48話 一年後の夜
謁見が終わって、王宮を出たのは昼過ぎだった。
アルバ殿下が廊下で待っていた。
「よくやりました、エリナ殿」
「ありがとうございます。殿下の準備がなければ、今日はなかった」
「王都のデータは、効きましたね」
殿下が少し笑った。
「右側の列が、ざわついた」
「見えていました」
「父上は、満足そうでした。あの顔は、久しぶりに見た。一年前に、『わくわくしている』と言いましたが、今日はそれ以上でしたよ」
エリナは少しだけ、その言葉を受け取った。
「殿下、商会の代表についてお願いがあります」
「ゴードンさんから聞きました。昨夜、連絡をいただいた」
「はい。正式にエリナ・アッシュフォードの名で商会を持てるよう、陛下にご確認いただけますか?」
「すでに父上に話しました。年齢の問題は、特例として認めていただける方向です。正式な書類は、来週中に届きます」
「ありがとうございます」
「アッシュフォード商会の代表が、アッシュフォードの名前になる。当然のことですから」
王宮の外で、師匠とレインが待っていた。
師匠がエリナに言った。
「一つだけ言っておく」
「はい」
「今日の発言で、一番良かった部分を教えてもいいか?」
「ぜひ」
「クロヴェルへの返答だ」
師匠が静かに言った。
「感情で返さなかった。でも、感情がないふりもしなかった」
エリナはフィオナが昨日言っていた言葉を思い出した。
「感情がないふりもしなくていい、という言葉を、昨日フィオナからもらいました」
「賢い子だ、フィオナ殿は。あの返答には、あなたがいた。数字だけではなかった」
「届きましたか?」
「届いた。俺には届いた。他の人間にも届いたと思う」
師匠が一歩退いた。
「俺はこれで失礼する。よくやった」
「先生、ありがとうございました。一年間、本当に」
「礼はいらない。あれだけの数字を積み上げてくれれば、こちらも動きやすかった。お互い様だ」
師匠が、ゴードンの方に少し立ち止まって、何かを言った。ゴードンが深く頭を下げた。
それから師匠は歩いていった。
四人になった。
エリナ、ゴードン、フィオナ、レイン。
フィオナが言った。
「今夜、四人で食事しましょう。私が店を選ぶ」
「いい店ですか?」
「いい店よ。今日のために、前から考えていた」
フィオナが選んだ店は、王都の中心から少し外れた、小さな食堂だった。
石造りの建物の中に、木のテーブルが四つ。壁に羊のタペストリーが掛かっていた。
「庶民的だな」
レインが言った。
「豪勢すぎると、落ち着かないでしょう。今日くらいは、落ち着いて食べたい」
「同意する」
四人でテーブルに着いた。
暖炉が燃えていた。外の冬の冷たさが、嘘のように思えた。
料理が来た。豆のスープ、焼いたパン、ラム肉の煮込み。
エリナは豆のスープを一口飲んだ。
ルシェムで作ったものとは、少し違う。でも、温かかった。
「乾杯をしましょう。何に乾杯する?」
「一年間に」
ゴードンが静かに言った。
「届いたことに」
エリナが言った。
「父上に」
レインが言った。
エリナは少しだけ止まった。
レインが「父上に」と言った。
エリナの父ではない。でも、レインはそう言った。
「父に」エリナが繰り返した。
四人が、湯呑みを合わせた。
食事をしながら、話した。
フィオナが今日の謁見の中で一番印象に残った場面を話した。
「師匠が冒頭に同じ話から始めた時、謁見の間の空気が変わった。あれは計算外だった」
「計算していました」
「え?」
「師匠からの手紙で、同じ話を使うと聞いていた。でも、実際に始まった時の空気は、計算以上でした」
「なぜ計算以上になったと思う?」
「師匠の声が、違った。師匠は感情を込めない人だと思っていた。でも、あの話をする時だけ、少し違った。本当に届けたいと思って話していた」
「俺も感じた。師匠が、ああいう話し方をするのを、初めて見た」
「師匠を変えたのは、エリナが書いたおばあさんの話だと思う」
フィオナが言った。
「数字の奥に人がいることを、師匠が受け取った」
「レインが教えてくれた言葉が、師匠に届いて、師匠の発言になって、謁見の間に届いた」
エリナが静かに言った。
「一本の線が、繋がった気がする」
レインが少しだけ目を細めた。
「俺が言った言葉が、そこまで繋がったのか」
「繋がりました」
ゴードンが途中で席を外した。
「少し、外の空気を吸ってきます」
それがゴードンなりの気遣いだと、エリナは思った。
フィオナも立ち上がった。
「私も」
「フィオナも行くんですか?」
「暖炉が少し暑い。少しだけ」
二人が店を出た。
テーブルに、エリナとレインが残った。
静かだった。
暖炉が燃えている音がした。
外から、かすかに王都の街の音が聞こえた。
エリナは湯呑みを持ったまま、少しだけレインを見た。
「一年後の約束が、今夜です」
「そうだ」
「数字と結果ではなく、一年間に何を考えていたかを話す、という約束」
「覚えている」
「どこから話しますか」
レインが少し考えた。
「お前から話してほしい」
「私から?」
「ああ。俺が先に話すより、お前の話を聞いてから、俺が話した方がいい気がする」
エリナは少しだけ考えた。
一年間、何を考えていたか。
「最初に話したいのは、変わったことです」
「変わったこと」
「この一年で、自分が変わった。言葉にできないことが増えた。整理できないことが増えた。でも、それが悪いとは思わなくなった」
「そうか」
「一年前は、全部言語化しようとしていた。情報として処理しようとしていた。でも、今は、整理できないことを、整理できないまま持っている」
「それが、変わったことか」
「一つ目の変わったことです。二つ目は、届けたいと思うようになった」
「届けたい?」
「誰かに、知っていてほしいと思うようになった。今日笑ったこと。今日、目が少し熱くなったこと。猫を貸してもらったこと」
レインが静かに聞いていた。
「以前は、そういう気持ちがあまりなかった。でも、あなたが言ってくれた。相手に知っていてほしいから書く、と」
「俺が言った」
「それを聞いてから、届けたいと思うようになった。あなたに」
最後の一言が、少し早く出た気がした。
でも、出てしまったから、取り消さなかった。
レインが少しだけ間を置いてから、言った。
「俺が話す番だ」
「はい」
「一年間、お前のことを考えていた」
「手紙に書いてくれました」
「手紙に書いた以上のことを、今夜話す。手紙では、まだうまく言葉にできなかった部分がある」
「聞かせてください」
「俺は、孤児院で育った。家族がいなかった。学院に来てからは、師匠がいた。でも、師匠は師匠であって、家族ではない」
「知っています」
「誰かのことを、これだけ考えたことがなかった。お前の手紙が来るたびに、お前が今日何を感じているかを考えた。重い時は重いと言っていい、と言ったのは、お前に言っていてほしかったからだ」
「わかっていました」
「わかっていたか」
「手紙を読んだ時、わかりました」
「そうか」
レインが少しだけ目を伏せた。
「俺にはまだ、うまく言葉にできないことがある。でも、一つだけ言える」
「どうぞ」
「お前のことが、大事だ」
暖炉が燃えていた。
エリナは、レインの言葉を受け取った。
整理しようとしなかった。
受け取った。
それだけ。
「レイン」
「何だ?」
「私も、同じです」
言葉にしようとして、うまくいかないことが多かった。
でも、今夜は、これだけ言えた。
私も、同じです。
レインが少しだけ、口の端を動かした。声には出なかった。でも、笑った。
「同じか」
「同じです」
「それで、十分だ」
しばらくして、フィオナとゴードンが戻ってきた。
フィオナがテーブルを見て、二人の顔を見て、何も言わなかった。
でも、席に着く前に、エリナにだけ聞こえるように小さく言った。
「いい顔してる」
食事が終わって、外に出た。
冬の王都の夜だった。
石畳が、冷たかった。
空に、星が出ていた。
ゴードンが先に宿の方へ歩いていった。
フィオナが少し遅れて、エリナに言った。
「今夜の話は、後で全部聞かせてもらうから」
「フィオナ」
「何?」
「ありがとう」
「どういたしまして。詳細は明日ね」
フィオナも歩いていった。
エリナとレインが、石畳の上に並んで立っていた。
「ルシェムに帰るのか?」
「明日、帰ります」
「俺も、学院に戻る」
「そうですね」
「でも、また来る」
前に、同じことを言ってくれた。
最初の時は「来るかもしれない」だった。
二度目は「来る」になった。
今夜は、また「来る」と言った。
「待っています」エリナが言った。
それが、今夜言えた一番大事な言葉だった気がした。
宿に戻って、部屋に入った。
エリナは机に向かって、荷物の中からセレーナへの手紙を取り出した。
昨夜書いた手紙。帰ってから渡すつもりだった手紙。
もう一行、付け加えた。
『届きました。帰ります。』
それだけ追加して、また封をした。
ランプを吹き消した。
暗い部屋で、少しだけ目を開けていた。
今夜、一年後の約束が果たされた。
レインが言った。お前のことが、大事だ。
自分が言った。私も、同じです。
整理しなかった。
でも、あることは確かだ。
エリナ・アッシュフォード、八歳。
今夜、届いた。
それが今夜、一番大事なことだった。
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