?」
「少し。でも、来てよかった」
「猫が増えた」
「え?」
「三匹いる」
「そうなの?」
フィオナが少し目を丸くした。
「前は一匹だったのに」
「来た」
「猫が来たの?」
「なぜか来る。いつの間にかいる」
「ルナの周りだから、そうなるのかもしれない。動物に好かれる人だから」
「そう言われる。フィオナは、好かれない?」
「猫には、あまり。人間には、そこそこ」
「そう。猫は正直だから」
「それは、どういう意味かしら」
「フィオナは、少し怖い感じがするから。猫は怖い感じがする人を避ける。でも、悪い怖さじゃない」
「どういう怖さ?」
「全部を見てる感じ。猫は、全部を見てる人が苦手」
フィオナが少しだけ、口の端を動かした。
「なるほど。ルナに分析されるとは思わなかった」
「違う?」
「違わない。正確すぎて、少し怖い」
「だから、猫に避けられる」
昼食を四人で食べた。
エリナ、マリオ、ルナ、フィオナ。
豆のスープと、パン。
フィオナが一口飲んで、少しだけ目を細めた。
「これ、エリナが作ったやつ?」
「そうです」
「最初にルシェムに来た時も、このスープを食べた気がする」
「同じものです」
「変わらないね」
「変わらない方がいいものもあります」
「そうね。このスープは、変わらなくていい」
マリオが言った。
「フィオナさん、王都どうだった。疲れた?」
「疲れた。でも、いい疲れと悪い疲れがある。王都での仕事は、いい疲れだった。でも、積み重なると、ただの疲れになる」
「それで、来たのか」
「そう。ルシェムの空気を吸いに来た」
「ルシェムの空気、特別なものでもないけどな」
「あなたはそう感じないかもしれない。でも、私には特別だ。知っている人たちがいる場所の空気は、違う」
マリオが少しだけ黙った。
「そうか。じゃあ、ゆっくりしていってくれ」
「そうする」
午後、フィオナとエリナは二人で事務室に入った。
フィオナが荷物の中から手帳を取り出した。
「仕事の話もしたい。王都の状況を、直接話したい」
「はい」
「クロヴェルは、今のところ大きな動きがない。でも、内部で何かを考えているはずだ。次の手が来るとしたら、春ごろかもしれない」
「春、ですか」
「陛下が謁見で言及してから、表立って動きにくくなっている。でも、クロヴェルは長期戦が得意だから、タイミングを見ている可能性がある」
「その時のために、今から準備する必要がありますね」
「そう。それと、一つ気になる動きがある」
「何ですか?」
「クロヴェルが、商人ギルドの一部と接触を再開している。前回は流通への介入を試みた。今回は、別のことを考えているかもしれない」
「別のこと、とは?」
「模造品。アッシュフォード商会の石鹸に似た製品を、別の商会が販売し始める可能性がある。価格を下げて、品質を落として。そうすることで、石鹸全体のイメージを悪化させる作戦だ」
「それは——証明が難しい」
「そう。誰が作っているかを特定するのが難しい。でも、品質基準の公開が、ここで生きてくる」
「学院の確認書が、私たちの品質を担保している」
「そうだ。模造品が出ても、学院が確認した基準を満たしているかどうかで、区別できる」
「品質基準の公開を、もう少し広く周知する必要がありますね」
「そう思う。各町の薬屋に配るのが一番早い。薬屋が知っていれば、消費者に説明できる」
「ゴードンさんに相談します。今週中に動ける」
「助かる。こういう話が、直接できるのがいい。手紙だと、どうしても時間がかかる」
「フィオナがいてくれると、動きが速くなります」
「それが、来た理由の一つでもある。疲れを取るためだけじゃなくて、直接動きたかった」
夕方、フィオナがルシェムの町を歩きたいと言った。
マリオが案内役を申し出た。
「市場を見せてあげるよ。マルタさんにも会えるし」
「マルタさん、元気?」
「元気だよ。声が大きいのも変わらない」
「そう、会いたいな」
二人で出かけていった。
エリナはルナと作業場に残って、薬草の在庫確認をした。
「フィオナ、変わった?」
ルナが棚を見ながら聞いた。
「変わったと思います。でも、フィオナらしさは変わっていない」
「そういうもの?」
「そういうものだと思います」
「エリナも、変わったけどエリナらしい」
「そうですか?」
「そう」
ルナが棚の瓶を一つ手に取って、確認した。
「変わることと、変わらないことが、両方ある。それがいい」
「どちらかだけでは、ダメですか?」
「ダメじゃない。でも、両方あると強い。根っこが変わらないまま、枝が伸びる。そういう感じ」
エリナは少しだけ、その言葉を考えた。
根っこが変わらないまま、枝が伸びる。
「ルナは、木が好きですか」
「好き」
「なぜですか?」
「ゆっくり育つから。急がない。でも、ちゃんと伸びる」
夜、マリオとフィオナが市場から戻ってきた。
フィオナがマルタとグレンに会ったらしく、少し顔色が良くなっていた。
「マルタさん、相変わらずだった。声が大きくて、笑い声が遠くまで聞こえる」
「そうでしょう」
「グレンさんにも会った。あの人、無口だけど、いい目をしてる」
「そうですね」
「ルシェムの人たちは、みんな、自分の場所を持っている感じがする」フィオナが静かに言った。「王都の人たちとは、少し違う」
「どう違いますか?」
「王都の人たちは、どこか次の場所を見ている。でも、ルシェムの人たちは、ここにいる。それが、いいと思った」
「ここにいる、ということが」
「そう。私は、ずっと次の場所を見てきた。ベルナを出て、王都に来て、次は何かと考えてきた。でも、ルシェムに来て、ここにいる人たちを見て、少し思った」
「何を?」
「いつか、私もどこかにいる、という場所を作りたい」フィオナが静かに言った。「次の場所ではなく、ここ、という場所を」
エリナは少しだけ、フィオナを見た。
疲れている、と手紙に書いていた。
でも、それだけではなかった。
次の場所を探し続けることに、疲れていたのかもしれない。
「フィオナ」
「何?」
「ルシェムが、そういう場所になることはありますか?」
フィオナが少しだけ止まった。
「なるかもしれない」
フィオナが静かに言った。
「まだわからない。でも、なるかもしれない」
「なったら、教えてください」
「教える。その時は、エリナに一番最初に言う」
夜、全員で夕食を食べた。
エリナ、セレーナ、マリオ、ルナ、フィオナ、ゴードン。
久しぶりに、長屋が人で賑やかだった。
セレーナがフィオナに話しかけていた。フィオナがセレーナに王都の話をしていた。マリオがルナに何かを言って、ルナが首を傾げていた。ゴードンが静かに食事をしていた。
エリナはその場面を、少しだけ見ていた。
一年半前、この長屋には自分と母だけだった。
今は、こんなに人がいる。
テーブルの周りの人たちを、順番に見た。
全員が、ここにいる。
それが、今夜一番大事なことだった。
食事が終わって、フィオナが言った。
「エリナ、一つだけ聞いていい?」
「どうぞ」
「レインからの手紙、最近どんな内容だった?」
エリナは少しだけ考えた。
「図書室の話が来ました。父の記録書の話」
「それだけ?」
「衛生教育の話もありました」
「それだけ?」
「……個人的なことも、少し」
「どんな?」
「廊下を歩きながら、手紙のことを考えている、という話でした」
フィオナが少しだけ目を細めた。
「そういうことを書いてくるんだ」
「書いてきました」
「で、あなたはどう返した?」
「私も同じです、と」
フィオナがしばらくエリナを見た。
それから、小さく笑った。声には出なかった。でも、笑った。
「いい返し方ね」
「そうですか?」
「そうよ。それ以上でも、それ以下でもない。あなたらしい」
「褒めていますか?」
「褒めてる、絶対に」
夜、エリナは机に向かった。
レインへの手紙を書いた。
レインへ
今日、フィオナがルシェムに来ました。予告なしで。
久しぶりにルシェムのみんなと一緒に夕食を食べました。セレーナ、マリオ、ルナ、ゴードンさん、フィオナ。テーブルの周りに、全員がいました。
一年半前、この長屋には私と母しかいなかった。今日は、こんなに人がいた。
それを、あなたに知っていてほしかった。
フィオナが、レインからの手紙の話を聞いてきました。「廊下を歩きながら、手紙のことを考えている」という話を話したら、フィオナが笑いました。何も言いませんでしたが、笑いました。
フィオナの笑い方が、何かを知っている笑い方でした。
また来ると言ってくれた。待っています。
――エリナ――
書いて、封をした。
「テーブルの周りに、全員がいました」という一行を、書く前に少し考えた。
でも、届けたかった。
今日の夕食の場面を、レインに知っていてほしかった。
ランプを吹き消した。
隣の部屋から、フィオナが寝る準備をする音が聞こえた。
マリオが手配してくれた部屋に、フィオナが泊まっていた。
ルシェムに、フィオナがいる。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
今日、テーブルの周りに全員がいた。
それが今夜、一番大事なことだった。
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