50話 翌朝と、これからのこと
ルシェムに帰った翌朝、エリナはいつもより少しだけ遅く起きた。
目が覚めた時、空はすでに明るかった。
珍しいことだった。
いつもは夜明け前に目が覚める。でも今朝は、光が差し込んでから目が開いた。
しばらく、布団の中でそのままいた。
これも珍しいことだった。
起きたら、すぐに動く。それがいつものエリナだった。
でも今朝は、少しだけそのままいた。
窓の外から、ルシェムの朝の音が聞こえた。
市場へ向かう人の足音。遠くで犬が吠える声。風が木の葉を揺らす音。
帰ってきた、と思った。
昨日も思った。でも、今朝も思った。
ここが、自分の場所だ。
台所に行くと、セレーナが先にいた。
「おはよう」
「おはようございます」
「よく眠れた?」
「はい。遅くまで眠っていました」
「そう。今日くらいは、いいんじゃない?」
「そうかもしれません」
薬草茶を作りながら、エリナは窓の外を見た。
冬の朝の空は、澄んでいた。
「お母さん」
「うん」
「昨日、ゴードンさんから聞いた話があります」
「何?」
「学院が、来年から衛生教育を取り入れることを検討しているそうです。石鹸の使い方、薬草薬の知識、傷の手当ての手順を、学院の教育に組み込む話が始まっている」
セレーナが少しだけ手を止めた。
「それって、どういうことになるの」
「学院で教えれば、学院の生徒が卒業して各地に行く時に、その知識を持っていく。一人が届けられる場所より、ずっと広い範囲に届く」
「あなたが一年でやったことが、もっと広がるということ?」
「そうなるかもしれません」
「お父さんが聞いたら、何と言うかしら」
エリナは少しだけ考えた。
「『私よりうまくやっている』と言うか、それとも『まだ足りない』と言うか」
「この前も同じことを言ったわね」
「同じことを思うから、同じことを言います」
セレーナが笑った。
「それも、お父さんに似てる」
マリオが来たのは、朝食が終わった頃だった。
「なあ、エリナ」
「何?」
「今日は休んでいいんじゃないか?」
「休む?」
「昨日帰ってきたばかりだ。今日くらいは、ゆっくりしていい」
「でも、グレンさんが在庫の確認をと言っていました」
「それは俺がやる。今日一日、俺に任せろ」
エリナは少しだけ、マリオを見た。
「本当に大丈夫ですか?」
「一年間、お前のいない時も現場を回してたんだぞ。一日くらいできる」
「……ありがとうございます」
「じゃあ決まりだ。今日は何もしなくていい。したければしてもいいけど、しなくても誰も怒らない」
エリナは少しだけ考えて、頷いた。
「わかりました。お言葉に甘えます」
「珍しいな、素直に受け取るの」
「最近、少し素直になりました」
「気づいてる。いいことだと思う」
午前中、エリナは特に何もしなかった。
本当に何もしなかった。
作業場の前を通った時、棚を見た。在庫は問題なかった。ルナが管理してくれていた。
市場に少しだけ顔を出した。マルタが見つけて声をかけてきた。
「帰ってきたかい」
「帰りました」
「上手くいったんだろ。顔を見ればわかる」
「上手くいきました」
「そうかい」
マルタがケラケラと笑った。
「じゃあ、石鹸をもう少し多めに仕入れようかね。売れると思うから」
「よろしくお願いします」
マルタがまた笑って、荷物の整理に戻った。
エリナは市場の中を少し歩いた。
顔見知りの人たちが、会釈してくれた。
一年前は、この市場で知っている人がほとんどいなかった。
今は、顔を知っている人が多い。
それが、少し嬉しかった。
昼過ぎ、レインから手紙が届いた。
昨日出発したばかりなのに、速達だった。
エリナへ
ルシェムに帰っただろうか。
学院に戻る前に、一つだけ書いておきたかった。
昨夜、あなたが『私も、同じです』と言ってくれた。
その言葉を、今朝になってもまだ考えている。
俺は、言葉にするのが得意ではない。でも、今朝は少しだけ言葉になった気がするから、書く。
お前と手紙のやり取りをするようになってから、学院の廊下を歩く時に、少し違う感じがするようになった。以前は、廊下は移動する場所だった。でも今は、手紙を書く時間のことを考えながら歩いている。
何を書こうか、とか、お前が読んだらどう思うか、とか。
それが、うれしいことなのか、そういうものなのか、まだうまく言葉にできない。でも、悪くない。
それだけ伝えたかった。
また、ルシェムに行く。
――レイン――
エリナは手紙を読んで、少しだけ窓の外を見た。
廊下を歩きながら、手紙のことを考えている。
自分も、同じだった。
石鹸の型に液体を流し込みながら、レインが読んだらどう思うかを考えていた。
薬草を分類しながら、今日あったことを手紙に書こうと思っていた。
同じだった。
整理しようとして、やめた。
整理しなくていい。
でも、届けたかった。
レインへ
帰りました。今日は、マリオに現場を任せて、何もしない日にしました。生まれて初めてかもしれません。
廊下を歩きながら、手紙のことを考えている、という話を読んだ。
私も同じです。石鹸を作りながら、薬草を分類しながら、今日あったことをあなたに届けようと考えていた。
「悪くない」という言葉が、正確だと思います。私も、悪くない、と思っています。
それだけでなく、もう少し言えることがある。でも、今日はここまでにします。
また来ると言ってくれた。待っています。
――エリナ――
書いて、封をした。
「もう少し言えることがある」と書いた。
何が言えるかは、まだわからない。
でも、言えることが増えている気がした。
一年前には、なかった気がした。
夕方、ルナが作業場から出てきた。
「エリナ」
「何?」
「今日、何もしなかった?」
「マリオに任せました」
「そう。よかった」
「よかった、というのは」
「休める時に休んでおくと、また動ける。動き続けると、壊れる」
「猫も、休みますか?」
「よく寝る」
「ルナはどうですか?」
「私も、よく寝る。エリナは、あまり寝ない」
「最近は、少し寝るようになりました」
「知ってる。顔が変わった」
「顔が?」
「以前より、少し柔らかい」
エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。
顔が柔らかくなった。
マリオも、ゴードンも、フィオナも、同じようなことを言っていた。
「ルナ」
「何?」
「この一年、ありがとうございました」
「どういたしまして」
ルナが少し間を置いた。
「エリナこそ、ありがとう」
「私が?」
「拾ってくれたから」
エリナは少しだけ止まった。
ルナが「拾ってくれた」と言った。
廃屋の近くで、一人で薬草を集めていたルナを、マリオが見つけてきた。あの日から、一緒にいる。
「拾ったというより、来てくれた」
「マリオが連れてきた」
「でも、来てくれた」
ルナが少しだけ、口の端を動かした。
笑い、だったかもしれない。
「来てよかった」
「私も、よかったと思っています」
夜、マリオが今日の現場の報告をしに来た。
「在庫の確認、終わった。グレンさんに伝えた。来週の追加分は、ゴードンさんに発注書を出してもらうことになった」
「ありがとうございます。問題はありませんでしたか?」
「なかった。ルナが全部把握してたから、俺は確認するだけで済んだ」
「ルナは優秀です」
「お前が育てたんだろ」
「一緒に育ちました」
マリオが少しだけ笑った。
「そういう言い方するようになったな、最近」
「そうですか」
「前は『私が教えた』とか『私が指示した』って言い方をしてた。今は、一緒に、という言い方が増えた」
エリナは少しだけ、その指摘を受け取った。
「変わりましたか?」
「変わった。良い変わり方だと思う」
「ありがとう」
「それと、フィオナから手紙が来てた。お前宛てに」
「フィオナから?」
「ベルナから転送されてきたやつだと思う。今日届いた」
マリオが封筒を渡した。
エリナへ
あなたが帰った後、少し一人で歩いた。王都の街を。
歩きながら、この一年のことを考えた。
ルシェムを出て、王都に来て、一人で動いた。孤独もあった。疲れた時もあった。でも、後悔はない。
一つだけ、あなたに伝えておきたいことがある。
私が王都に来たのは、あなたのためだけじゃなかった。自分の場所を探していたから、でもあった。ルシェムでは、没落した貴族の娘に居場所がなかった。王都で、自分にできることを見つけたかった。
それが見つかった。情報を集めて、感情を読んで、動く。それが私の場所だとわかった。
あなたのおかげでもある。でも、私自身が動いたからでもある。
両方が本当だと思っている。
クロヴェルの件は、まだ続く。でも、今日は続きの話はしない。
ルシェムで会う日を、楽しみにしている。マリオとルナと、ゴードンさんと、みんなに会いたい。
――フィオナ――
追伸。レインとの話、詳細は会った時に全部聞かせてもらうから、覚えておいてね。
エリナはフィオナの手紙を読んで、少しだけ笑った。
追伸が、フィオナらしかった。
自分の場所を見つけた、とフィオナが書いた。
エリナも、自分の場所を見つけた。
ルシェムがそうだ。
没落して来た時は、ただの仮住まいだと思っていた。でも、一年半以上かけて、ここが自分の場所になった。
フィオナはベルナで生まれて、王都で自分の場所を見つけた。
それぞれが、それぞれの場所を見つけた。
夜、机に向かった。
作業リストを書こうとして、少し考えた。
明日からまた動く。
次にやることは、見えている。
規制案への継続的な対応。衛生教育の検討への関与。商会の代表変更の正式書類。各町の現場との連絡。
やることは、山ほどある。
でも、今夜はリストを書かなかった。
代わりに、一枚の紙に、今日感じたことを書いた。
作業記録でも、報告書でもない。
ただ、今日を記録した。
今日、帰ってきた翌日。マリオに現場を任せて、何もしなかった。珍しいことだった。でも、悪くなかった。
ルナが「拾ってくれたから、来てよかった」と言った。フィオナが「自分の場所を見つけた」と書いた。レインが「廊下を歩きながら手紙のことを考えている」と書いた。
みんなが、それぞれの場所を持っている。
私も、ここが場所だとわかった。
帰ってくる場所があることを、今日改めて知った。
書いて、少しだけ読み返した。
これは、誰かに届けるためではない。
自分のために書いた。
でも、いつかレインに見せたいと思った。
なぜそう思ったのかは、うまく言葉にできない。
でも、あることは確かだ。
ランプを吹き消した。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
今日、帰ってきた翌日を、静かに過ごした。
明日から、また動く。
でも今夜は、ここにいることを、ただ受け取った。
それで今夜は、十分だ。
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