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灰の令嬢は、知恵で世界を塗り替える  作者: 白石マサル


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49/120

49話 帰る場所

 翌朝、エリナは早く起きた。

 今日、ルシェムに帰る。

 荷物を確認した。報告書の写し。確認書の写し。殿下から預かったアッシュフォード商会の正式な代表変更に関する書状の下書き。そして、セレーナへの手紙。

 全部、ある。

 朝食を三人で食べた。

 フィオナが、珍しく朝から饒舌だった。

 

「昨夜の話、全部聞かせてもらうって言ったけど」

「聞きますか?」

「聞く。でも、今は聞かない」

「なぜですか?」

「あなたの顔を見れば、大体わかるから。今日は、その顔で十分」

「どんな顔をしていますか?」


 ゴードンが静かに言った。

 

「昨日フィオナが見たかった顔」

 

 

 出発前に、フィオナと二人になった。

 宿の前の小さな通りで、少しだけ話した。

 

「フィオナ、これからどうするんですか?」

「王都にいる。まだやることがある。規制案はまだ継続審議のままだ。陛下が認めたとはいえ、クロヴェルが諦めたわけじゃない」

「そうですね」

「でも、今日は違う話をしたい」

「どんな話ですか?」

「あなたが帰った後のことを、少し考えた。王都に来てからの一年間、私はずっとここで動いていた。でも、いつかルシェムに行ってみたいと思っている」

「ルシェムに?」

「マリオとルナに、会いたい。あなたが話してくれた人たちに。あなたが動いてきた場所を、見てみたい」

「来てください、必ず」

「いつ行けるかはわからない。でも、行く」

「待っています」

 

 フィオナが少しだけ笑った。

 

「その言葉、昨夜もレインに言ったでしょう」

「言いました」

「同じ言葉が、自然に出てくるようになったんだね」フィオナが穏やかに言った。「前のあなたには、なかった言葉だと思う」

「そうかもしれません」

「いい変化だと思う」

 

 フィオナが手を差し出した。

 エリナはその手を両手で握った。

 

「フィオナ、一年間ありがとうございました」

「どういたしまして」フィオナが笑った。「ありがとうは、こっちも言いたい。あなたがいなければ、私はここにいなかった」

「それはお互い様です」

「そうね、お互い様ね」


 馬車に乗った。

 フィオナが見送った。

 手を振った。

 馬車が動き出した。

 エリナは窓から、フィオナの姿が小さくなるのを見ていた。

 王都の石畳の上に、フィオナが立っていた。

 いつか、ルシェムで会う。

 そう思いながら、窓から目を離した。


 馬車の中で、ゴードンが言った。

 

「昨夜、師匠から少しだけ話を聞きました」

「どんな話ですか?」

「学院が、来年から正式に衛生教育を取り入れることを検討しているそうです」

「衛生教育?」

「石鹸の使い方、薬草薬の基礎知識、傷の手当ての手順。これを、学院の一般教育に組み込む検討が始まっている」

「それは、師匠の発案ですか?」

「師匠と、魔法師団長と、アルバ殿下が話し合っているとのことです。今日の謁見が、背中を押したようだ、と師匠が言っていました」

 

 エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。

 謁見が、背中を押した。

 届いたものが、次の動きを作っている。

 

「ゴードンさん」

「はい」

「一年前、複式簿記の話をして採用してくれましたね」

「そうでしたね。あの時、この娘は本物だと思いました」

「採用してくれてありがとうございます」

「こちらこそ。居場所を作っていただいた」

「居場所?」

「ギルドを去ってから、ずっと、自分の仕事が何かがわからなかった。でも、この一年で、わかった気がします」

「何がわかりましたか」

「数字を、正直な目的のために使うこと。それが、私の仕事だとわかりました」

 

 エリナは、ゴードンの横顔を見た。

 この人が、一年間積み上げてくれた数字が、今日の謁見に繋がった。

 

「ゴードンさんの数字が、届きました」

「私の数字ではありません」ゴードンが静かに言った。「エリナさんが動いたから、積み上げられた数字です。私は、記録しただけです」

「記録することが、大事なことです」

「そうですね。記録は、消えない」


 宿場町で一泊して、翌日の昼にルシェムに着いた。

 長屋が見えてきた。

 エリナは窓から外を見た。

 いつもの石造りの家並み。市場の端の看板。井戸の水を汲む人。

 変わっていない。

 でも、今日の自分は少し違う。

 馬車が止まる前に、マリオが走ってきた。

 

「帰ってきた!」

 

 馬車が止まる前に声をかけてきた。

 

「帰りました」

「どうだった!」

「届きました」

「届いたのか!」

「届きました」

 

 マリオが拳を握った。声は出さなかったが、全身で喜んでいた。

 馬車から降りると、ルナが長屋の入り口に立っていた。

 猫が一匹、足元にいた。

 

「帰った」

「帰りました」

「ちゃんと帰ってきた」

「言ったとおりに」

 

 ルナが少しだけ頷いた。

 

「よかった」


 グレンが来ていた。

 

「終わったか」

「終わりました」

「上手くいったか?」

「上手くいきました」

「そうか。石鹸の在庫を確認しておいてくれ。来週、追加が必要になる」

 

 エリナは少しだけ、グレンを見た。

 これが、グレンの祝いの言葉だった。

 

「わかりました。確認します」

「それだけだ」


 グレンが言って、歩いていった。


 ハンスも来ていた。

 

「お疲れさん」

「ありがとうございます。作業場、見ておいてくれましたか?」

「マリオが毎日見ていた。一度だけ、俺も確認した。問題ない」

「ありがとうございます」

「それだけだ」


 ハンスも、グレンと同じように言って、帰っていった。


 台所に入ると、セレーナがいた。

 エリナを見て、一歩近づいた。

 エリナが先に言った。

 

「ただいま、お母さん」

「おかえりなさい、エリナ」

 

 セレーナがエリナを抱いた。

 エリナはそれを、受け取った。

 母の腕の温度が、ここに帰ってきたことを教えてくれた。

 しばらく、そのまま立っていた。

 

「届いた?」

「届きました」

「そう」


 セレーナが少しだけ声を揺らした。


「よかった」

「お母さん」

「うん」

「手紙を持っています」


 エリナが上着のポケットから取り出した。


 「昨夜書きました。帰ってから渡すつもりだった」

 

 セレーナが手紙を受け取った。

 開けて、読んだ。

 一行だけ付け加えられていた。

 

『届きました。帰ります。』

 

 セレーナが少しだけ、笑った。

 

「ちゃんと帰ってきた」

「帰ると言いました」

「知ってる。でも、聞いて嬉しい」


 夕方、エリナは作業場に行った。

 棚を見た。石鹸の型を見た。薬草の瓶を見た。

 何も変わっていなかった。

 でも、今日この作業場に来た時の感覚が、一年前とは違った。

 一年前は、ここがどこかへ向かうための出発点だった。

 今日は、ここが場所になっていた。

 帰ってくる場所。

 マリオが言っていた。帰ってくる場所がある、と。

 今日、その言葉の意味が、もう少しわかった気がした。


 夜、エリナは机に向かった。

 今日の作業リストを書こうとして、止まった。

 今日はいいかもしれない。

 明日から書けばいい。

 珍しいことだと思った。

 でも、今日はそういう気分だった。

 机の引き出しを開けた。

 レインからの手紙が、全部入っていた。

 一番上に、昨夜渡した手紙の入っていた封筒が入っている。空の封筒だ。でも、捨てなかった。

 引き出しを閉めた。

 レインが「また来る」と言った。

 師匠の衛生教育の話が進めば、レインも関わることになるかもしれない。

 フィオナが、いつかルシェムに来ると言った。

 ダリウスは、今頃、宮廷でどうしているだろう。

 

 ベルダンは、一年後の結果を聞いた。

 マグダが、ヴァロウで石鹸を配っている。

 シェナが、トレネの林で薬草を摘んでいる。

 ジルカが、キーシュの海沿いのルートを整えている。

 それぞれが、それぞれの場所で動いている。

 エリナは、その全部を少しだけ思った。


 ルナが台所から声をかけてきた。

 

「お茶、ある」

「ありがとう」

 

 台所に行くと、湯呑みが二つ置いてあった。

 ルナが向かいに座った。

 猫が一匹、ルナの膝に乗った。

 

「どうだった?」

「届きました」

「よかった」

「ルナが薬草を確認してくれていたから、数字が正確だった」

「当たり前のことをしただけ」

「当たり前にできることが、一番大事なことだから」

 

 また同じ言葉を言った気がした。でも、何度言っても本当のことだから、言った。

 

「ルナ」

「何?」

「一つ聞いていいですか?」

「どうぞ」

「この一年、何が一番大変でしたか?」

 

 ルナが少し考えた。

 

「秋に、採取できる薬草が少なかった。足りなくなりそうで、少し怖かった」

「そうでしたか。気づきませんでした」

「言わなかったから。でも、シェナが新しい場所を見つけてくれた。助かった」

「一人でやろうとしていたんですか?」

「最初は。でも、シェナに連絡したら、すぐ動いてくれた」

「連絡してくれてよかった」

「連絡することが大事だと、エリナが教えてくれたから。一人でやろうとしなくていいと」

「私が言いましたか?」

「言った。マリオに話しているのを、聞いてた」

 

 エリナは少しだけ、笑った。

 

「聞こえていたんですか?」

「よく聞こえる。でも、大事なことだから、覚えていた」


 夜が深くなった。

 ルナが猫と一緒に自分の部屋に戻った。

 エリナは一人で台所に残った。

 薬草茶の残りを飲み干した。

 今日、帰ってきた。

 マリオが『帰ってくる場所がある』と言っていた。

 帰ってきた。

 それが今夜、一番確かなことだった。

 でも、もう一つ確かなことがあった。

 ここは、帰ってくる場所であると同時に、また動き出す場所でもある。

 規制案は、まだ継続審議のままだ。

 

 フィオナが王都で動いている。

 レインが学院で動いている。

 衛生教育の検討が始まった。

 次の一手が、もうある。

 

 でも、今夜はいい。

 今夜は帰ってきた夜だから。

 明日から、また動く。

 今夜は、帰ってきたことだけを、受け取る。

 ランプを吹き消した。

 

 エリナ・アッシュフォード、八歳。

 

 今日、ルシェムに帰ってきた。

 帰ってくる場所に、帰ってきた。

 それが今夜、一番大事なことだった。

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